闘技場での後悔

 五万人の観衆で埋め尽くされた円形闘技場アンフィテアトルム

 試合の様子がよく観える最前列は、皇帝・元老院階級席。

 続いて、騎士階級席。

 その後ろは、裕福層のローマ市民。

 最後列が、一般市民と女性席と決められていた。


 地中海の夏の強い日差しを避けるため、一部には天幕が張られている。

 闘技場は、観客の興奮と熱気と血と汗の臭いで、異様な空気に包まれていた。



 アティアと姉のフラウィアは、元老院アントニウスの計らいで最前列で試合を観戦していた。

 フラウィアは興奮した様子で、両目を大きく見開いている。

 他の観客のように、拳を振り上げ大きな声を出すことはしないが、残酷な戦いを、流れる血を、食い入るように見つめていた。

 口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。


 ズクン、ズクン、ズクン、ズクン……


 眼帯に覆われたアティアの右目は、ずっと疼いていた。

(もう嫌! やめて、やめさせて――‼)

 声に出して発してはいけない言葉を、胸の中で叫ぶ。


 ふいに強い風が、生臭い血の匂いを運んできた。

 鉄を含んだ独特の匂いがアティアの鼻腔をつく。


 ぐっ、


 口を両手で塞ぎ、慌てて席を立つアティア。

「どこへ行くの?」

 フラウィアの声が聞こえたが、答える余裕はない。

 足早に闘技場を抜け出し、建物の陰にしゃがみ込んだ。


 おえっ!

 そう軽く嘔吐えずいただけで、吐き出すものは何もなかった。


 ふぅー、

 大きく息を吐く。

 嫌なものを全て出し切るように――


 鼻に纏わりついていた血の臭いが少しずつ消えていく。

 同時に、右目の疼きも収まっていた。


 顔を上げると、吸い込まれそうな青空が広がっている。

 空を掴むように、両手をグッと伸ばした。

 さっきまで観ていた世界が、空の彼方へ消えていく気がする。

 束の間の穏やかな時間を裂くように、闘技場からひときわ大きな歓声が上がった。

 おそらく、あの二人の最後の決着がついたのだろう。


「勝ったのは多分……」

 闘技場を見つめながら、眼帯を右手で抑えアティアは呟いた。

「あぁ、来なければ良かったかな」

 アティアはローマへ来たことを後悔していた。

 

 十三歳の誕生日にと、父のセネカがローマの祭典に連れて来てくれた。

 ローマは、十五年前に大火で多くの建物が消失したと聞いていたが、そんな悲劇があったとは思えないほど、街は見事に復興している。


 そして祭典の一番の目玉が、今日の剣闘試合だった。

 しかし、剣闘試合がこれほどに残酷な催しだと、ポンペイに住むアティアは知らなかった。


 ポンペイでは、二十年前に剣闘試合でポンペイの住民と、ヌケリアの住民の間で大きな乱闘が起き、当時の皇帝ネロから十年間の闘技禁止令が出された。 

 以来、ポンペイでの剣闘試合はかなり縮小されていたのだ。

 先ほど目にした残酷な光景が、アティアの頭から離れない。


 娯楽のために、人が殺されることが理解できなかった。

 流れる血に、死ぬ行く者の断末魔に興奮し、歓喜の声をあげるローマの人々が恐ろしかった。

 そして同じローマの血が、自分の体に流れていることが疎ましかった。


 大人になれば、自分も皆のように血に飢え、血を求めるようになるのだろうか?


 アティアの心は晴れ渡る空とは対照的に、泥沼へと沈んで行くのだった。

 深く、深く、深く。

 暗い沼の底へ――


 


 

 


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