オルクス
「……何者?」
思わず声をかけた。
その声に驚き、振り向く男。
透き通るような白い肌。
後ろに束ねた濡れ羽色の長い髪。
端正な顔立ち。
なにより驚いたのは、燃えるような紅い瞳。
その姿は、人間ならざる者——
アティアはゴクリと唾を飲み込み、男を凝視した。
男もまた、アティアを凝視していた。
「ほぉ、紫と紅い瞳のアルビノ……」
深く低い男の声が、頭の中に響く。
その声で我に返ったアティアは、男の視線を遮るように急いで眼帯をした。
「えっ?」
(―—男の姿が消えない。眼帯をしたのに、なぜ視えているの?)
男と同じ色の紅い瞳は、視えない世界に息づく者の姿を映し込む。
しかし、黒い眼帯をすれば、それらの世界は消えるはずだった。
今まではそうだった。
それなのに、男の姿がハッキリと目の奥に映し出されている。
背中をつぅ――っと、冷たい汗が伝う。
アティアは恐怖に負けないように、両手を強く握りしめた。
「アティア、お帰り。もしかして、死神が視えているの?」
弱々しいプリミゲニアの声が、アティアの耳に届く。
「し、に……がみ?」
「えぇ。私の側にいるのでしょ?」
「……なにも、なにもいないわよ。お母様」
震える声で、自分が視ている者の存在を否定した。
「嘘をついても駄目よ。私には、わかるの。自分の命の火が尽きかけていることが…… そして、あなたのその瞳が、私ではない誰かに向けられていることも。そう、とうとうシビュラ(巫女)の血が目覚めたのね」
消え入りそうな声で、プリミゲニアが呟く。
「シビュラ?」
プリミゲニアは、遠くを見つめながらゆっくりと話し始めた。
「シビュラとは、視えない世界に息づく者の姿を見、その声を聞き、人々に信託する者。その偉大な力を持つ者は、時に神と崇められ、時に悪魔と蔑まれる。私の祖母も、シビュラの力を持っていたの。あなたの左目と同じ紫の瞳をしていたわ。私が十歳の時だったわ。偽りの神託を流したと、人々に罵られ処刑された。祖母は、亡くなる前に私にこう言ったの。『お前は、シビュラの力を持つ子を産むだろう。その子は、紅い瞳の印を持っているはず。力を封じ込めたければ、この黒い眼帯をさせなさい』と。でも、その眼帯の力はもう無くなってしまったのね……」
幼い頃から、この黒い眼帯のせいでアティアはいじめられていた。
子どもは、無邪気で純粋で残酷だ。
自分たちと異なる者を、悪意なくいじめてくる。
きっと、眼帯もせず紫と紅い瞳の姿を晒せば、もっともっといじめられていたかもしれない。
眼帯をすることで『可哀そう』という同情から、アティアを庇護してくれる子どもたちもいた。
アティアは、『傷ついた右目を持つ可哀そうな子』ということで同情を引き自分の身を守ったのだ。
それは不本意な生き方だったが、身を守るためには仕方のないことだった。
まさか、この忌まわしい眼帯が恐ろしい力を封じ込めていたなんて、そんなこと思いもしなかった。
でも今は、眼帯のことなんかどうでもいい。
アティアは、母から死神を引き離したかった。
このままでは、あいつに冥界へ連れて行かれてしまう。
焦るアティアに母は声をかける。
「アティア、私から死神を引き離すことはできないわ。これが、私の運命なの。これから先、あなたには過酷な運命が待っているかもしれない。もし、そのシビュラの力が手に余るようなら、その右目を死神に差し出しなさい。そうすれば、力は消えるでしょう。でも、シビュラとして生きていくなら、キメリアへ向かいなさい…… そこに、は――」
そう言うと、プリミゲニアは瞼を閉じた。
「えっ? ——おか、あさま?」
「————」
やがて呼吸が止まった。
静かに、眠るように魂が旅立とうとしている。
死神の白く細い手が、プリミゲニアに触れた。
「待って! 母を連れて行かないで!!」
死神が、アティアを見つめる。
人間の死を、悲しみをなんとも感じていない。
そんな冷たい表情をしていた。
ぞっと全身が粟立つ。
部屋が、真っ暗な闇に包まれていくようだった。
「私の名はオルクス。また、会おう」
そう言うと、プリミゲニアの魂を胸に抱き姿を消した。
「待って! お願い! 母を連れて行かないで‼」
オルクスのマントを掴もうと伸ばした両手は、空を掴んだだけだった。
ハッとして、ベッドに横たわるプリミゲニアの顔を覗く。
まだ、生きているようだ。
「お母様! お願い、お母様! 目を開けて!!」
どんなに強く体を揺らしても、プリミゲニアの目は開かない。
「いやだ。いやだぁ――――!!!」
アティアの泣き叫ぶ声が、部屋中に響き渡った。
ゴーディーが扉を開け、部屋に飛び込んで来た。
アティアの様子を見て息を飲む。
使用人から話を聞いたゴーディーは、こうなるかもしれないと覚悟はしていた。
けれど…………
母のように自分を育ててくれた人の死は、悲しくて切なくて現実を受け入れることができない。
ゴーディーは涙を堪え、ゆっくりとアティアの元へ歩み寄る。
少しずつ冷たくなっていく母にすがりつき泣き叫ぶアティアに、ゴーディーはそっと寄り添っていた。
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