神界の掟
「ゴーディー!」
大事にしていた指輪を放り投げるゴーディーに、アティアは絶望を感じ始めていた。女の魔力のせいかわからないが、ゴーディーの心が自分から離れて行く。
陶酔した瞳でラミアを見つめている。ゆっくりと二人の顔が近づく。
「やめてぇぇぇぇ~!!! ゴーデイーお願い! 目を覚まして!!」
アティアの叫びは、ゴーディーに届かない。
ラミアの唇が、ゴーディーの唇と重なった。
二人は、熱い口づけを交わした。
ゴーディーは、甘美で猥雑な快楽の入口へと誘い込まれていく。
「やだ、やだ、やだよぉ。ゴーディー。お願い、やめて!」
アティアの顔が、涙でぐしゃぐしゃだ。手足をバタバタ激しく動かすが、縄は解けない。懐に隠していた魔剣が、アティアに反応して激しく振動している。
その様子を見ていたオルクスが動いた。ラミアに仕えている男たちの首の後ろを手で叩き、気絶させる。それから、アティアの縄を解き始めた。
「オ、ルク、ス」
「泣くな! ラミアは今、快楽の情事に溺れていて、俺の行動に気が回らない。魔剣を使え!」
「うん」
「あいつと戦えるか? 俺は、手を出せないぞ」
「だい、じょうぶ。やれる――」
アティアは、よろめきながら立ち上がった。涙を右手でゴシゴシと拭い、大きく息を吐く。丹田にグッと力を込めて、魔剣を鞘から引き抜いた。
七色の光が、洞窟内に広がる。
「くっ、なんだ、この光は⁈」
眩しい光に目が眩むラミア。
「うっ」
魔剣の光で、ゴーディーが意識が少し戻ってきたようだ。
「ラミア! ゴーデイーを離せぇ――――!!!」
アティアが剣を振り上げ、ラミアに向かっていく。
「ゴーディー、早くそこから逃げてぇ!」
訳がわからぬまま祭壇を降りようとしたゴーディーの体に、何かが巻き付いた。
「ぐっ」
巻き付いたのは、ラミアの下半身だった。それは、びっしりと鱗に覆われた蛇の尾。魔剣の光を浴びて、ラミア本来の姿がさらけ出されたのだ。
「くっ、眩しい! その剣を捨てろ。さもなくば、この男を絞め殺すぞ‼」
蛇の尾が、ゴーディーの身体を締めつける。アティアの動きが止まった。
「早く、剣を捨てろ!」
アティアは、剣を握る両手に力を込めた。
ここで、剣を捨てたら勝ち目がないことを理解していたからだ。
今すぐ、ラミアをこの剣で切り殺したい。
でも、これ以上一歩も動くことはできない。
「早く、剣を捨てろぉぉぉぉ~!」
ラミアは苛立っていた。さらにキツくゴーディーを締めつける。
「うっ」
ゴーディーの顔が歪む。
これ以上は危険だと判断したアティアは、持っていた剣を放り投げた。
「剣を捨てたわ。ゴーディーを返して!」
そう言いながら、ゆっくりとラミアに近づく。
「ふん。こんな上等な獲物を離せるか。セレン、その剣を拾いその女を刺せ!」
「はい、ラミア様」
セレンは、ラミアに言われるがまま、床に転がる魔剣を拾った。
「セレン、目を覚まして! このままでは、あなたのお兄さんがあいつに食べられちゃうのよ‼」
セレンには、アティアの声が聞こえないらしい。虚ろな瞳で剣を振り上げ、アティアに近づいていく。
が、突然、魔剣が大きく輝いた。刹那、「キャー」という悲鳴がセレンから上がり、そのまま倒れ込んでしまったのだ。
「なっ、なんだ? どうしたのだ?」
突然の出来事に慌てるラミア。この隙をつきアティアは魔剣を拾い上げ、ラミアの頬を切りつけた。
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~
ラミアはゴーディーを離し、今度はアティアを締めつけた。
「よくも私の美しい顔に傷をつけたな! 許さん!!!」
全身の骨が砕けそうなほど、ぎゅうぎゅうと体を締めつけてくる。カランっと、魔剣がアティアの手から落ちた。アティアの意識が遠のく。
「アティア!」
ゴーディーは、アティアを助けようとしたが、まだ体が動かない。
「くそっ!」
その時、オルクスが動いた。魔剣を拾い上げ、ラミアに突きつけた。
「お前、神界の掟を……」
「ふん。俺は、そんなものに縛られない」
「小娘を助けるために神が掟を破るなんて…… まさか、あの紅い瞳は『神愛の刻印』なのか? 噂で聞いたことがある。少女と神の――」
ラミアの話を遮るように、オルクスは剣でラミアを引き裂いた。
「ギャ~~~~~~~~~~~」
ラミアの断末魔が響き渡る。そして、オルクスが消えた。
「オルクス! オルクス――――!!!」
悲痛なアティアの声が、洞窟内に反響する。
ポロッ、ポロッ、ポロッ。
小さな石ころが、天井から落ち始めた。
「アティア、ここから逃げるぞ! 洞窟が崩れる。ほら、セレンも!」
正気を取り戻し、体の自由を取り戻したゴーディーが叫ぶ。無我夢中で、三人は崩れ落ちる洞窟から這い出した。
「アティア、セレン。大丈夫か?」
「私は、大丈夫」
アティアが答えた。
「……」
セレンは、相変わらず反応しない。
「セレン! おい、セレン!!」
「ラミアが、セレンの心は死んでいると言ってた……」
「えっ?」
セレンは無表情のまま、ゴーディーを見つめている。
「―—どういうことだ? おい、セレン! しっかりしろ‼」
ゴーディーが体を揺らしても反応はない。
「セレンは大丈夫なのか?」
「ばば様なら、何とかしてくれるかもしれない」
「……そうか」
ゴーディーは、アティアをじぃーっと見つめていた。
「なに?」
「えっと。確かに、アティアだよな?」
「うん。あっ……そっか。私、変装していたんだ」
「ちょっと、驚いた。俺、なんだか朦朧としているし…… 幻覚でも見ているのかと」
「何があったのか、覚えていないの?」
「あぁ。気がついたら、洞窟が崩れそうになっていた……」
「——そう」
「ごめんな。なんか、大変なことに巻き込んだみたいで」
「ううん」
暗い海の中を一艘の船がやって来た。ケイだった。
「ケイ様。どうして私たちがここにいるとわかったのですか?」
「大シビュラ様がね、『関与できません!』というアポロ神を脅して、アティアの居場所を教えてもらったの。良かったわ、みんなが無事で!」
ボロボロの三人は、ばば様とケイのお陰で、無事にキメリアに戻ることができた。
しかしアティアがどんなに呼びかけても、オルクスが姿を現すことはなかった。
♢ ♢
屋敷に到着すると、ばば様が泣きながら三人を迎えてくれた。
「今度ばかりは、もう会えぬかと思ったぞ」
「すみません、ばば様。俺のせいでアティアも危険な目に合わせてしまって……」
ゴーディーが謝っている。
「いやいや、無事で何よりじゃ。妹さんの様子は?」
「それが……」
セレンは無表情のまま、何も語らない。
「ふむ。心の治療が必要かもしれんのう」
ばば様は、セレンの頬を両手で包み込み、その瞳を覗き込んだ。
「うん? 長い間操られていたわりには、黒い物が薄くなっておるな」
ばば様の言葉に反応するように、アティアの胸の中の魔剣が軽く振動する。
「もしかして、魔剣の光に触れたからでしょうか?」
「ほぉ。なるほどのぉ。闇の部分が、少し浄化されたのかもしれん。まぁ、これで何とかなるじゃろう」
「良かった」
アティアがポツリと呟く。
ばば様は憔悴しきっているアティアをじっと見つめていた。その視線に気づいたアティアが、低い声でいう。
「ばば様…… オルクスが――」
「消えたか?」
「……はい」
アティアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れだした。
「泣くな…… オルクスがどうなったのか、今からアポロに訊ねてみよう。ゴーディー、少しの間セレンを見ていてくれ」
「はい、もちろんです」
ゴーディーは、一人では歩くことのできないセレンをベッドへと運び休ませることにした。
ばば様は、アティアと共にアポロ神殿に向かう。
「アポロよ、教えてくれ。神界の掟とはなんじゃ」
「これはこれは、我が地上の花嫁よ。今日もまた、美しい」
「そんな世辞はいらぬと言っているだろう」
「はいはい。神界の掟とは、ハムラビ法典のようなものですよ。目には目を・歯には歯を。つまり、命には命を」
「そんなっ! じゃあ、ラミアを殺したオルクスは、死んでしまったの?」
アティアが泣き崩れた。
「私のせいだ。私のせいでオルクスが―― オルクス! お願い、もう一度姿を現して」
むせび泣くアティアの耳に、ばば様の叫び声が聞こえた。
「オッ、オルクス! 生きていたのか?」
ばば様が、腰を抜かしている。
「えっ?」
アティアが顔を上げると、そこにはいつもと変わらぬオルクスの姿があった。
「なぜ、俺の名を呼びながら泣いている?」
「——だって、オルクスが死んだって」
「俺は、生きている。あの蛇女は、ラミアの名を語った魔物だ。神ではない。神ではない者を殺めても、俺は死なない」
「えっ? ……そう、だったの」
「あの蛇女、ゴーディーのオシリスの指輪に触れたとき火傷をしただろう? 邪神とはいえ、神ならば火傷はしない。だから、おかしいと思ったんだ」
「なんと、魔界の神の名を騙った
「あぁ、そうだ」
オルクスは腕組みをしながら、答えた。
ばば様は、じとーっとした目でアポロを見る。
「アポロよ。お前さん、それに気づかず……?」
アポロは、ばば様の視線を外して上を見上げ、鼻の頭をポリポリとかいた。
都合が悪いと言うか、身の置き所がないというか、ちょっと困った顔をしている。
そんな二人の微妙な雰囲気を破ったのは、オルクスだった。
「アティア、お前はまだそんな恰好をしているのか? もしかして、それが気に入ったとでも?」
オルクスは、気の抜けた顔をしているアティアをからかう。
アティアは、慌てて黒髪のかつらを外した。
「時間がなかったんです! 今すぐに、着替えてきます!!」
アティアは、ぷりぷりしながら屋敷内の温泉へ向かった。
アティアは、オルクスに会えて嬉しかったのに、素直に喜ぶ自分の姿を見せるのが嫌で怒ったふりをした。
良かった。オルクスが生きていた。
安堵の涙を誰にも見られないように、そっと拭いながら足早に歩く。
♢ ♢
「ところで、オルクスよ。蛇女がラミアであったとしても、お前さんは、切ったんじゃないか?」
ばば様が少し意地悪な目をして、オルクスを見た。
「……いや」
「嘘をつくでない。お前は、自分の命よりローゼストの魂を守りたいんじゃろ?」
ニヤニヤするばば様。
驚くオルクス。
「どうして、ローゼストのことを⁉ ア~ポ~ロ~。お前かぁ⁈」
「違う、違う! 僕じゃない!! きっとウェヌスです」
慌てて、アポロが消えた。
「ふぉふぉふぉっ。今日は、愛の歌が聞けなくて残念。残念」
「ばばぁ……わざと、やったな」
オルクスがばば様を見る。
「なんのことじゃ? なんだか、今、ばばぁと言われた気もするが、最近は耳が遠くてのう。わしの気のせいじゃろう」
と、とぼけるばば様。さすがである。
改めて、『女は、いくつになっても怖い』と思うオルクスであった。
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