フラウィアの悲劇

 ほどなく、結婚の儀が盛大に行われ、フラウィアは幸せの絶頂にいた。

 二人の新居も用意されていた。

 しかし、フラウィアに対して紳士的だったユリウスの態度が、結婚後一変する。


「仕事が忙しいのです」

と言っては、新居に帰って来ない。


「お仕事ばかりしていると、お体に障りますよ」

と優しく声をかけても、無言で背を向ける。


「ユリウス様、私なにか、あなたの気に障るような振る舞いをしたのでしょうか?」

 久しぶりに夕食を共にしたとき、フラウィアは相手の機嫌を損ねないように優しく訊ねた。

「…………」


「あのぅ、今晩はゆっくりできますよね?」

「剣闘士たちの様子を見に戻ります」


「そんなっ……ここの所、ずっとお仕事ばかりじゃないですか。たまには……」

 フラウィアは、つい溜まっていた不満をぶつけてしまった。


「ちっ!」

 ユリウスは舌打ちをし、バンっとテーブルを両手で叩いた。


「あ~ぁ。やっぱり結婚相手を間違えたなぁ――」

「——えっ?」

「私はもともと、シヴュラの少女・アティアと結婚したかったんですよ。でも、アティアは死んだと聞かされた。それで仕方なく、あなたと婚約。ところが、結婚式の前日、アティアが生きているという情報が入った。でももう、この結婚を取りやめることは出来なかった。好きでもない、なんの価値もない、そんな女と結婚しなければならなかった自分が、不憫で、可哀そうで、泣いて暮らす毎日ですよ」


 そう言ったユリウスは、右手にワイングラスを持ち、何事もなかったかのように一気に飲み干す。


(今、私の目の前にいる人は、誰? 私の知っているユリウス様ではないわ! 一体、何が起きているの?)

 

 激しく動揺するフラウィアに、ユリウスが追い打ちをかける。

「あなたと食事をすると、気分が悪くなる」

 そう言うと、椅子から立ち上がった。


「待って! 今、言ったことは嘘でしょ? 嘘だと言って! お願い!!」

 泣き叫びながら、ユリウスにしがみつく。その手を、彼は冷たく振り払った。

「私に汚い手で触れるな」

 まるで、ゴミを見るような目をしていた。


「そんなぁ…………」

 泣き崩れるフラウィアを、ユリウスはジっと見つめていた。瞳の奥に、残虐な赤い光が宿る。

 体の奥底から沸き上がる衝動を抑え切れなくなったのか、腰から鞭を外す。慣れた手つきで、床をピシャリ・ピシャリと打ち始めた。


「ひっ⁈」

 声にならない悲鳴が、フラウィアの口から零れる。近づく鞭のしなりに、恐怖で動くことができない。それでもなんとかユリウスから逃げようと、四つん這いになって扉へと向かった。


 その姿を見たユリウスは恍惚の表情を浮かべ、持っていた鞭でフラウィアの背中を叩いた。

 ピシッ、ピシッ、ピシッ。

「ふっ、ふっははははははは……!」

 ユリウスの狂った笑い声が、部屋中に響き渡る。

 

 今まで味わったことのない痛みが、フラウィアの全身を襲った。

「誰か……助けて!」

 フラウィアの助けを求める声に反応する者はいない。

 ユリウスの奴隷たちは、みんな見て見ぬふりをしている。


 ピシッ、ピシッ!

 ピシッ、ピシッ!


 何度も鞭が背中に振り下ろされる。高価な絹で作られた白いストラに、赤い血が滲んでいく。

「あっ……うっ、うっ、うっ……」


 突然の痛みと恐怖で声を失ったフラウィアは、ただ背中を丸め嗚咽していた。


 暴力と恐怖が、この世界を制すると信じて疑わないユリウスは、これでフラウィアの心を支配したと確信した。

「お前は、今日から私の奴隷だ」

 そう言い残し、ユリウスは何処かへ出かけて行った。


 体と心を傷つけられたフラウィア。

 もう立ち直ることは出来ないだろうと、奴隷たちは思った。

 フラウィア様も、我々と同じくユリウス様の奴隷になったと……

 気の毒だと思ったが、助ける術はない。

 自分たちも、ユリウスという蜘蛛の巣に囚われ身動ききないのだから。


 自分の本性をさらけ出したユリウスは、悠々と新居で生活し始めた。

 ユリウスにとっては、今までの奴隷たちと違い、美しく着飾ったプライドの高い女がボロボロになっていく様は、見ていて気持ちが良かった。この新しいおもちゃをぐちゃぐちゃにして、早く捨ててしまい衝動に駆られている。

 セネカにバレなけいように、用心すれば問題ない。そう考えていた。


 フラウィアは、ユリウスの鞭からも屋敷からも逃げることができず、毎日ビクビクしていた。もちろん、そんな暮らしに一刻も早く終止符を打ちたいと願った。しかし、奴隷たちが常に見張っている。助けを求めることも、逃げ出すことも不可能だった。


 そんな日が続き、フラウィアの心は虚ろになっていた。今や、思考をやめユリウスの傀儡のように生きる道へと入りかけていた。


 フラウィアの髪が崩れかけた頃、髪結い女が一人、部屋にやって来た。

「奥様、香油の匂いが充満しますので、窓を開けますね」

 そう微笑み窓を開けた。

 外から流れ込んで来た風が、フラウィアの頬を撫でる。


(風に触れたのは、何日ぶりだろう? 風って、こんなに気持ちの良いものだったかしら?)

 フラウィアの傷ついた心を、風が、一瞬抱きしめてくれた。


「どうぞ、こちらへ」

 鏡台の前の椅子に腰かける。

 鏡に映ったのは、生気を失いやつれた女の顔だった。


(これが、私?)


 久しぶりに見た自分の顔に驚く。

「奥様? 大丈夫ですか?」


 フラウィアの身を案じているのだろうか?

 久しぶりに優しい言葉をかけられて、フラウィアの心は揺れた。涙が零れそうになったが、ぐっと堪えて鏡を見つめる。


(罠かもしれない―――― この人を信じちゃ駄目)


 フラウィアはすっかり用心深くなっていた。

 少しだけ、自分を取り戻したフラウィアは、髪結い女の腕にある傷を見た。


 この人も、ユリウスに鞭で叩かれている。

 恐らく背中には、もっと傷があるだろう。

 ユリウス、なんて冷酷で残酷な男…… 

 なぜ私は、あの男の本性を見抜くことができなかったの? 

 初対面のときにアティアの態度がおかしかったことに、もっと注意を払うべきだったんだわ。

 私はこのまま、死ぬまでビクビク怯えて暮らさなければいけないの?


 いやっ! いやっ! いやよ‼


 私は、自分の人生を生きたい!

 握られた運命を自分で変えたい!

 この屋敷から、ユリウスから逃げなきゃ。


 この日、空っぽになっていたフラウィアの心に、火がついた。

 屋敷を逃げ出す決心をしたフラウィアは、慎重に行動した。

 ユリウスに怯えているフリをしながら、周りの状況を観察する。


 フラウィアの行動・言動、全て奴隷使用人に見張られている。恐怖で心を支配されている奴隷たちは、決してユリウスを裏切らない。彼らの中に、協力者を見つけることは不可能だった。


 ユリウスは、自宅に商人を呼んでは、妻のために高価なアクセサリーや美しいドレスを買い求める。愛妻家を装うためである。


 事実、ユリウスの本性を知らない宝石商たちは、『ユリウス様は優しい旦那さまで、奥様を本当に愛されておる。フラウィア様は、幸せ者よ』と、噂した。

 当然、その噂がセネカの耳に届くように計算していたのだ。頭のキレる男だった。


 フラウィアには、一人になる時間も、味方になってくれる人間もいない。さすがにこれでは、八方塞がりだ。


(こんなとき、アティアならどうするだろう? あの子なら、どうやってこの屋敷から逃げる?)


 フラウィアは、アティアのことを考えた。

 どんなときでも、前を向いて生きていく妹。あの子なら、決して諦めない。そう考えると勇気が沸いてくる。

 

 みんなから好かれるアティアに嫉妬していたけれど、今思い出すのは、アティアの強さと笑顔。そのアティアに危険が迫っている。なんとしても、父にそのことを知らせないと……


 フラウィアは焦っていたが、冷静に状況を分析する知恵を持っていた。


 部屋は、二階にある。

 夜、奴隷たちは部屋から出て扉に鍵をかける。

 私が、一人になれる時間は、ここだわ。

 でも、扉からは逃げられない。

 窓は?


 人間の体が通る大きさの窓から下を覗く。

 

 高い! この高さから、私が飛び降りるのは無理だわ。

 でも……アティアなら、多分、ここから逃げる。

 どうやって? どうすればいい?


 フラウィアは、鏡台の前で紅を塗った。化粧をしながら、思考を巡らせる。ふと、

 ユリウスから贈られた髪飾りに目が行った。


(これなら、いけるかもしれない!)


 フラウィアの瞳が、小さな希望で輝き始めた。


 


 

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る