囚われる未来
ゴーディーは一人、屋敷に残りアティアの帰りを待った。夜が更けて、街の灯りが消え始めてもアティアは戻らない。
(アティアは大丈夫だ。きっと、戻って来る)
何度も、何度も、自分に言い聞かせる。空に浮かんだ三日月と星の煌めきが、ゴーディーの不安を少しだけ沈めてくれた。
風が、宵闇の中から馬の蹄の音を運んできた。
(間違いない! アティアの馬だ‼)
ようやくアティアが戻った。灯りを近づけると、右頬が赤く腫れている。
「その顔はどうした?」
「あぁ、ちょっとね。大丈夫、大したことはないから」
アティアは腫れた頬を右手で撫でると、舌を出しおどけた顔をした。ゴーディーに心配をかけたくないのだろう。
「そうか。大したことがなければ、それでいい」
ゴーディーはそう呟いて、アティアの右手を取り頬の腫れをチェックする。
馬に乗って走っていたアティアが、頬を殴られるとは考えにくい。石でもぶつけられたか……そう思いながら、タオルを水で濡らし無言で差し出した。
「ありがとう、ゴーディー。みんな、街を出たみたいね。私たちも夜が明けたら、すぐに出発しましょう」
「わかった。アティア、食事は?」
「う~ん。お腹は空いてないなぁ。それよりも、眠い」
「そうか、大変な一日だったしな。ゆっくり、休め」
ゴーディーは、アティアの頭をポンポンと軽く叩いた。
「えぇ。ゴーディーも、ゆっくり休んで。じゃ、おやすみなさい」
そういうと、アティアは部屋に入った。ランプの薄明りのなか、オルクスが立っている。
「あの子の家族は、街を離れたよ。良かったな」
そういうと、あのオルクスが優しい眼をした。つられて、アティアも安堵の笑みを浮かべる。
(そうか。あの子の未来は変えられたんだ。勇気をだして良かった。誰かを救えて、本当に良かった)
そう思いながら、鏡に自分の姿を映した。頬の傷は大したことはない。すぐに消えるだろう。そのとき、鏡に映った紅い瞳が揺れ始めた。右目が疼く。アティアは、紅い瞳を覗き込み、思わず息を飲んだ。
恐ろしい自分の未来が、蜃気楼のように揺らいで見える。
(うそっ! うそだ!!)
走馬灯のように、駆け足で視える世界。心臓が、締め付けられる。
(落ち着け! 落ち着け! 落ち着くんだ!!)
思わず鏡から目を逸らし、苦しくなった胸を両手で抑える。呼吸を整え、もう一度鏡に向かった。先ほど視えた未来は消えている。もう、なにも視えない。
「オルクス、さっき視えたのは、私の未来なの?」
すがるような瞳で、オルクスに訊ねた。声が震えている。
「変えればいい――」
感情を含まない言葉を残して、オルクスは消えた。
(未来を変える? どうやって……?)
アティアは両手で自分を抱きしめた。きっと、オルクスは助けてくれない。自分でなんとかするしかないんだ。
『シビュラとして生きるなら、キメリアに行きなさい』
母の言葉が蘇る。
(そうだ。キメリアに行こう)
アティアは涙を堪えて、綺麗に結い上げられている髪をおろした。
アティアとフラウィアの髪型は、腕の良い髪結い使用人のおかげで、とても評判が良かった。手の込んだ髪は、この時代の美と富の象徴でもある。
その整えられた髪をおろし終わると、櫛を入れ丁寧にすき始めた。ほのかな灯りに浮かぶ、白金の長い髪。アティアの大好きな髪。何度も何度も櫛を入れ、愛おしそうに髪を撫でた。
しばらくそうしていたが、やがて倒れ込むようにベッドに入り眠りに落ちた。
翌朝、身支度を整えて部屋から出てきたアティアの姿に、ゴーディーは驚く。
「——なぜ、髪をおろしている?」
「この方が楽だからよ。でも一つに結んだ方がいいわね」
アティアは長い髪を、後ろで一つに束ねた。それから、ララリウムに祈りを捧げる。最後の祈りは、いつもより長かった。
テーブルの上には、朝食が用意されている。
「パンと、ラクダのミルクを少しだけ残してもらった。軽い食事しか用意できなくて申し訳ないな」
「いいえ、これで充分よ」
二人は静かに食事を終えると、屋敷を出た。アティアは自分の馬に飛び乗ると、明るく声をかける。
「ゴーディー、行こう」
いつもと変わらぬ笑顔だ。
でも、なにかが変だ。
ゴーディーの胸の中で、不安が広がる。
馬に乗り、前を走るアティアの背中を見つめながら、言いようのない胸騒ぎを覚えていた。
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