第6話 真なる記憶

 暗闇に光が差し込む。

 頬を撫でる水の感触は冷たく、心地よくて、俺はゆっくりと覚醒する。

 瞼を開けると、また見知らぬ世界が展開されていた。

 身体を起こして辺りを見渡せば、ジェットコースターに観覧車、メリーゴーランド――どうやらここは遊園地のようだ。


 奇妙なのは、俺は今、水面みなもの上に立っているということ。

 目を凝らして足元を見れば、水の中に幾つもの建物が沈んでいるのが分かった。


 ここも夢の世界なのか。

 そう思っていると、どこからか声が聞こえる。


『――ここは私と貴方の思い出。貴方が貴方であったときの世界』


 あの少女の声だった。

 やはり俺と面識があったらしい――思い出の場所だという遊園地には、まるで身に覚えがないが。

 とにかく俺は少女に問いかける。

 一連の夢について、何か知っているはずだと睨んでいた。


「なぁ。君は何者なんだ?」

『――――』

「俺のことを知っているんだろう? 教えてくれ……知っていることがあれば全部」

『――それはできない。私は管理されている』

「管理? 誰かが君を見ているのか?」

『私だけじゃない。貴方も今、管理されている』


 俺が? 誰に?

 頭の中に湧き上がる疑問は解消されることなく、少女は淡々と告げる。


『だからこれが最後のチャンス。本当の貴方を取り戻すための――最期の賭け』


 瞬間、爽やかな風が吹き抜けた。

 幾つもの波紋が広がって重なり、目の前で蜃気楼がまばゆく揺らめく。

 逆光で瞼を閉じた俺の耳に、少女の声が前よりはっきりと響いてくる。


「――やっと会えたね。春人」

「……君は」


 目の前に現れた少女を見つめる。

 白色の傘を差して、病的なまでに白い肌と赤色の瞳を伏せがちにしながら、穏やかに微笑んでいる。

 長尺のワンピースは肌と同じ色合いで、黒髪は腰の辺りまで伸びていた。

 まるで幽霊みたいだ――内心そう思っているのがバレたのか、少女は不満げに言う。


「まだ死んでないよ。私はまだ、ここにいるもの」


 そして顔を上げると、燦々さんさんと輝く太陽を見つめながら言った。


「貴方との思い出が消えない限り。私はずっとここにいるんだから」


 思い出。

 俺は少女と出会ったことはないはずなのに、その言葉を聞くたびに心が温かくなってくる。

 ミナと一緒にいるときよりも強く、不思議と穏やかな気持ちになる。

 何故だろう。

 こんなに安心してしまっては、現実世界で待ってくれているミナに申し訳が立たないというのに――。


 困惑していると、少女はおもむろに手を差し伸べてくる。


「行こう。あの日の続き、せっかくだから終わらせなくちゃ」

「……どこに行くんだ?」

「きっと分かるよ。思い出してくれるはず」


 どうやら具体的には言えないらしい。

 管理者とやらの意向に沿うように、慎重に言葉を選んでいるのが見て分かった。

 信用していいのかどうか、まだ頭の中はまとまっていない。

 それでも、失われた記憶を取り戻す手掛かりは、少女の提案に乗ること以外になかった。


 差し伸べられた手を取る。

 すると少女は嬉しそうに笑い、俺の手を引いてパシャパシャと走り出す。


「しっかりついてきてね、春人」

「っ――」


 振り向き笑いは向日葵ひまわりのように明るく、満面に咲き誇っていた。

 その笑顔を見て、不意にドキッと心臓が跳ね――同時にズキリと、胸の奥が痛む感覚がした。


***


 そこから俺は少女とともに、水面に浮かぶ遊園地の中を駆け巡った。

 ジェットコースターに乗れば少女は元気な声を上げ、メリーゴーランドに着くと馬の上に二人で乗り、コーヒーカップでは向かい合って笑い合う。

 自然と距離は縮まって、気づけば視線は常に少女を追っていた。

 記憶喪失や胸の奥の痛みなどすっかり忘れて、導かれるままに少女と楽しい時間を過ごす。

 随分と久しぶりに笑ったような気がした。

 現実世界でこんなに笑ったことなど、思い返せばなかったかもしれない。


 少女は意外と明るかった。

 ミナと似ているようで、どこか違う――波長が合うというのだろうか。

 施設を回る順番も、一息つくタイミングも全て、俺にとってどこか心地いい。

 どれだけ振り回されようとも、まるで俺のことを理解してくれているように感じて、段々と心かれていく。


 やがて俺たちは観覧車に乗った。

 ゴンドラの中で向かい合って座ると、扉が自動で閉められ、ゆっくりと頂上に向けて回り始める。

 どうやらこの世界の街は、ほとんど水の中に沈んでいるようだった。

 改めて上空から見下ろすと、遊園地以外の建物は全て沈没し、風化して珊瑚や海藻の繁殖地となっている。

 大量の魚群が泳いでいるのも見えた――人の姿はまるでない。


 今まで渡り歩いてきた夢と同じように、この世界にいるのは俺と少女だけなのだろうか。

 だとすれば、目の前で外を眺める少女もまた――。


「――どうしたの」

「えっ……あ、いや」

「じっと見つめて。何かついてた?」

「そういう訳じゃないよ。ただ……ちょっと憂鬱になってただけ」


 膝の上で拳を握る。

 もしかしたら、うまく笑えていないかもしれない。

 最悪の事態を考えるたび、せっかくの少女との時間に水を差している気分になってくる。

 そして、そんな後ろめたい自分のことが嫌いになってしまう。


 しかし少女は、小さく微笑んで言った。


「今まで、ずっと頑張ってきたね」

「あ……」

「我慢してきたよね……よく頑張ったね。ありがとう」

「……っ」


 全てを受け止められる。

 励ますでもなく、文句を吐き捨てるでもなく――少女はただ、俺にそっと寄り添ってくれる。

 それだけで、心の中にある重荷がずっと軽くなったような気がした。


 俺たちの乗るゴンドラが頂点に到達する。

 この世界で一番高いところで、観覧車がゆっくりと回転を止める。


 すると少女が立ち上がり、俺のそばに座った。

 心臓がバクン、バクンと跳ね上がる。

 赤色の瞳がじっと見つめてきながら、囁くように告げる。


「ずっと会いたかった。春人に」


 ――ズキリ。

 胸の奥が鈍く痛む。


「きっと会えるのは、これが最後だけど」


 ――ズキリ。

 悲しみがどこからか溢れてくる。


「私はずっと春人の中にいる。春人の中でずっと、見守っているから――」


 ――ズキリ。ズキリ。ズキリ。

 悲しみは怒りへと変わり、怒りは少女への想いに変わる。


 気づけば俺は少女を抱きしめていた。

 華奢な身体を強く引き寄せ、決して離れないように両手でホールドする。

 少女はビクッと肩を震わせて、一瞬引き離そうとするが、すぐに俺の背中に手を回す。

 そうして時間が過ぎていく。

 穏やかに、緩やかに。


「……俺は何も覚えてない。君のこと、何も覚えてないけど」

「――うん」

「それでも何となく分かる。俺にとって君は、かけがえのない人だったって」

「そう思ってくれるだけで、私……すごく嬉しいよ。春人」

「もっと君といたい。このまま、この世界で……」


 しかし少女は抱擁を解くと、静かに言った。


「それはできないの。きっと私、消されてしまうから」

「消される……何で?」

「私が春人にとって大切な存在だから。目障りなの。管理者にとっては」


 どうして。

 少女は過去の俺について知っている人だ。

 それはつまり、失われた記憶の手掛かりということで――目障りになることなんて、何一つないのに。


「君はさっき言ってたよね。俺も管理されているって……誰かが俺たちを見てるの? 君はその正体を知ってるの?」

「……知ってる。けど言えない。言ったら消されてしまう。私も、春人も」

「俺も? 何で?」


 問いかけると、少女は険しい表情で告げる。


「今の春人がよく知ってる人だから。名前を出せば、すぐに分かってしまう。春人にも……管理者にも」


 俺がよく知る人――記憶を失ってから関わってきたのは、二人しかいない。

 しかし、その二人には少女を消す理由はないはずだ。

 訳が分からずに混乱する。


 少女が俺に問いかけてくる。


「春人はずっと疑問に思わなかった? 管理者と出会う前の記憶が失われているのは何故だろうって。初めて見るはずの世界で、春人のことを知っている人がいるんだろうって」

「え……?」

「それだけじゃない。春人の心はずっと違和感を感じていたんだよ。春人が気づいていない……ううん。忘れさせられているだけなの」


 ――言われてみれば、そうだった。

 何で俺が記憶喪失になったのか、二人は何も教えてくれていない。

 ただそばに寄り添って、装置を用いた治療を進めていた――それを俺は優しさなのだと思っていた。


 しかし、もし違うのだとしたら。


 


「……管理者は何をしようとしているんだ?」

「分からない。けど、春人を管理しようとしてるのは間違いないよ。だからこの夢に負けないで。でないと春人は――」


 言いかけた、その時。



「――ぁぁああああああああっ‼」



 突然、耳鳴りが響き始めた。

 とても強く頭に響いて、脳が張り裂けそうになる。

 堪らずゴンドラの床に倒れ込んで、乱れる意識を必死に保つ。

 座席を乱暴に蹴って、頭を扉に打ちつけ、何回も何回も叫んで――。


「――春人っ‼」


 少女が俺を強く抱きしめる。

 大粒の涙を流しながら、耳元で叫ぶ。


「私、忘れないから! 絶対に忘れない! 君のことっ!」

「ぁぁああああああっ‼」

「だから春人も忘れないで! 私がいつも、春人の中にいるってこと――!」


 ――瞬間、ふと脳裏を流れる、存在しないはずの記憶。

 俺と少女が夕焼けに染まった帰り道を、手を繋いで、照れ臭そうに笑い合いながら歩いていく光景。

 まるで身に覚えはない。

 それでも、この記憶と今抱いている感情は嘘じゃないと思える。


「愛してる! 愛してるよ、春人――」


 視界が暗闇に包まれる。

 徐々に少女の顔が見えなくなっていく。

 咄嗟に俺の口から出たのは、



「――美奈みなっ‼」



 この世界でただ一人、俺が愛した人の名前だった。

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