ヴェスヴィオ山の噴火

 ゴーディーは、アティアの姿が見えなくなるまでずっとその背中を見続けた。

 今すぐ追いかけたい衝動を必死で抑えている。


 アティアは、きっと大丈夫だ。俺は、俺の務めを果たすんだ!

 そう、自分に言い聞かせた。


 アティアの姿が見えなくなると、腰に下げていた短剣を鞘から抜く。右手にグッと力を込める。

 ふぅーっと、大きく息を吐いた直後、自らの腕や足を切りつけた。血が、滴り落ちる。鮮紅色の血を手のひらでぬぐい取り、顔や服にこすりつけた。そして、服をビリビリに引き裂き、土をこすりつけ、盗賊に襲われた体を装った。

 

 あのユリウスを騙すには、これぐらいしないと無理だ。

 そうゴーディーは考えたのだ。深い傷ではないが、血はまだ止まらない。それでも馬に飛び乗った。


 アティア、頼む。どうか無事でいてくれ。

 セネカ様にこの髪を渡したら、すぐにお前を追いかける。

 それが、セネカ様を裏切ることになるとしても……


 ゴーディーは、アティアの無事を祈りながらローマへと急いだ。


      ♢      ♢


 二人が、ローマ街道で別れてから、二日後のことだった。


 大地をひっくり返す大きな轟音が、ポンペイに鳴り響いた。

 街が、激しく揺れる。

 今までで一番、大きな揺れだった。建物が倒壊し、人が下敷きになった。それでもまだ、最近続いている地震の延長だと思っている者たちがいた。


 異変は、すぐに起きた。ヴェスヴィオ山から、大きく激しい火柱と噴煙があがったのだ。巨大な噴石が、空から降ってくる。建物を、人を容赦なく潰していった。噴煙はあっという間に青空を飲み込み、昼が、暗澹たる夜へと変わった。


 恐怖で動けなくなった人。

 泣き叫ぶ人。

 神々に助けを求める人。

 逃げ惑う人々。

 山からの大量の火砕流と毒ガスが街を襲い始める。

 老若男女、身分に関係なく命が奪われていく。

 恐怖と絶望が、ポンペイの街を包んだ。


 アティアを偽物のシヴュラと罵倒した老婆が、アポロ像にすがりつき、泣き叫んでいる。


「アポロ様。哀れなこのババをお助け下さいまし! どうか、どうか、このババにご慈悲を―――‼」

 間もなく、この老婆は毒ガスで意識を失いこと切れた。直後、大きな噴石が老婆の頭をぐしゃりと潰す。噴石に潰され死ねずにすんだのは、アポロの慈悲であったのだろうか。それを知る由はない。


 こうして、美しかったポンペイの街が灰の中へと消えて行った。


 

「やれやれ、忙しくなるな。せっかく、助かるチャンスをやったのに――」

 下界を見下ろしていたオルクスが呟く。


 西暦七九年八月二十四日の出来事だった。

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