ユリウスの罠
キメリアでの穏やかな生活が一年過ぎた。
アティアの短く切った髪は、肩下まで伸びていた。キメリアでは、髪を染める必要も眼帯をする必要もない。アティアは、素のままで暮らしている。自分を隠さずに生きられることに喜びを感じていた。
ゴーディーも村の暮らしに馴染んで、のんびりとしている。ただ、剣術の腕が衰えないように、アティアと二人で毎日鍛錬をしていた。
鼻歌を歌いながら、ぶどう畑を歩くアティアの前にオルクスが現れた。
いつもと様子が違う。アティアを真っすぐに見つめる顔が、どこか険しい。
「えっと――オルク、ス様?」
戸惑ったアティアは、上目遣いでオルクスの様子を伺った。
「もうすぐ、あいつが来る」
「あいつ……?」
「穏やかな暮らしの中で、忘れたのか?」
「まさかっ! ユリウス⁈」
「——そうだ」
胸の奥に突き刺さっていた名前が、記憶が、鮮明に呼び起された。
もう自分のことは諦めてくれたかもしれないという期待は、あっけなく崩れ落ちる。
「私は、死ぬの?」
「いいや」
「そうよね、私の力が欲しいから、絶対に私を殺さないわね。でも――」
「一生、囚われの身だろうな」
「嫌よ! 絶対に嫌!! あいつの操り人形になるくらいなら、死んだ方がましだわ!」
「とにかく、気をつけろ。忠告はしたぞ」
そう言うと、オルクスは消えた。
その頃、ユリウスはキメリアに入ろうとしていた。しかし、不思議なことに道が分からなくなり、キメリアに入ることができない。
「ちくしょう。サビヌス、一体どうなってる?」
ユリウスが苛立った。
「ユリウス様、キメリアという村は、神々に守られた村です。神々が、我々の行く手を阻んでいるとしか……」
道案内をしているサビヌスが、恐る恐る答えた。
「ふんっ! なら、俺はこれ以上キメリアに近づくこともできないな」
何かを考えていたユリウスが、ニヤリと笑う。
「近づけないなら、ここに来てもらえばいいだけのこと。サビヌス、この近くに家はあるか?」
「はい。狩人の家が数軒あります」
「よし、案内してくれ。それから、誰か獣を仕留めてくれ。猪でも豚でもなんでもいい。仕留めたら、その血をこの瓶に入れて持って来てくれ」
「はい、かしこまりました」
奴隷たちには、ユリウスが何を考えているのか分からなかった。ただ、機嫌を損ねないように神経を使い、ユリウスの命令を遂行するだけだった。
血の入った瓶が、ユリウスの元に届いた。
ユリウスはその血を、頭からかぶり服をズタズタに切り裂いた。
「臭いな。でも、仕方がない。ふん。あの日ゴーディーに騙されたやり方が、こんなところで役に立つとはな……」
ユリウスは、かつての出来事を思い出したのだ。
「いいか、お前たちは近くで待機していろ。私は今からあの家に行って来る」
「かしこまりました」
ユリウスは、小さな家の扉を激しく叩いた。
「助けて下さい!」
中から、子どもと母親が出て来た。血だらけのユリウスを見て驚く。
「キメリアに向かう途中、盗賊に襲われて……」
「まぁまぁ! 早く、中に入って!! その傷を手当てをしないと――。 困ったわ。深い傷だと、お医者様を呼びに……」
「大丈夫です。私は、医学を学んだ者です。幸い傷は浅く、薬も持っております。水だけ用意して頂ければ助かります」
ユリウスは家の中に入れてもらうと、腰に下げた剣を置き荷物の中から布を取り出した。
「あのう、水をどうぞ」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を言い、頭を下げる。それから傷口を水で洗い、布を巻き始めた。
「大変な目にあってしまいましたね。キメリアへはどんなご用件で? もしかして、シビュラの神託を貰いに?」
「いいえ。キメリアに住む、義理の妹に会いに来たのです。時は一刻を争うのですが、この傷では……」
「キメリアなら、ここから近いですよ。息子にお使いを頼みましょうか? どなたに何を伝えるか教えて頂ければ、お役に立てると思いますが……」
母親の申し出に、深く深く頭を下げて感謝の意を表す。
「是非ともお願い致します。キメリアに住むシヴュラのアティアに伝言をお願いしたい」
「あぁ、紫と紅い瞳のシビュラ様ですね」
「そうです。キメリアに向かう途中、父・セネカが盗賊に襲われ瀕死の状態。今すぐクルトの泉に来てほしいと、そう伝えて下さい」
「オトー聞いたかい? 今すぐ、ばば様の所に行っておいで。紫と紅い瞳のシヴュラ様に、セネカ様が大変だって伝えるんだよ。わかったかい?」
「うん! わかったよ、おっかちゃん」
オトーは、走ってキメリアに向かった。
「いろいろとありがとうございました。私は、泉へ戻ります。義父のセネカが心配ですので……」
「シビュラのばば様が、きっと助けて下さいますよ。お気をつけて」
「ありがとうございました。これは、お礼です」
そう言うと、金貨を一枚差し出した。
「こんな大金、とんでもない!」
母親はあまりの大金に驚いてしまい、受け取ることを断った。この山に住む者たちはみな、親切で純朴で人を疑うことも知らない者たちだ。
「命の恩人ですから、このぐらいのことはさせて下さい」
と、ユリウスは優しい笑みを浮かべた。
若く品のある男の笑みに、母親の心はとろけた。うっとりとした瞳で金貨を受け取る。
「まぁまぁ、こんな大金を。あなたは、本当に立派なお方ですね。神様のご加護がきっとありますよ」
「そう言って頂けて、光栄です。ありがとうございます」
ユリウスは、人心掌握する術を知っていた。特に、ご婦人の心を捉えるのは造作もないことであった。
オトーは山を駆け下り、広いぶどう畑を抜け、シヴュラの屋敷の戸を叩いた。
「ばば様! ばば様!」
「山の民、オトーじゃないかい? そんなに慌ててどうした?」
「大変なんだ! 紫と紅い眼のお姉ちゃんいる?」
「おるぞ。アティア、小さなお客さんだ」
「あのね、セネカって人がね、盗賊に襲われてクルトの泉にいるよ。動けないから来て欲しいって」
「父がっ!」
「アティア、慌てるでない。今からその者たちを、水鏡で視てみよう」
ばば様は美しい水瓶の中を覗き込み、透明な水に息を吹きかけた。波紋が静かに広がり、水が揺らめいている。
「……おかしい。霧のようなものに遮られて、何も映らない」
ばば様の胸の内に、不安が広がる。嫌な予感だ。
「クルトの泉へは、わしも参ろう。オトー、ゴーディーという若者が
「うん! わかった」
オトーは、元気に走って行った。
「アティア、クルトの泉へ案内しよう。しかし、罠かもしれんぞ。気を引き締めてな」
「はい、ばば様」
慌てていたアティアは、大切な魔剣を部屋に置いたままクルトの泉へと向かって行った。平和な暮らしの中で、魔剣の存在が小さくなっていたのだ。
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