ウェヌスの愛

 ゴーディーは、再び川へと飛び込んでいた。水に流されて行くアティアを抱き寄せ、岸へと引き上げる。


 血の気を失しなった顔。紫の唇。冷たい体。

「アティア! しっかりしろ、アティア!!」


 意識はない。しかし、心臓は動いている。

「アティア! 息をしろ! 頼む‼」

 

 ぐほっ。


 アティアは、水を吐き出し意識を取り戻した。

「大丈夫か?」

 ずぶ濡れのゴーディーが、心配そうに顔を覗き込んでいる。


 助かったんだ……


 アティアは両手で顔を隠した。ゴーディーに今の自分を見られることが嫌だった。生きていることが悲しかった。


 ゴーディーはアティアの無事を確認すると、ウェヌスの元へと走る。遠ざかって行く足音が、今の二人を表しているようだった。

 

 いつの間にか、アティアの傍らにオルクスがいた。

「死んでしまうかと思ったぞ」

「——死んでもいいと思った」

「……」

 オルクスは微かに瞳を揺らし、何も言わずに消えた。アティアが初めて見るオルクスの悲し気な、苦し気な瞳だった。


「アティア気がついたのね、良かったわ。私のせいで、危ない目に合わせてごめんなさい」

 ウェヌスがゴーディーに抱きかかえられて、アティアのそばにやって来た。隣に座る。


「大丈夫?」

 心配する素振りでアティアの顔を両手で包み込む。

 

 ざわっ。

 指先が触れた瞬間、アティアの全身に虫唾が走った。

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!!

 私に触らないで! 

 今すぐ、目の前から消えて!

 そんな風に、ウェヌスを嫌っていく自分自身も許せなかった。


「アティア、俺は、馬と荷物を取りに行って来る。直ぐに戻るから、ウェヌス様とここで待っていてくれ!」

 ゴーディーはそう言い残し、走って行く。

 

 待って! 行かないで! 二人っきりにしないで!!

 心の叫びは、ゴーディーに届かない。



「ねぇ、アティアちゃん。どうしてロープが切れたと思う?」

 ウェヌスは、アティアを見つめている。まるで傷ついた小動物を弄ぶような、そんな目をしていた。アティアはウェヌスから視線を外し、黙っていた。


「川に落ちるように、私が細工したからよ」

 驚く様子のないアティアの態度に、ウェヌスはがっかりしていた。


「やっぱり、気づいてたのね。つまんない」

「……どうして、そんなことを?」


「あなたが、ゴーディーに未練たらたらだからよ!」

 ウェヌスが語気を荒げた。それから、勝ち誇ったように言葉を続ける。


「でも、これで分かったでしょう。ゴーディーは、川に飛び込んで真っ先に私を助けてくれたわ。つまり、あなたより私の方が大切ってことよ!」


 アティアは何も言えなかった。

 そう、ゴーディーにとって大切な人は私じゃない。ウェヌス様なんだ。

 

 ゴーディーが馬を連れて戻って来た。アティアは、急いで馬に飛び乗り「先に戻るね」と呟いて、走り去る。


「えっ? ちょっ、ちょっと待てよ、アティア!」

 呼び止めるゴーディーを振り切り、馬を走らせた。


 早く、早く、シヴュラの屋敷へ行こう。ばば様の所へ行こう。


   ♢      ♢


 青ざめた顔で馬を走らせて来たアティアの様子に、ばば様は驚いた。

 まず、ずぶ濡れで体の冷え切っていたアティアを屋敷内の温泉へ浸からせる。


 アティアの体は温まったが、心はまだ冷え切っていた。

 両腕で、自分の体を抱きしめる。

「ふっ、小さな胸…… 私って、男の子みたいだな」

 アティアは呟いた。


 泉で見たウェヌス様の体は、美しかった。女の私でさえ、ごくりと唾を飲み込んだ。

「こんな体じゃ、敵うわけないか……」

 アティアは服を着替え、ばば様の元へ急いだ。


 ばば様は、ローズマリーのお茶を用意してくれていた。

「アティア、一体何があったのじゃ」

「……はい。ミティーの花を摘みに行って、ロープが切れてしまい川に落ちました」


「ロープが切れた? 解せぬのう。あのロープにはアポロの力を授けておる。そう簡単には、切れぬはずじゃ。まさか? ウェヌス様が⁈」

 こくり、アティアは無言で頷いた。


「なんと! ゴーディーは、ウェヌス様と一緒か?」

「——はい。もうすぐ、ここに来ると思います」


 程なく二人は到着し、服を着替え温かいお茶を飲む。

 ばば様は、神経を尖らせていた。ウェヌスのえげつないやり方に、腹を立てていたのだ。


「ウェヌス様よ。アポロのロープが切れてしまったようだな」

「えぇ、驚いたわ。私もアティアも川に落ちてしまって…… でもね、ゴーディーが真っ先に私を助けてくれたの」


「ほぉ、真っ先にのう。ゴーディー、ウェヌス様は神じゃ、溺れ死んだりせんぞ」

「あっ! ……そうでしたね。あの時は、ただ無我夢中で…… ウェヌス様に、万が一のことがあっては一大事だと、思ったんですが……」

 しどろもどろで、ゴーディーは答えた。


「ゴーディー、私の伴侶として、神界に来てくれるわよね?」

 ウェヌスはゴーディーの腕に手をまわし、にっこりと微笑む。


 しかしゴーディーは、ウェヌスの絡めた手を振りほどくと、頭を下げた。

「申し訳ございません。私は、神界には行けません。伴侶にもなれません」


 ウェヌスの顔が歪んだ。目がきりきりと吊り上がっていく。全身が怒りで小刻みに震えている。

 ウェヌスは、ゴーディーの腰に下げていた短剣を鞘から抜き取った。


 きらりと光る刃を、ゴーディーの喉元に突きつける。

「私に逆らうなら、命を貰うことになるが……」

 静かにドスの効いた声だった。


「やめてぇ――!」

「やめるんじゃ、ウェヌス様!」

 アティアとばば様が、ウェヌスの暴走を止めようとする。


「私は、神よ。この男の命、生かすも殺すも私の自由。ゴーディー、もう一度聞くわ。私の伴侶として神界に来なさい!」

「——嫌です。私はアティアを愛しています。ウェヌス様の伴侶にはなれません」


「馬鹿な! では、なぜさっき、私を真っ先に助けた?」

「先にアティアを助けたら、もう貴方を助けるために川へ入らないかもしれない。そう思ったから……」


「くっ!」

 ウェヌスは短刀に力を込めた。刹那、ビリビリっと手に電気が走り、剣を落としてしまう。


「オルクス! なぜ邪魔をする!!」

「もう、その辺で止めておけ!」


 黒いマントを羽織った男が現れた。濡れ羽色の黒髪、赤い瞳。

 この時、ゴーディーは初めてオルクスを見た。


「ウェヌス、お前は、自分を本当に愛してくれる男が欲しいのだろうが、力づくでは手に入らないぞ。どうして、そんなにゴーディーにこだわる?」

「……別に、こだわっているわけじゃないわ」

「アティアのように、一途に愛されてみたいとそう思ったんじゃないのか?」

「なっ、なにを言っているの? 私を愛してくれる男は、山ほどいるのよ! 私は、いつだって愛されてきたわ!」


「お前の美しさだけを愛する男がな…… 本当に自分のことを愛しているか、お前はいつも疑っているじゃないか」

「違う! 疑ってなんかいない。私の胸で眠る男たちは、みな私だけを見ていた。私を優しく愛撫してくれた。あれは、間違いなく愛よ」


「お前が本当に欲しいのは、そういう愛ではないんじゃないのか? 人間の世界では、女が年老いて醜くなっても、それでも共に歩む男たちがいる。自分は、どうなのだろ? 醜くなっても共に暮らしてくれる男がいるのだろうか。そんな風に思ったんだろ?」


「ふん。馬鹿なことを! 私は、愚かな愛に溺れる人間を多く見てきた。所詮愛は、直ぐに憎しみに変わる。そして時に、相手の命を奪い去る。人間の世界は、愛欲と嫉妬と憎悪で、溢れかえっているわ!」


「だからお前は、愛というものが分からなくなってしまったんだな。愛と美の女神でありながら、愛がわからない……」

「違う、違う、違う!」

 金色の髪が、激しく揺れている。まるで、ウェヌスの心を現すように。


「ウェヌス様。本当は、ゴーディーの愛が自分に向くことはないって、最初から分かっておったんじゃろう」

「それは……」


「分かっていながら、奪おうとしたんじゃな。なんだか、切ないのう」

「やめろ! 人間ごときが、私を憐れむな!」


「そして、今は、あれじゃろ。『愛と美の女神が、人間にフラれた』そんな噂が立つのが怖くて、ゴーディーの命を奪おうとしてるんじゃな」

「……」

 ウェヌスが言葉に詰まる。図星だったのだ。


「お前、そんなことのために?」

 呆れるオルクス。


「まぁまぁ、オルクス。ウェヌス様も、大義名分がたてばゴーディーを殺す必要もなかろう。ゴーディーよ、あの指輪を出しなさい」

「あの指輪? あぁ、これですか?」


 ゴーディーは首から下げていた袋から、ラピスラズリがはめ込まれた指輪を取り出した。


「これは!」

 ウェヌスが、一歩後ずさった。

 




 


  




 

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