第8話 答え
一瞬の静寂とともに、老人の瞳から涙が溢れた。
植物人間になっている故に表情の変化は見られないが、悲しんでいることは十分に伝わってくる。
シンパシーというやつだろうか。
老人――もとい変わり果てた未来の自分は、
『――そうか。美奈がここまで連れてきてくれたんだな――』
「……はい。あの少女がいなかったら今頃、俺は夢の中で自害していました」
『――よかった。本当によかった。これで――希望が生まれる』
「希望……?」
『あぁ。しかしそのためには――君をここから逃がさなければならない』
そう告げた途端、ロックが外れる電子音とともに病室の扉が自動で開いた。
扉の先には長い廊下があり、蛍光灯の明かりで照らされているが、それでも境界線が見えないほど伸びている。
体調は万全とは言えないが、それでも直感が囁く。
俺はこの道を通って、夢の中から抜け出さなければならないのだと。
『廊下は一本道になっている――横道はない。もしあったとしても、決して入り込んではいけないよ。それはあの女の罠だからね』
「ミナの?」
『あぁそうか――今の君は間違った記憶を植えつけられているのか。そうだ。恐らくミナはあらゆる手で妨害してくるはずだ。真実を抹消するためにね』
正直、認めたくはなかった。
それでも未来の自分の助言なのだから、信じる以外にない。
『いいかい――廊下は一本道だ。絶対に他の道に外れてはいけないよ。もし外れてしまえば、完全に管理下に置かれてしまうからね』
「分かりました」
『あとは君に全てを託すよ。これ以上は手助けすると感づかれてしまう』
一つ頷くと、老人の元を離れて開かれた扉の前に立つ。
廊下の無機質な風景がどこまでも続いている――窓も扉もないため、余計なことを考えずに走り続けられそうだ。
最後に別れの言葉を残そうとして振り返る。
そして俺は見た。
老人の傍らに寄り添う少女――飯倉美奈が微笑みかける姿を。
『――ここまで来てくれてありがとう。おかげで、やっとこの人に会えた』
「……君はずっと見守っていてくれたんだね。だから俺は遊園地で、君と一緒にいたとき……幸せだって思ったんだ」
『私もあの頃に戻れたようで幸せだった。まるで夢を見ているような心地だった』
「でも俺は、現実に戻らなきゃいけないんだ。だから」
『分かってる。この人もそう言ったら聞かないから。意外と頑固で、一途なのよね』
「ふふっ……そっか」
不思議と笑みがこぼれた。
たとえ俺がミナに負けるのだとしても、彼女が寄り添っていてくれるなら、きっと未来に希望はある。
彼らはもう離れ離れになることはない。
根拠はないが、そう確信できた。
だから、今度は俺が希望を残す番だ。
夢の世界から抜け出して、現実世界へ帰らなければならない。
身を翻して廊下に一歩踏み出す。
その直前、俺たちは最後の会話を交わす。
「俺の身体、任せた」
『分かってる。もう離れてあげないんだから』
「……もしまた会えたら。その時は」
『うん。いっぱい話そう。いろんな事、たくさん――』
自動扉が閉じられる。
俺は深呼吸すると、意を決して走り出した。
視界はモノクロのままだが、身体に力さえ入ればどうとでもなる。
それに俺は一人じゃない――心の中に皆がいることを知った。
柊さん、バルサさん。
夢の中で出会った人たちの言葉や思いが、俺に気力を与えてくれる。
だから変わらぬ景色が永遠に続こうとも、気を狂わせることなく走り続けられた。
そうして数十分は経った頃だろうか。
再び耳鳴りが始まると、微かに誰かの声が聞こえた。
女の声だ。
『――どうして私を見てくれないの?』
「……君は……誰だ?」
『いつもあの女のことばかり。私は蚊帳の外で、二人で盛り上がって』
「そうか……君はミナか。俺を邪魔しにきたんだろう?」
『一つになってよ。私と一つになって――溶け合って!』
即座に首を横に振る。
俺はそんなことを望んではいない。
心情と反比例して、耳鳴りと心臓の痛みは激しさを増していく。
まるで駄々をこねるように、ミナが俺の頭に直接声を響かせる。
『もうあの女なんて忘れてよ! ずっと支えてきたのは私なんだから!』
「違う……君は俺から大切なものを奪って、今も粉々に砕いてる。もう二度と元に戻せないようにしてるんだろう。管理者として」
『そんなの嘘! 私のほうが愛してた! ずっとずっとずっと、他の誰も眼中に入れないで生きてきたんだから――!』
「でも俺には大切な人がいる。幸せにしたい人がいる」
『その人はもういないよ? だからもう忘れて、私に全部捧げて? ねぇ』
――それでも。
夢の中で抱いた想いは変わらない。
「ミナ。俺の彼女は君じゃない。俺が生涯愛すると誓ったのは――」
『――やめてよぉぉぉぉぉぉぉぉッ‼』
絶叫とともに血管が焼き切れる。
身体がボロボロに壊されていくのを感じた。
早く出口に着かなければ、本当に全てが終わってしまう。
倒れそうになるのを堪えて走り続ける――皆から託された希望を、道半ばで途切れさせてはいけない。
ふと後ろを振り向いた。
照明が消え、徐々に暗闇が迫ってきている。
もしミナの仕業だとしたら、飲み込まれればどうなるか分からない。
必死に走る。
息を切らして、ただ前へ。
『――止まってっ‼ 止まれ止まれとまれとまれとまれトマレェェェェェェ――‼』
左右の壁がひび割れ、今まで走って来た道が消滅していく。
身体も限界を迎えようとしている。
ここまでなのか。
呪詛じみたミナの叫びが、心までも
――心の在り方は誰にも決められない。そうだろ?
――後悔するなよ。お前がどうしたいか決めるんだ、坊主!
――俺たちが守ってやるから、走れ!
――もうその命は、お前だけのものじゃねぇぞ!
それでも二人の声が聞こえてくる。
ミナの干渉から俺を守り、境界線の向こう側へと誘う。
「……あれは!」
すると、病室の自動扉よりも大きくて荘厳な門が、長い廊下の先に見えてきた。
最後の力を振り絞り、徐々に消滅していく世界を駆け抜けていく。
そして、もう少しで門の前に辿り着く瞬間。
行く手を阻もうとする人影を一つ捉える。
「――春人っ‼」
ミナだった。
まさか心の中に直接入ってくるとは思わず、驚きと極度の疲労で両脚が止まってしまい、彼女の前で膝をつく。
焦って後ろを振り向いた。
世界の消滅は、ちょうど俺の背後で止まっている。
少しでも後ずされば、たちまち暗闇に飲み込まれてしまうだろう。
故に俺は対峙する。
心臓を打ち鳴らす恐怖に耐えながら、ミナに告げる。
「そこをどいてくれ」
「嫌‼ 絶対に通さない!」
「俺は帰らないといけないんだ。現実世界に」
「帰ってどうするの⁉ 私を捨てて、あの女の墓参りにでも行く気⁉」
「それは違う! 君と改めて向き合いたいんだ!」
しかしミナは首を横に振り、今にも泣きそうな表情で否定する。
「絶対嘘……だって私はあの女を……!」
「知ってる。それでも、君を地獄に突き落としたりはしない。生きて……二人で罪を償おう」
「嫌……嫌だよ。そんなの、あの女に負けたみたいで……!」
そしてミナは、大粒の涙を流しながら叫んだ。
「……私が春人の彼女なの! 他の誰にだって渡さない……私だけの宝物なのっ‼」
「ミナ――」
「だから……っ‼」
――自分でも、何でこうしたのかは分からない。
気づけば俺は立ち上がり、泣きじゃくるミナを強く抱きしめていた。
柔らかな茶髪を優しく撫でて、溢れ出る負の感情を受け止める。
ミナの背後にそびえる門が、重厚な音を立ててゆっくり開かれていく。
「――帰ろう。ミナ」
「……春人……」
「大丈夫。俺は逃げないよ。この夢の中で、大切なことをたくさん学べたから」
「……春人」
ひどく潤んだ弱々しい瞳を見つめて、俺は言った。
「君と一緒にいる――飯倉ミナのそばにいる。約束だ」
「っ……‼」
胸の中で嗚咽が響く。
ずっと溜め込んでいた感情が、心の中に流れ込んでくるのを感じる。
不思議と温かいのは、きっと夢の中で出会った人たちのおかげだろう。
彼らの優しさに、痛みに、覚悟に触れたからこそ。
ミナの想いを包み込んであげられたのだ。
あとは、繋がれた希望の先へ行くだけ。
門の向こう側で輝く光を見据えながら、ミナに声を掛ける。
「――帰ろうか。俺たちの世界に」
返事はなかった。
それでも互いの指が絡み合った瞬間、了承してくれたのだと思った。
ほっと肩を撫で下ろす。
そして。
「っ――‼」
「ミナ――っ⁉」
驚きで目を見開く。
俺の身体は門の向こう側へと突き飛ばされ、境界線を完全に超えた。
光の中で尻もちを着くと、痛みを感じるよりも早く顔を上げる。
侵食が始まった世界の中で、ミナは一人、穏やかに微笑んで立ち尽くしている。
「――ミナっ! 早くこっちに来いっ!」
「――ごめんね。そっちには行けないや」
「何言ってるんだっ‼ 早く来いっ‼」
「無理なんだ。私の心はもう――春人の心の中に入り込んじゃってるから。元の肉体に戻ることができても、それは春人が知ってる私じゃなくなってる」
「それでも……また積み重ねていけばいい! そうだろ⁉」
「ふふっ。嬉しい――」
ミナの身体が闇に覆われていく。
境界線越しに、必死に手を伸ばす。
「早く! 手を掴めっ‼」
闇の中で首が横に振られる。
俺は何度も叫ぶ。
しかし、ミナの声が虚空に響いた。
『――さよなら。春人』
視界が光に染まる。
徐々に意識が遠のいていく。
そうして、長い夢が終わりを告げる。
「ミナ――――」
胸の中に残った、微かな温もりを抱いて。
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