黒いマントの男
ローマの祭典で残酷な剣闘試合を観戦した夜、アティアはなかなか眠れなかった。
「あ~ぁ、いつもならベッドに入って直ぐに寝ちゃうんだけどな」
そう呟くと、ベッドから降り部屋の窓を開ける。
心地よい風が、アティアの体を突き抜けていった。
セネカとフラウィアは、アントニウス邸からまだ帰宅していない。
晩餐の途中で退席するのは失礼だと、無理をしているに違いなかった。
アティアは、晩餐に行かずにすんで心底ホッとしていた。
空を見上げる。
母親のいるポンペイまで続く漆黒の空には、星が煌めいていた。
アティアは思わず、星を掴むように手を伸ばす。
療養している母の顔が浮かび、胸の奥が震える。
微かな胸の震えが、なぜか次第に大きくなっていく。
アティアは慌てて、窓を閉めた。
(どうして、こんなに胸が騒ぐの?)
布団の中で、何度も何度も寝返りを打つ。
あまり眠れないまま朝を迎えた。
ポンペイの自宅にいるときは、日の出と共に起き、
それがアティアの日課だ。
宿に泊まっている間は、
祈りを済ませ、食堂へ向かうアティア。
テーブルには、小麦で作られた丸いパン・ワイン・高級なラクダのミルク・はちみつ・チーズ・卵・果物が並んでいた。
アティアは、ちぎったパンをラクダのミルクに付けて食べるのが好きだった。
でも、今日はなんだか食欲がない。
「どうしたアティア?」
いつもと違う娘の様子に、具合の悪そうなセネカが声をかける。
二日酔いか食べ過ぎか、その両方で調子が悪いのかもしれない。
「お父様、私、ポンペイに帰っていいかしら?」
「何か、気になるのか?」
「えぇ……」
「——わかった。お前の好きなようにすればよい」
セネカは知っていた。
アティアの『なんとなく』という勘は、大切にしなければならないことを。
でも、フラウィアは納得できない。
「お父様、私はまだローマに滞在したいですわ。今日も、ユリウス様と剣闘試合を観に行く約束をしてますのよ」
フラウィアは、余程ユリウスのことが気に入ったらしい。
その気持ちもセネカは、大事にしたかった。
「お前は、わしと一緒に予定通り二日後に帰るとしよう。アティアはゴーディーと共に、一足早く帰りなさい」
フラウィアの気持ちを汲み取って、セネカはローマに残ることにした。
一足早く帰れることになったアティアは少しホッとして、パンにミルクを付けて口に放りこんだ。
♢ ♢
ローマからポンペイまで、馬車で四日から五日間ほどかかる。
夜通し馬を走らせることができないため、アティアは焦っていた。
(一刻も早く家に帰りたい!)
アティアの気持ちを汲んで、ゴーディーも先を急がせた。
四日目の夕方、ポンペイの入り口『マリーナ門』に到着する。
門を抜けると、四十八体の円柱に囲まれた立派なアポロ神殿があった。
アティアは、太陽神のアポロ像と月の女神のディアナ像に祈りを捧げる。
夕日に照らされた列柱が、赤く燃えて美しい。
この景色を見ると、ポンペイに帰ってきたんだなぁとしみじみ思う。
だが、郷愁に浸かっている時間はない。
アティアの馬車は、
通り沿いの
酔っぱらった知り合いが「おぉ、アティアお帰り! 何をそんなに急いでいるんだい?」と声をかけてくる。
いつもなら、明るく挨拶するアティアであったが、今はそんな気になれない。
軽く会釈して通り過ぎた。
賑やかな通りの奥に、アティアの家はある。
家に着くなり、アティアは馬車から飛び降りた。
「ゴーディー、荷物と馬たちをお願い。私は、お母様の所へ行くわ」
そう言うと、美しい植物のモザイクが施された玄関前に立った。アティアは、いつもの活気が屋敷内から伝わってこないことに違和感を感じた。不安な気持ちのまま扉を開け、ロビーを抜ける。
中庭の奥の食堂で、この時間忙しく働いているはずの料理人たちがいない。
人気のない中庭を抜け、母の部屋へと急ぐ。
屋敷は所々にランプが灯されているが、泥棒に入られないように造られている為、窓が少なく暗い。
でも今日は、屋敷全体がいつもより暗く沈んでいるように感じた。
母の部屋の前には、多くの使用人が集まっていた。
突然帰宅したアティアの姿に驚いた使用人たちの顔が、みな悲しみに満ちている。
「お帰りなさいませ、アティア様。実は、プリミゲニア様が……」
「母が……?」
「昨夜から容体が急変致しまして……」
「お医者さまは、何て言っているの?」
「おそらく、そう長くは……」
長い間仕えている使用人は、そう言うと声を詰まらせた。
身分に関係なく、誰にでも優しいプリミゲニアは多くの人たちから好かれていた。
使用人たちの様子から、母の容体がどれほどのものか安易に想像できる。
アティアは、恐る恐る扉を開けた。
そこには、不穏な空気が流れていた。
ベッドの上で横になる母と、微かに感じる闇の気配。
『何かがいる……』
肉眼では捉えることのできない何か。
眼帯の奥で、右目が反応し疼いている。
アティアは、そっと扉を閉めた。
ふぅー。
大きく息を吐き、眼帯を外す。
プリミゲニアの傍らに、黒いマントの男が立っているのが視えた。
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