愛と美の女神
神殿では、険しい顔をしたばば様と、美しい女性が向かい合って話をしている。
美しい金髪。柔らかなウェーブに、光がはじく。大きなエメラルドグリーンの瞳に長いまつ毛。愛に溢れそうな唇。豊満な胸は、薄絹のドレスから少し零れている。
女性は、男を惑わす妖艶な美しさを身に纏っていた。
「ウェヌス様、何用で人間界に参られた」
「う~ん。私が人間界に来る理由なんて、決まってるでしょ」
「また、気になる殿方を見つけにか?」
「そうなの。私に相応しい男をね」
細長い人差し指を唇に軽く当て、首を傾げる。幼い少女のような仕草で。
それから、神殿の外にいるゴーディーを舐めるように見つめた。
ばば様は、眉根を寄せた。
ふ~む。ウェヌス様にも困ったものよのう。ゴーディーを品定めしておる。
ばば様は、頭をブルブルっと振るった。
「三年前に神界に連れて行った伴侶は、どうされた?」
「あぁ。屈強な男だったけれど、三年でポヨンポヨンになっちゃって。だから、人間界に戻した」
「美味い物を食べさせ過ぎたんじゃな。毎度のことながら、男をとっかえひっかえして、飽きればポイか」
「酷い言い方ね。私は、神よ。それも、愛と美の女神。恋することが、美の秘訣。恋することが、我が勤め! しばらく、このキメリアに滞在させてもらうわ。恋が成就した暁には、神界に戻るから宜しく! まぁ、成就するに決まっているけどね。ふふふ」
含み笑いをして、ウェヌスはゴーディーの元へ駆け寄った。
息を切らし神殿に着いたアティア。
ゴーディーが、女性と楽しそうに話をしている。そんな様子を見て、なぜかチクリっと胸が痛んだ気がした。アティアはその小さな胸の痛みがなんなのか、理解できなかった。
二人から身を隠すように、ばば様の元へ急ぐ。
「ばば様、客人は何用で神託を聞きに参られたのですか?」
「神託を聞きに参った客人ではない。人間界にふらりと遊びに来た、神じゃ」
「……神?」
「そうじゃ。愛と美の女神、ウェヌス様じゃ」
「えっ? じゃあ、どうしてゴーディーに神の姿が見えているのですか?」
ばば様は大きく息を吐いて、何も答えなかった。
ただ、困った顔をして、ウェヌスとゴーディーを見ている。
その様子に、アティアは嫌な感じを持った。
きっとこれから、なにかが起きる。なにかが変わる。
そう感じた。
ゴーディーの優しい眼差しが、ウェヌスに注がれている。
頬を薄っすらと紅く染めて―― アティアが初めて目にするゴーディーの顔だった。
「アティア、ウェヌス様はキメリア滞在のお伴に、ゴーディーを指名するじゃろう。もしそれが嫌なら、その気持ちをはっきりとゴーディーに伝えた方が良いぞ」
「——ばば様、私にはそんなことを言う権利はありません。ゴーディーが決めることですから」
そう答えると、アティアは神殿を後にした。
ゴーディーって、あんな顔をするんだ。
なんか、なんか、なんか、モヤモヤする。どうしてだろう?
家に向かう足取りが異様に重く感じる。
「全速力で走って、疲れちゃったかな?」
そう呟いて、石畳みを歩いた。
アティアが神殿を去ると、ばば様はオルクスを呼んだ。
「オルクスよ。訊ねたいことがある。姿を現してはくれぬか」
「なんだ?」
両腕を組み現れたオルクスは、紅い瞳でばば様を見た。
「ウェヌス様の狙いは、ゴーディーじゃな」
「あの感じじゃ、そうだろうな……」
遠い目をするオルクス。
「やはりのう。では、アティアとゴーディーは、どうなってしまうのじゃ?」
「さぁな。神の介入だ。先は見えぬ」
「ウェヌス様を説得して、神界に帰ってもらうことは?」
「無理だな。あいつの機嫌を損ねたら、アモルに『黄金の矢』と『鉛の矢』を引かせるぞ。そうなれば、人間界が混乱する」
「ふむ。『黄金の矢』で男女の恋を操り、『鉛の矢』で憎み合いさせるのか。それは、厄介じゃ」
「私もアポロも、手は出せない。しばらく、様子を見るんだな」
これから先に起きる波乱。わかっていても、手を出せないもどかしさ。オルクスは眉間にしわを寄せたまま消えた。
「はぁ―――― よりによって、ゴーディーに目を付けるとはのぅ。ウェヌス様にも困ったものじゃ」
ばば様は、誰に言うともなく呟いた。
♢ ♢
ゴーディーは、ばば様にウェヌスが愛と美の女神と聞かされ、驚いた。どうして、自分に神の姿が見えるのかと聞いたら、キメリアで神のお伴するためだと言われ、直ぐに納得する。
ばば様は、ゴーディーに『女神に狙われておるぞ』とは言えなかった。
ウェヌスは、朝から晩までゴーディーと共にいる。
ゴーディーは、自分の仕事ができないと、少し困ったようにぶつぶつ言いながらも毎日、出掛けて行く。
そんなゴーディーを見送るたび、アティアの心は痛んだ。
その訳の分からぬ痛みを消すように、胸の奥に広がる
静かな森に入ったアティアは、大きく息を吸い込んだ。
森の新鮮な空気に全身が満たされる。心が穏やかになる気がした。
森の中の小さな泉の側で咲き誇る、カモルの花。白く可愛いその花は、乾燥させお湯に入れて飲むと、心地よい眠りへと導いてくれる。
夫を戦地へ送り出し、不安な夜を過ごす女性たちが買い求める薬草だった。
カモルの甘い香りが、アティアを包む。よくわからない心のモヤモヤが軽くなるような気がした。
花を摘むアティアの耳に、男女の楽しそうな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に反応し、思わず大木の後ろに身を隠す。
声の主は、ウェヌスとゴーディーだった。
どうして、ここに?
アティアは動揺し、胸を抑えしゃがみ込んだ。
どうして、そんな行動を取ってしまうのかわからない。
ただ、二人の姿を見るのが嫌だった。
気づかれちゃいけない! どうしよう
アティアは、ぎゅっと目を瞑り、耳を塞いだ。何も見ないように。何も聞かないように。自分の存在を消してしまうように。
なのに、塞いだ耳から、ウェヌスの艶っぽい声が聞こえてくる。
「ゴーディー、ここは素敵な場所ね。涼しくて、気持ちがいいわ。歩いてきたから、少し汗ばんじゃった。ちょっと、失礼……」
「なっ、なにを‼」
焦るゴーディーの声。思わず、目を開けるアティア。
そこには、一糸
「きれい……」
アティアの唇から思わず零れた言葉。
不意にウェヌスの視線が絡んだ。煌めく金色の瞳が、確かにアティアを捉えている。
アティアは目を逸らすことができない。ことの成り行きなど見たくない。この場から、直ぐに立ち去りたいのに、体が、足が動かない。心臓だけが、激しく脈打っている。
そんなアティアの様子を楽しむように、ウェヌスが微笑んだ。
そうか。二人がここに来たのは、偶然なんかじゃない。偶然じゃないんだ!
よくわからない涙が、アティアの頬を伝った。
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