第5話 覚悟
いつになく外が騒がしく感じる。
昨日は聞こえなかった鳥のさえずりが、幾つも重なって響き渡る。
朝にはあまり強くないので、
昨日の疲れがまだ残っているのか
なので一つ深呼吸を置き、上体をむくりと起こす。
そうして寝ぼけ眼を擦っていると、床が
何だろうと思い、音の鳴ったほうを見る。
「――――え」
一瞬、夢だと思った。
全身が硬直して動かなくなり、バルサさんを起こさなければならないのに、うまく言葉を絞り出せない。
視線の先で
クネクネと這い寄る
その大蛇がいたのは、昨日赤ちゃんが寝ていた布団の上だった。
ふと、昨夜の会話を思い出す。
赤ちゃんは蛇の子ども――忌み子だと。
「……そんな」
変化したのか。昨夜のうちに。
呆然とするしかない俺に、蛇の矛先が向けられる。
小さな舌を泳がしながらジリジリと迫ってくる――まるで俺のことを、獲物と認識しているように思えた。
早く逃げなければいけない。
なのに足は言う事を聞かず、石のように固まってしまう。
その時、視界の端で鈍く光る刃物を捉える。
バルサさんが昨日使っていた、収穫用の鎌だった。
少し身体を動かして、左腕を伸ばせばすぐに取れる位置にある。
それを使えれば、目の前の大蛇を殺すことができるかもしれない。
「っ……」
荒い息を意識して整える。
突然襲い掛かられないよう慎重に、鎌のあるほうへ身体をにじり寄せる。
大蛇は身体を丸め、頭だけ前へ突き出し、今にも飛び掛かってきそうだ。
もう一刻の猶予もない。
覚悟を決める。
一度は救った命を、この手で
「……ッ!」
伸ばした左手が鎌を掴んだ。
同時に大蛇が一瞬で身体を伸ばし、シャッ‼ と毒牙を剥き出しにして噛みついてくる。
凄まじい速度だった――反射的に後ろへ下がり、
刃は大蛇の頭に突き刺さり、そのまま床に打ちつけられた。
身体を激しくしならせて抵抗するのを、俺は鎌を手放して、両手で強く押さえつける。
まだ死ぬ気配が見えない。
あと一撃、致命傷を与えなければならなそうだ。
俺は釜戸のほうを見る。
火をさらに燃やすための炭が、中で一本残っているのが分かった。
炭で頭を潰すか、首の辺りを叩き潰せば、今度こそ殺すことができるはずだ。
右手を伸ばして炭を掴み、逆手に持って首に狙いを定める。
そして、大きく振りかぶったその時。
「――――止めろぉ坊主っ‼」
骨が折れそうになるほど強い握力で、バルサさんが横から腕を掴んできた。
驚いて振り向くと、何回も首を横に振りながら、庇うように大蛇の前に立ちはだかる。
どうして邪魔をするのか。
思わず俺は叫ぶ。
「どいてください! こいつは危険です!」
「危険じゃない! 大丈夫だ! 俺を信じろっ!」
「だって、蛇になって……!」
「ははっ……焦ったよなぁ。もう大丈夫だ。俺がしっかり捕まえておけばいい。そうだろ坊主?」
「……バルサさん……!」
するとバルサさんは、その屈強な身体で俺を抱きしめた。
背中を数回強く叩きながら、大丈夫、大丈夫と繰り返す。
「坊主が救ったこの命はな、もう坊主だけのものじゃねえんだ。俺のものでもある」
「……っ」
「だから忘れるな。たとえ坊主がいなくても、俺は――」
そしてバルサさんは、俺の頬に両手を添えながら言った。
「――このガキを守り続ける。絶対にな」
瞬間、ザシュッ! と何かが斬られる音が聞こえる。
大蛇の尾が大きく跳ね、床に激しく叩きつけられたと思ったとき。
「ぐあぁっ‼」
悲鳴とともに、バルサさんの身体がビクッと震えた。
咄嗟に視線を落とす――頭が裂けた大蛇が、がら空きの脇腹に毒牙を深く突き刺している。
噛まれた箇所から血が噴き出る。
驚くのもつかの間、バルサさんが意識を失い、床に倒れ込む。
思わず声を掛けようとした。
しかしすぐに、大蛇が毒牙を引き抜き、標的を俺に移す。
そのまま猶予を与えることなく、再び大蛇が襲い掛かってきた。
頭の中を一瞬、バルサさんの言葉が
――このガキを守り続ける。絶対にな。
「……っ‼」
俺は躊躇いを捨てた。
右手の炭で大蛇の頭を床に打ちつけて、両手で圧迫しながら
尾が激しく床を叩き、潰れた頭から黒みを帯びた体液が飛び散るが、それでも真上から力を加える。
やがて大蛇も弱っていき、抵抗する素振りを見せなくなった。
一旦その場を離れると、床に刺さった鎌を再び引き抜き、大蛇の胴体に突き刺す。
何回も、何回も。
完全に息絶えるまで、その巨躯をでたらめに切り刻む。
そうして大蛇の息の根を止め、我に返ったとき。
家の中は血塗れになっていて、横で倒れているバルサさんがピクリとも動かないことに、初めて気がついた。
「バルサさん……っ!」
急いで駆け寄り身体を支える――まだ息はあり、俺のことも認識できるようだ。
色白くなってしまった顔で力なく微笑むと、俺の頭を撫でながら、悲しそうな声を漏らす。
「……全く。殺したんだな、坊主」
「……すいません。でも俺は……」
「分かってる。坊主が決めたことなら、もう何も言わないさ。元々あのガキの命は、坊主のものなんだからな」
「……何で。殺すのを止めたんですか」
俯きながら、感情を必死に抑えながら、問いかける。
「もし俺が殺していれば、バルサさんは噛まれずに済んだ。もうあの蛇は、俺たちが知っている赤ちゃんじゃなかったのに。どうして……」
すると、バルサさんは短く笑って言った。
「俺の子どもだからな。たとえ血が繋がってなくても、あのガキは……俺が育てた、大切な存在……あぁ……」
「……バルサさんっ!」
目の焦点が合わなくなっている。
俺の顔の輪郭をなぞるように、両手を伸ばして優しく触れてくる。
大きな掌から伝わる体温は、今にも死んでしまいそうなほど冷たい。
もう手遅れだった。
その事実を受け入れるのに、そう時間は掛からなかった。
「……ははっ。ここまでか。まさか自分のガキに噛まれるとはなぁ。思いもしなかったぜ」
「っ……」
「まぁでも、悪くないな。今までずっと命を奪ってきたから……今度は俺が、この命を返す番なのかもしれないな」
「……そんなこと、言わないでください」
「おいおい。もしかして泣いてるのか? 勘弁してくれよ、死ぬときぐらい笑って送ってくれ。安心して向こうに行けないだろうが」
どうしても声が
無理に張り上げようとしても、嗚咽も同時に込み上げてきて仕方がない。
今の俺には、過去にバルサさんと過ごした頃の記憶がない――それでも。
悲しいと思う気持ちは、決して嘘ではなかった。
「ふぅ……そろそろお迎えかな。段々、眠く……なってきて」
「バルサさんっ‼」
「あぁ、駄目だ。もう、無理か……」
自ら瞳を閉じると、最期にバルサさんは言った。
「……達者でな。ありがとう――」
俺の顔に触れていた両手が落ちる。
力なく
視界が
ずっと我慢してきた感情の
「…………っ」
どうして俺はこんなにも無力なのか。
また、目の前で人が死ぬのを止められなかった。
ここが夢の世界だと忘れてしまいそうになる。
そうだ――ここが夢ならば、いっそ。
亡骸を床に置き、鎌を手に取って立ち上がると、刃を首に掛けて目を閉じる。
「はぁ……はぁ……」
ここで死んでしまえばいい。
そうすれば、ミナや
俺はこれまで悪夢を見てしまったのだと、そう納得すればいい。
もう苦しいのは嫌だ。
大きく息を一つ吐き、意を決して刃に掛かろうとした、その時。
『――――ダメっ‼』
少女の声が聞こえたかと思うと、ピタリと両腕が動かなくなった。
そのまま身体の自由を奪われ、床に膝から崩れ落ちて倒れる。
何が起こったのか理解できずに戸惑う。
そして、再び少女の声が頭に響く。
どこか聞き覚えがあると思ったが、間違いない――柊さんの世界で聞こえた声と全く一緒だった。
『負けないで。この夢に負けちゃいけない』
「……どうして。もう限界なんだ。これ以上、苦しみたくなんて……」
『貴方は試されてるの。ここでいなくなったら、貴方は貴方でなくなってしまう』
「……それは。どういう意味なんだ?」
『私は管理されている。これ以上言うと消されてしまう』
だから、と続けて告げる。
『これが最後のチャンス。私のこと、思い出して』
瞬間、強烈な眠気に襲われた。
うつろうつろと世界が揺れ動き、大きく捻じ曲がって見える。
徐々に辺りが暗闇に包まれていき、同時に瞼が重く閉ざされていく。
――君は、誰?
声に出すことができず、心の中で呟いた問いかけに、少女の声は答えた。
『貴方のことを、今でもずっと想い続けている人だよ』
不思議と懐かしい感覚がする。
俺は少女を知っているのか?
答えは出ないまま、少女の声は途切れる。
そして世界は暗闇に包まれ、意識が遠のいていく。
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