ヴェスヴィオ山噴火の神託

「わかった。馬を用意しよう」

 ゴーディーは、ポンポンとアティアの頭を軽く叩く。

「無理すんなよ」

「うん」

「俺が、アティアの後ろを付いて行くから。変な奴が来たら、俺が――」


「それは、駄目! ゴーディーはお父様の所へ行って」

「えっ?」

 ゴーディーの右腕をぎゅっと掴むアティア。小さな手から微かな震えが伝わってくる。恐怖を胸に押し込めて、アティアは前を向こうと頑張っている。ゴーディーにはそう感じられた。


「アティア。俺は、お前のそばにいる。お前を守る奴隷剣士だからな!」

「奴隷じゃないわ! ゴーディー、あなたは、家族よ」

「えっ?」


 アティアの澄んだ瞳が、ゴーディーに真っすぐに向けられる。

「ありがとう、アティア」


 ゴーディーは、兄としてアティアを抱きしめたかった。でも、それは許されない。自分は、奴隷なんだ。そう、自分に言い聞かせた。


 アティアはゴーディーの瞳の奥を覗き込む。その瞳の中にに、死の影は見えない。


(大丈夫。ゴーディーは、死なない)

 安堵して、両肩からふっと力が抜けた。


「ゴーディー、お父様に早くこの街を離れるように伝えて。信じてくれるかは、わからないけれど……」

「セネカ様なら、信じてくれるさ。いつでも、アティアの味方だ。そうだろ?」

「そうね」

「すぐに馬を用意する。アティアは支度を」

「えぇ」


 

 アティアは、丈の短いトゥニカを着て、馬に飛び乗った。走りだそうとしたアティアを、ゴーディーが引き留める。

「アティア、俺が戻って来てから一緒に行った方が良くないか?」

「大丈夫、心配しないで。あまり時間が無いから、ゴーディーはゴーディーのやるべきことを。私は私のやるべきことをする」

「頑固だな、お前は。わかった。言う通りにしよう。あぁ、そうだ。これを忘れてるぞ!」

 

 そう差し出されたのは、あの黒い眼帯だった。

 ずっと、力を封じ込めていた眼帯。紅い瞳を隠してきた眼帯。幼い頃から、人前で外すことのなかった眼帯。


「それは、もういらない! 私、シヴュラとして生きるから‼」

 迷いない力強い声でそう答えると、アティアは馬を走らせた。

 

 ゴーディーは、駆け抜けるアティアの背中を見送った。

『頼む! 無茶はしないでくれ』そう祈りながら、セネカの元へ急ぐ。


 広場フォロに向かうアティアは、美しいヴェスヴィオ山を見つめた。もうすぐあの山が噴火するなんて、想像ができない。

(でも私は、自分がみたことを、自分が感じたことを信じる!)

 そう自分に言い聞かせた。


 広場フォロに到着すると、アティアは大きな声で叫んだ。

「みんな、聞いて! もうすぐ、ヴェスヴィオ山が噴火して、この街は死の灰に覆い尽くされる! 一刻も早く、この街から離れて!!」


 広場フォロにいた人々が、馬上のアティアを見つめる。初めて見る紅い瞳に、みな、あっけに取られていた。


「あの、紅い眼は、シヴュラか……?」

 誰かが、茫然と呟く。しかし、その言葉は、酔っぱらいの大声にかき消された。

「おめぇ、さっきもそんな話をして、母親の葬儀をめちゃくちゃにしてたなぁ! みんな、心配いらねぇ。こいつの言ってることは、嘘らしいぞ」

「嘘なのか? じゃ、逃げなくてもいいんだな?」

 人々は、混乱していた。その騒ぎを聞きつけて、先ほどの泣き女がアティアの前に立った。アティアの行く手を塞ぐように、持っていた杖を振りかざす。


「この街の人々を、偽りの神託で惑わすつもりか!」

 杖を振り上げ、恐ろしい形相でアティアを睨む老婆。曾祖母への憎しみを、ひ孫のアティアにぶつけるかのように悪意をむき出しにしている。

 アティアは、馬上から老婆を見下ろして言った。


「私の神託が偽りなら、それはそれで、いいではないですか。だって、山は噴火せず、誰も死なずに済むのですから。でも、もし、偽りでなかったら? 多くの人たちが亡くなってしまうのです。私には、守りたい人たちがいます! あなたに何と言われても、私は神託を届けることをやめない!!」

 力強い声でそう言うと、アティアは馬を少し後退させ、老婆の脇を通り過ぎた。老婆は、悔しさに顔をゆがめている。


 その頃セネカは、屋敷に戻り使用人たちを集めていた。

「わしは今まで、アティアの言葉を聞いて商いをしてきた。そして、この家を大きくしたのじゃ。あの子には、不思議な力がある。それだけは、確かだ。正直、あの子がシヴュラかどうか、それは、わしにはわからん。ただ、娘を信じておる。この街から、急いで離れることにする」


「そんな―― お父様、確かにあの子、勘がいいわ。でも、今回の行動と言動は、異常よ。お母様を失ったショックで、きっと、おかしくなってしまったのよ」

 反対するフラウィアの手を取り、ユリウスが優しく囁く。

「フラウィア様。私は、セネカ様の言う通り、一旦この街を離れた方がよいと思います。大切なフラウィア様に、もしものことがありましたら、私は一生後悔します」


(大切なフラウィア様ですって!!)


 その言葉に、フラウィアは舞い上がった。頬をバラ色に染め、体をくねらせ甘い声で呟く。

「ユリウス様が、そう仰るなら、私、従いますわ」


「よし、これで決まったのう。ゴーディー、急いで支度をしてくれ!」

「承知いたしました」

 

 ゴーディーは、すぐに何頭もの馬車を用意し、旅の準備と高価な物品・財宝を運び出すよう多くの使用人に命じる。準備が整った順に、馬車はローマに向かって出発した。


「セネカ様、私は、アティアと共に後からローマに向かいます。どうか先に、この街を離れて下さい」

 ゴーディーがセネカにそう伝えると、「私も残りましょう」と、ユリウスが申し出た。途端に、フラウィアの顔色が変わる。嫉妬と怒りに震える指で、ユリウスのトーガを掴んだ。

「ユリウス様が残られるなら、私も残りますわ」

 怒気を含んだ声だった。


「フラウィア様が、残るのは危険です。どうか、みなと一緒にお逃げください。私のことなら、心配はいりませんよ」

「いいえ! ユリウス様を置いて、先に出るわけには参りません!」

 フラウィアは、一歩も引く気はない。二人のやり取りを聞いていたセネカが、やれやれという感じで声をかける。


「ユリウス様のお気持ちはありがたいが、貴殿になにかあればアントニウスに申し訳が立たん。ここは、ゴーディーに任せておけばいい。二人は準備ができ次第、わしと共にローマへ出発しよう」


 セネカにこう言われては、ユリウスも引き下がるより他にない。

「かしこまりました」

 そう答えたものの、はらわたが煮えくり返っていた。


(くそっ! アティアに近づくチャンスだったのに。この女は、邪魔ばかりする!!)


 ユリウスは、込み上げてくる不満や苛立ちを押し隠し、セネカの言う通りローマへと出発した。

 

 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る