女神の罠

 突然、玄関の扉が開いた。

「ごきげんよう!」

 妖艶な香りが部屋に流れ込む。現れたのは、女神ウェヌスだった。


「ウェヌス様! どうしてここへ? 今、支度をしてお迎えに上がろうとしていましたが……」

 慌てて立ち上がり、ウェヌスを迎えるゴーディー。


「退屈だったから、散歩がてら来ちゃった」

 しなを作り、ゴーディーに抱き着く。アティアは、胸のざわめきを抑え、平静を装っていた。


「おはようございます。ウェヌス様」

「おはよ、アティア。ねぇ、今日のミティーの花摘み、アティアも一緒に来て下さらない?」

 フラウィアの瞳がアティアを捉える。強く光る眼だった。『嫌とは言わせない!』 瞳がそう語っていた。


「はい。お伴致します」

 唇を震わせ、アティアは答える。


 外に出ると、時おり強い風が吹いていた。ミティーの花摘みには、向かない天候だ。

「ウェヌス様、今日は風が強いです。花摘みは、別な日――」

「ゴーディー。私が一緒だから、大丈夫」


 ウェヌスは、人差し指をゴーディーの唇に当てて、言葉を遮った。

 アティアの顔が、赤くなる。同時に、ズクンと胸に痛みが走った。


 わざとだ。わざと私の前で、そんな仕草を……

 私の反応を見て、楽しんでいるんだ。意地悪な女神様だ。


 アティアは唇をぎゅっと噛み、馬に飛び乗った。

 馬に乗り慣れていないフリをしているウェヌスは、ゴーディーに守られるように一緒に乗る。

 二人の姿を見ているのが耐えられず、アティアは叫んだ。


「先に行って、準備をしている!」

 そう言って、馬を走らせた。


 アティアは、泣き出したかった。大きな声で泣けたら、どんなに楽になるだろう。でも、今は泣くな。そう自分に言い聞かせ、切り立った崖の上に立った。

 時おり吹いてくる強い風が、全身を恐怖で包む。こんな感覚は、初めてだった。


「怖い……」

 小さく呟いた。


 ロープの片方を近くの大木にしっかりと結び、もう片方を自分の腰にも結ぶ。

 ミティーの花は、崖から三メートル下に咲いている。小さな足場もあり、気を付ければ難しい作業ではない。


 準備を終えると、二人がやって来た。

 馬から、ゴーディーが飛び降りる。それから、優しくウェヌスを馬から抱き下ろした。どこか誇らしげなウェヌスの顔が、アティアの瞳に映る。


「では、ウェヌス様。ここでお待ちください。私は、アティアと共にミティーを摘んでまいります」

「あら、駄目よ。私が行くわ」

「何をおっしゃるのですか! ミティーの花摘みは危険なのですよ」

「でも、ミティーの花は男性が摘むことは許されないのよ」


「どういうことですか?」

 思わずアティアが叫んだ。

「知らないの? ミティーを摘むとき、強烈な匂いが出るわよね。あの匂いを男性が嗅ぐと、気を失ってしまうのよ」

 そうだったのか。それで、屈強な男たちが、川に落ちて死んでいたのか。

 

「では、ここはアティアに任せて……」

「せっかくここまで来たのだから、私も行くわ」


 ウェヌスは自らロープを体に巻いて、崖を降り始めた。慌てて、アティアも後を追う。崖を降りることを慣れていないウェヌスは、小さな足場を確認しながらゆっくりと下って行く。


「大丈夫ですか? ウェヌス様」

 崖の上から、心配そうな顔で下を覗き込むゴーディー。


「大丈夫よ!」

 その時だった。

「あっ!」

 ウェヌスが足場を失い、崖で宙づりになってしまった。


「ウェヌス様、私の手を掴んでください!」

 アティアが、左手を伸ばす。


「ウェヌス様、今引き揚げます!」

 崖の上では、ゴーディーがロープを引っ張っていた。

 なのに、スムーズにロープが上がらない。ゴツゴツした岩に引っかかり、ロープが擦れて細くなっていく。


 そんなっ! 

 アティアは焦った。このままでは、ロープが切れてしまう。


「ウェヌス様! ロープが切れます。どうか、私の手を掴んでください! 早く‼」

 ウェヌスがアティアの左手を掴むと同時に、ロープが切れた。


 くっ! 

 アティアの体が、腕が、下へ引っ張られる。でも、ここで手を離すわけにはいかない。アティアは歯を食いしばって耐えた。

 崖の上で、ゴーディーが必死にロープを引き上げていた。


「アティア、頑張れ! 今、引き上げるからな!!」

「私なら、大丈夫!」

 上を見上げ、気丈に答えるアティア。


 それから、下で宙づりになっているウェヌスに声をかけた。

「ウェヌス様、もう少しの辛抱です」

 心配するアティアの瞳に、ウェヌスの微笑む顔が映った。


 笑っている……

 なぜ? どうして?

 全身の毛が総毛だつ。


 あれは…… 何かを企んでいる眼だ。


 その時、ガクンと体が落ちた。

 えっ?

 上を見上げると、自分の腰に巻いているロープも切れかかっていた。


 あり得ない。こんなに簡単に切れるはずがない! まさかっ?


 もう一度、ウェヌスの顔を見た。

 美しい瞳は妖しく光り、花弁の唇は薄い笑みを浮かべている。


 アティアは、恐怖で身体からだが凍てついた。

 刹那、ロープが切れ、二人は川へと落ちて行った。


「アティア―———!!!」

 ゴーディーは二人の後を追って、川へと飛び込んだ。


 流れは速くない! これなら、助けられる!!

 ゴーディーは水底に落ちていく二人を探した。


 アティアが、ゴーディーの姿を捉えた。手を伸ばし、ゴーディーに助けを求める。

 しかしその手は、無情にも水を掴んだだけだった。ゴーディーは、アティアの側を通り過ぎ、ウェヌスを抱き寄せていた。


 アティアの瞳から涙が溢れる。涙は、川の水にどんどん溶け込んでいった。不意に笑いが込み上げた。


 ふっ。馬鹿だなぁ、私。心のどこかで、ゴーディーは私を一番に守ってくれると思い込んでいたんだ……

 

 伸ばした手を胸元に引き寄せ、赤子のように丸くなる。息が苦しくなってきた。でも、もっと、もっと心が苦しい。生きる力が消えていく。薄れゆく意識の中で、オルクスの声が聞こえる。


「死ぬな! ローゼスト!!」

「ローゼスト? 誰? 私はアティアよ」

 そして、意識が途切れた。




  

   

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