奴隷からの解放
セネカ家は、ユリウスの計らいにより、アントニウス邸でお世話になっていた。そこで、アティアの帰りを今か今かと待っている。
しかし戻ったのは、血と泥で汚れた傷だらけの奴隷使用人・ゴーディーだけだった。その手には、白金の髪が一束握られている。
ゴーディーはアティアに言われた通り、盗賊に襲われて亡くなったとセネカに説明した。誰もがその言葉を信じ、多くの者が涙を流した。
若き少女の死を悼み、その死を疑う者はいない。セネカも涙を堪えながら、遺髪を受け取った。
フラウィアは、妹の死を半信半疑で聞いていた。
(元気だったあの子が死んだ? 不思議な力を持ったあの子が――?)
どうしても信じられなかった。どこからか、笑顔で飛び出して来るんじゃないかという気がした。
アティアの死を受け入れたわけじゃないのに、フラウィアの瞳から涙が零れた。
性格が違い過ぎて、仲良くできなかった妹。でも、もう二度と会えないと思うと、涙が止まらず勝手に零れてくる。次から次へと、とめどなく流れる。
セネカがフラウィアを抱き寄せ、背中を優しくさすった。
その様子を離れて見ていたユリウスは、誰にもぶつけられない怒りに囚われていた。
(ちくしょう! やはり、私もポンペイに残るべきだった。そうすれば、アティアを盗賊なんぞに殺されずにすんだのに――)
とうとう、込み上げてくる強い怒りを抑えることが出来ず、ユリウスはゴーディーの胸倉をつかんだ。
「ゴーディー! なぜ、お前だけ生きて帰って来た? 本当にアティア様を命懸けで守ったのか? 剣を携えた奴隷なら、腕をもがれても、足を失っても、目をえぐられても、主人を守るのがお前の務めだろうが!!! シビュラの少女に、アルビノの少女にどれほどの価値があるのか、お前、わかってんのかぁ⁉」
どすの利いた低い声でそう言うと、大きな拳でゴーディーの頬を殴った。ゴーディーはよろめき、そのまま床に倒れた。
「——ユリウス様。申し訳ありません」
唇から、つぅーと血が流れる。
「ユリウス様、その辺でゴーディーを許してはくれないか」
セネカが二人の元に歩み寄る。我に返ったユリウスは、バツの悪そうな顔で謝罪した。
「セネカ様、申し訳ありません。つい、取り乱してしまいました。私は、部屋に戻ります」
そう言うと、セネカに背を向け足早に去って行った。
「ゴーディー、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
唇から流れた血を、右手で拭う。セネカが、ゴーディーの肩をポンポンと叩き、言葉をかける。
「ゴーディーよ。少し、休みなさい。まずは、その傷の手当をしないとな……」
「いいえ、セネカ様。私は、アティア様を守れませんでした。どうか、このまま、私を捨ておいて下さい」
「捨て置く――?」
「はい。このままでは、セネカ様に申し訳が立ちません。私を、捨ててくれて構いまさん。もちろん、どこかへ売って下さっても……」
セネカは、無言でゴーディーの顔を覗き込んだ。そして、何かを探るようにゴーディーの瞳を見つめる。
「ゴーディー、これより先は、わしとフラウィアを守ってはくれぬか? それとも、他に守りたい者でもおるのか?」
「そっ、それは――」
セネカは、瞳を左右に揺らし言葉に詰まるゴーディーに違和感を覚えた。
(いつものゴーディーらしくないのう)
そう思っていると、ゴーディーが慌てて言葉を繋いだ。
「セネカ家を守るのが、私の務めです。でも、アティア様を守れなかった。どうか私に罰を!」
「——ふむ」
目を瞑り、胸の前で腕を組むセネカ。それから、ゆっくりと口を開いた。
「ゴーディー、お前はもともと、アティア専属の使用人だ。アティア亡き今、お前の仕事はない。セネカ家から出て行くがいい!」
「えっ? ちょっと待って、お父様! 彼は、我が家の『最高級品の奴隷』なのよ。放り出すなんて、勿体ないわ!」
フラウィアが驚き反対をする。
「確かにゴーディーは、今回アティアを守れなかったわ。でも、それは、仕方のないことだったのよ。きっと、これがアティアの運命だったんだわ」
「フラウィアよ。わしが決めたことじゃ」
「でも……、ゴーディーには、私の専属奴隷使用人になってもらいたいの」
先ほどまでの涙は何処へやら。フラウィアは、必死に食い下がる。ゴーディーには、それだけの魅力があった。今までは、妹の奴隷使用人と諦めていたが、今なら自分の物にできるのだ。このチャンスを逃すことはない。
「フラウィア。お前の気持ちはわからないでもない。だがな、わしはこれから、ゴーディーの顔を見るたびに、アティアを思い出す。それは、辛い。辛いんじゃ」
父にそう言われ、フラウィアは返す言葉がなかった。そう、父の気持ちを考えれば、自分の我儘を通すわけにはいかない。
「でも……。えぇ、そうね。お父様の言う通りですわ。ごめんなさい」
これ以上なにを言っても無駄だと悟ると、フラウィアは折れた。大好きな父を困らせることはできない。
「ありがとう、フラウィア。さぁ、ゴーディー、どこへでも行くがよい! 今まで、わしに尽くしてきただけの礼はやる。奴隷の身分からも解放してやろう。ただし、もう二度と、わしの前に姿を現さないでくれ!!」
そう言うと、たくさん金貨の入った袋を用意した。それから、奴隷解放の金の腕輪を、ゴーディーに右腕にはめる。
(奴隷解放? セネカ様は一体何を考えて――?)
今度はゴーディーがセネカの瞳を覗く。その言葉に隠された真意を確かめるために。
セネカの瞳からは、悲しみの影が消えているように思えた。
(……セネカ様は、アティアの無事を信じている?)
それほどに力強い光が、その目にあったのだ。そして、セネカは言葉を続けた。
「ゴーディーよ。命ある限り、アティアの魂を地獄の悪魔から守るのじゃ。アティアの魂が安らかに眠れるように―― それが、お前の使命。よいか、命ある限り、アティアの魂を守れ!」
「——かしこまりました」
ゴーディーは、セネカに深く、深く頭を下げると、キメリアへと向かった。
セネカ様は、わかっておられるのだ。なにかの理由により、アティアがローマに来られなかったことを。
俺が、嘘をついていることも。
だから、俺を奴隷の身分から解放した。自由に、動けるように。そして、俺にアティアを守るようにと、他の人にわからないように命じたのだ。ゴーディーは、セネカの想いを胸にアティアの元へ急ぐ。
アティアを守るために、俺は生きる!
そのために、誰よりも強くなるんだ!!
アティアに出会ったあの日、自分自身に誓った言葉。
黒い眼帯をした不思議な少女。
自分の命より大切な人。
ゴーディーを乗せた馬が、月に照らされたローマ街道を駆け抜けて行った。
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