脱出

 満月の夜だった。

 月の光が強い。

 逃げるなら、今日だ。

 失敗は、死に繋がる。

 フラウィアは、覚悟を決めた。


 ユリウスは娼館に遊びに出かけたのか、夕飯時に帰宅しなかった。帰って来ても、フラウィアの部屋に来ることはない。

 

 フラウィアはベッドに腰かけ大きく息を吐く。頬を両手で挟み、奴隷に気づかれないように気合を入れた。唇に触れた指が、微かに震えている。


(あの人は、この唇に触れてもくれなかった。今頃は、他の女と……)


 涙が頬を伝う。酷い男だとわかっている。それでも、愛されたかった。もし、愛されていたら――――

 そんなことを考えてしまう自分が、哀しく怖かった。


 フラウィアが寝たふりをすると、奴隷たちは部屋を出て、扉に鍵をかけた。

 少し時間をおいて、鏡台に閉まっておいた髪飾りを取り出すと、シーツを突き破る。大きな音を立てないように、慎重に。

 

 破いたシーツで長い紐を作り、所々にコブを作った。ベッドの脚に紐の端をしっかり結ぶと、窓から外に垂らす。見張りはいない。

 髪飾りをそっと懐に閉まった。


(万が一の時には、武器になる。逃げられないその時には、この髪飾りで喉をつけばいい)


 大きく息を吐き、紐に捕まりながら、ゆっくりと降りて行くフラウィア。

 

(大丈夫、大丈夫よ。怖くない、怖くないわ。)


 何度も自分に言い聞かせる。素足に土が触れた。思わず、喜びのあまり声を上げそうになる。慌てて口を抑え、走った。セネカの住む屋敷を目指して。


 はぁ、はぁ。

 息を切らし、セネカの屋敷の前に立つ。激しく扉を叩いた。使用人が慌てて扉を開けた。


「フラウィア様! どうされたのです⁈」

 肩で息をしながら、途切れ途切れに声を絞り出す。

「はぁ。はぁ。お、とう、さま、は?」


「部屋で、お休みになっております」

「———そう」

 首筋の汗を拭い、ふらふらと歩き出そうとして、そのまま倒れた。


 


 冷たい水が、口の中に溢れる。無意識に水をごくりと飲み、フラウィアは目を開けた。

「フラウィア! 気がついたか?」

 意識がぼぉーっとしている。

「おとう、さま?」

「そうじゃ。一体、どうしたんじゃ?」


 ユリウスの恐ろしい顔が脳裏に浮かぶ。恐怖が、フラウィアの全身を貫く。呼吸が浅くなり、激しい動悸と眩暈に襲われた。

「大丈夫か、フラウィア!」


 なんとか呼吸を整える。

「——お父様、アティアは生きています」

「……やはり、そうじゃったか」

 セネカが呟く。


「お父様は、知っておられたのですか?」

「いいや。なんとなくじゃが、生きていると思っていた」


「ユリウスは、アティアを捕まえるつもりです。早く、アティアを助けないと、ユリウスに酷い目にあわされるわ!」

「まさか……! お前のその背中の傷は、ユリウスが⁈」

 フラウィアは、こくりと頷いた。


 セネカは、後悔した。

 アティアがユリウスを警戒していたのは、こういうことだったのか。アントニウスの息子だから、いい奴に違いないという思い込みが、わしの目を曇らせた……。


 どんなに後悔しても、もとには戻らない。

 今は、ユリウスより先にアティアを見つけなければ、あの子が危ない。一刻の猶予もない。


「フラウィア。ティトゥス皇帝の宮殿に行き、かくまってもらいなさい。私が手紙を持たせる。あのユリウスでも、宮殿には容易くは入れまい」

「ティトゥス皇帝の……?」


「あぁ。わしとティトゥスは、同じ共同住宅インスラで生まれたんじゃよ。向こうの方が年下だから、弟分だったんだ。事情を話せば、お前のことをかくまってくれるはずじゃ」

「——知らなかったわ。お父様は、これからどうするのですか?」


「アティアがどこにいるか、情報を集める」

「アティアの行きそうな所に、心当たりはないのですか?」

「……プリミゲニアの葬儀で、キメリアはどこにあるかと聞いてきた。そうか、キメリアか」


 こうしてフラウィアは、ティトゥス皇帝の宮殿へ向かった。

 セネカは信頼できる奴隷使用人を連れ立ち、キメリアに向かう。




 一方、フラウィアを逃がしてしまった奴隷使用人たちは、ユリウスに鞭で痛めつけられていた。


「お前らのせいで、俺の計画が丸潰れだぁぁぁぁぁ~!!!!」

 

 ピシッ! ピシッ! ピシッ!


 鞭が獣のように、奴隷たちの皮膚を切り裂いていく。罵声を浴びせ、容赦なく鞭を振っても、ユリウスの怒りはおさまらない。


 数人の奴隷が、屈強な奴隷剣士に担がれ、大きな檻の中へと放り込まれた。自分の身にこれから起きることを知っている奴隷たちは、泣き叫び、ユリウスに許しを請う。恐怖のあまり失禁し、意識を失う者もいた。


 檻の中に、一頭、また一頭、腹を空かせたライオンが入れられた。


 奴隷たちに逃げ場はない。一人、また一人と、ライオンの餌食となっていく。生臭い血の臭いが、見学をしているユリウスの鼻腔をくすぐる。ゾクゾクする臭いだ。飛び散った血を、指ですくい舌の上に置く。痺れるような快感が全身を駆け巡った。

 

 奴隷たちをライオンの餌にしたことで、ようやくユリウスの怒りはおさまった。冷静になると、自分が次にどんな行動をすればいいのか、先が見えてくる。


(急いでキメリアに向かい、セネカより先にアティアを捕えなければ!)


 ユリウスは、多くの奴隷剣士を連れてキメリアに出発した。



 



 ユリウスがローマを出発してすぐに、多くの奴隷をライオンの餌にしてしまった話が、アントニウスの耳に届いた。フラウィアに何をしたのかも、一緒に伝わる。アントニウスは、息子の残虐性・非情さに驚きを隠せない。


 頭を抱え茫然としているアントニウスの隣で、妻のユリアは冷ややかな目をしていた。


(そう、あの子には悪魔の血が流れている。悪魔の血、悪魔の子、恐ろしい子)

 心の中で、そう呟く。

 

 我が子でありながら、他の子どもたちと同じように愛せない。

 ユリアは、ユリウスのことを一度も抱きしめたことがなかった。


 ユリウスもまた、自分が母親に愛されていないことを知っていた。 






 




 


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