第7話 春人

 視界が白く晴れていく。耳鳴りはいつの間にか止んでいた。床が蛍光灯の明かりを反射して、部屋全体をまばゆかせている。

 ピッ、ピッと電子音が聞こえた。

 まるで心拍を測っているような一定のリズムで、時折ピーッと短いアラートが鳴り響く。

 横たわる俺の眼前には、ベッドの足のような支柱があった。

 どうやらここは誰かの病室らしい。


 むくりと起き上がると、おびただしい数の医療機器に囲まれた老人が一人、ベッドの上で瞳を開いたまま眠っていた。

 見たところ植物人間という状態で、鼻腔や口腔など、身体の穴という穴に無数のくだが繋がれている。

 シワだらけの指先に軽く触れるが、ピクリとも動かない。

 それでも心拍が測れているということは、まだ生きてはいるようだ。


 白色だらけの病室は個室で、老人以外の患者はいない。

 窓がないため外の様子を見ることは叶わず、扉には鍵が掛けられていて、廊下に出ることもできない。

 これではまるで密室だ。

 心なしか空気が薄く感じ、息苦しさを覚える。


「……あの」


 老人に話しかける。

 無駄だろうとは思うが、他に何も物が置かれていないので、致し方ない。

 手持ち無沙汰で暇を持て余すより、よっぽどマシだろう。


「聞こえますか? 俺のことが分かりますか?」


 ――返答はない。

 それどころか、眉すら微塵みじんも動かさなかった。

 どうやら会話を図ろうとしても無駄のようだ。


 ため息を吐き、扉とは逆側の壁にもたれかかってへたり込む。

 完全に手詰まりになって、どうしようもなくなってしまう。


「……美奈……か」


 少女の名前をぽつりと呟く。

 しくも、現実世界で待っている彼女と同じ名前だ。

 偶然だろうか。

 それとも少女の言う通り、俺の行動は全て、無意識のうちに仕組まれていたのかもしれない。


 管理者――ソイツが俺の記憶を管理し、意のままに操ろうとしているのだ。


「まさか梛野なぎの先生が……?」


 考えたくはない。

 先生はいつも俺を励ましてくれたし、ミナという彼女ができたときは、まるで父親のように喜んでくれた。

 そんな優しい人が、俺を管理しようとする理由が分からない。

 しかし、先生は記憶領域の第一人者だ。

 冷凍保存されている俺の身体を正確に管理できるのは、先生しかいない――ミナにはその分野に関する知識はない。


 そう。

 ミナには知識がないのだ。


 ――ズキリ。


 胸の奥が痛む。

 まるで俺に何かを訴えるように、痛みはさらに増していく。

 何かを見落としているのか。

 それとも、知っていて見過ごしているのか。


 思考が複雑に絡まり合い、混乱しかけた――その時。



『――――懐かしい名前だ』

「えっ……」

『その名前を聞いたのは――いつぶりかな。思い出せなくなってしまったよ』



 しゃがれた声だった。

 よく見ると医療機器の中に紛れてスピーカーが置かれており、恐らく老人のであろう声は、そのスピーカーから発せられていた。

 心なしか、俺の声質と似ているように感じる。


 単なる偶然なのかと思っていると、老人が声を掛けてきた。


『君は――飯倉いいくら美奈みなを知っているのかい?』


 老人のそばに近寄り、感情のない顔を見下ろしながら答える。


「……はい。飯倉ミナは俺の彼女です」

『――違う。私が言っているのは、飯倉美奈のことだ』

「ミナ、ですよね?」

『――美奈だ』


 話が食い違っているのが分かる。

 老人が言っているのは、あの少女のことだろう。

 確かめるために問いかける。


「おじいさんは、あの子のことを知っているんですか?」


 すると老人は小さく笑って、懐かしむような口ぶりで告げた。


『――忘れるはずもないさ。彼女は私が唯一愛した人なのだから。もっとも、もう顔も思い出せないがね』


 間違いない。

 老人は少女のことを知っている。

 しかし妙だ。

 少女は俺の夢にのみ出てきた存在――それをなぜ、自分が経験したかのように話せるのか。

 疑問が積み重なるたび、胸騒ぎが段々と大きくなっていく。


 俺の不安な心境を知る由もなく、老人は懐古し続ける。


『――彼女とは幼馴染で腐れ縁だった。クラスも一緒で席も隣どうし、嫌気がするほど距離が近くて、大体ケンカばかりしていたよ』

「……そうなんですか」

『でも裏を返せば――素のままでぶつかり合える、気の置けない間柄で。互いに尊重し合える年月になれば、自然と両想いになっていったんだ』


 それは凄く素敵なことだ。

 俺にも経験があるから分かる。

 大切にしたいと思える存在ができて、心が安らぎ、視界に映る全てが輝いて愛おしく思えてくる。

 その感覚は他の誰とも共有することのできない、唯一の幸福なのだから。


『このまま――共に生きるのだろうと思った。ささやかな――しかし何物にも代えられない思い出を作っていくのだろうと。そう思っていた――』


 瞬間、老人の声色が変わる。

 悲しみの中に隠れた真っ黒な感情が、スピーカー越しに解放される。



『――あの女が。彼女をかたったあの女が、全てを奪い去るまでは‼』



 ――ズキズキズキズキズキズキズキズキッ‼


 瞬間、これまで感じたことのない激痛が全身を巡った。

 息をする間もなく倒れ込み、堪らず上げた悲鳴すら喉元で搔き消され、視界がチカチカと点滅し始める。

 老人の叫び声が途切れ途切れで聞こえてくる。

 その傍らで、俺はベッドの柵を強く掴むと、何とか立ち上がろうとする。


『許せない――あの女だけは絶対に――許せない‼』

「っ……ぁ……‼」

『よくも私と彼女を――無惨に――っ‼』


 両足に懸命に力を込める。

 酸素の供給が追いついていないのか、ガクガクと震えが止まらないが、柵を杖代わりにしてどうにか直立する。

 モノクロの視界で老人の顔を見た。

 大粒の涙をこぼしながら、奥歯が砕けそうなほど噛みしめ、眉間に深くシワを寄せている。

 そうして極限状態の中でふと気がつく。


 まるで老人の顔が、俺とそっくりに見えることに。


 ――後悔のない選択なんてない。

 ――大切なのは……自分の、心の在り方だってな。


「……柊さん?」


 ――このガキを守り続ける。絶対にな。

 ――達者でな。ありがとう。


「バルサさん……何で……」


 ここにいないはずの二人の声が、頭の中でぐにゃぐにゃと響く。

 すると、不思議と激痛が収まっていった。

 未だに視界はモノクロのままだが、どうにか我慢できる範疇はんちゅうまで落ち着きを取り戻す。

 ゆっくり息を整えながら、老人の顔をじっと見つめていると、


『――なぜ君が、その名前を知っている?』

「え……?」

『二人は私の心の中にいた。なのに、なぜ君は――?』


 瞬間、悪寒が走った。

 踏み込んではいけない領域に、片足を入れたことを悟る。

 それでも引き返しはしない。


 俺自身の、失われた記憶を取り戻すために。


「……おじいさん。少し聞いてもいいですか」


 返答はない。

 了承と解釈し、俺は尋ねる。


梛野なぎの愁一しゅういちと飯倉ミナ――この二人を知っていますか?」

『――梛野――』

「俺の主治医と彼女の名前です。二人の力を借りて、俺は今ここにいます。聞き覚えはありますか?」

『――梛野先生は覚えているよ。とてもお世話になった。記憶を失っていた私のために尽力してくれたんだ。しかし――飯倉美奈は私の中で一人だけだ。それに先生と美奈には面識がない』


 すると老人は叫びながら答えた。


『そう――あの女だけだ‼ あの女は二人とも面識があるはずだ‼ 当然だ――自らの手で二人をあやめたのだからね‼』


 再び心臓が締めつけられ、息苦しさが増していく。

 きっと、管理者にとって不都合な真実を聞いているからに違いない。

 もう引き返すつもりはない。


 抗ってみせる。

 俺の心の中で。


「おじいさん。最後に一つ聞きます」


 柵を掴む掌に力を込めながら、はっきりと問いかける。



「最後の治療が終わった日。?」



 瞬間、今までよりも激しい耳鳴りに襲われた。

 平衡感覚が狂いそうになるが、柊さんとバルサさんの言葉を繰り返し思い出して、どうにか倒れないよう留まる。

 頭の中で銅鑼どらを鳴らされているような感覚に陥り、吐き気を催し、視界の点滅が酷くなっていく。

 それでも老人の顔を見つめ、息を振り絞って問いかける。


「教えてください……あの女は……フレンチのレストランを、頼みませんでしたか」

『――――まさか』

「野菜嫌いでしたよね……あと、高級じゃないと嫌だって……駄々こねて」

『まさか君は――――』


 もう間違いないだろう。

 俺は一つ頷いて言った。



「初めまして、水澤春人さん。俺は――記憶を失っていたときの貴方です」

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