第4話 豊穣の世界
パチ、パチと弾ける音が聞こえる。全身がほんのりと暖かく、どこからか腹腔を刺激する香りも漂ってくる。すきま風だろうか、うなじの辺りをヒュッと吹き抜けていき、思わず身震いして声を漏らした。
はっと目を見開く。
見知らぬ木製の床が映り、次いでその先で釜戸を
筋骨隆々とした巨躯に結われた長い黒髪、獣の皮で作られたような衣類を上下ともに身に着け、
その人影は見覚えのない男だった。
ここはどこなのか、身体を起こして周りを見渡す。
玄関らしき戸口が男の後方に見える。戸は開きっ放しになっていた。
それでも、うっすら光が差し込んでいるのを見ると、どうやら晴天のようだった。
同時に、どこか昔の時代のような感じを覚える。
木組みの天井を見上げながら、俺は確信する――ここは次の夢の世界だと。
「――おっ。起きたか坊主」
声を掛けられビクッと驚く。
振り向くと、団扇を扇ぐのを止めた男が、爽やかに笑って右手を上げていた。
改めて見ても野太い腕だ。
よく見れば古傷らしき
男は団扇を釜戸から離して置くと、立ち上がり、俺のそばに座り込んで言った。
「大丈夫か? 俺の言葉は分かるか?」
「……あぁ、はい。ちゃんと聞こえます」
「そうか! しっかり休めたようで何よりだ。全く心配させやがって」
「……心配?」
俺と男には面識がないはず。
まるで身に覚えがなく戸惑っていると、男は俺にずいっと顔を近づけ、半ば呆れるように続けて言う。
「おいおい。もしかしてまだ寝ぼけてるのか? 病み上がりなのは分かるが、そろそろ目を覚ましてくれよ?」
「あの……ここはどこですか。貴方は……誰ですか」
「はっはっは! 面白い冗談だなぁ! 寝言を言うにはちょっと遅いが、相変わらず愉快な奴だ」
「……俺を、知ってるんですか?」
男は二つ返事で頷く。
「もちろんだ。お前は、俺の命の恩人なんだからな」
「え……?」
「お前がいなかったら、今頃ここで生活できてないし……それに、このガキの命も無かっただろうからな」
「ガキ……?」
首を傾げると、男はため息を吐きながら立ち上がった。
そして、室内の隅で寝かされていた赤ちゃんを一人、腕に抱えてあやし始める。
産まれて何か月かは経っている大きさだった――泣きじゃくることなく、スヤスヤと眠っている。
男は俺に赤ちゃんを見せつけながら、ニカっと笑って告げた。
「お前が救ってくれたんだぜ? 俺とこいつをな」
***
俺は家の外に出た。
赤ちゃんを寝かしつけた男も合流し、並んで細い
最初に目に飛び込んだのは、見事な
空中を赤トンボが飛び交い、足元には大量のカエルが飛び跳ねている。
この辺りに
男は右手に鎌を持っている。
眩しい日差しを避けるためだと、俺も麦わら帽子を被せられた。
真水をたっぷり入れた
初めて男の体躯を見たときのいかつい印象は、すっかり無くなってしまっている。
よっこらせ、と男が田園に足を踏み入れる。
そして振り返ると、俺に手を差し伸べてきた。
「ほれ坊主。一緒に汗をかこうぜ」
「えっと……俺、鎌を持ってないんですけど」
「なぁに、大丈夫さ。俺が刈ったやつを両手で持ってくれればいい。稲を折ったりしなければ、どんな持ち方でも構わないぜ」
「えぇ……」
唐突な提案に戸惑う。
薄々思っていたが、どうやら少し強引なところがあるらしい。
しかし断る理由もなかったので、ズボンの裾を
遠目から見た稲穂は美しかったが、間近で見ると、バッタや赤トンボが垂れ下がった
稲作の風情を感じながら、男の収穫作業の手伝いに入る。
もっとも、ただの荷物持ちだが。
「――なぁ坊主。自分の名前は覚えてるか」
「え……あ、はい。
「よし。んじゃあ、俺の名前は」
「……すいません。本当に覚えてないです」
「……むぅ。一筋縄ではいかないか。厄介なものだなぁ、記憶喪失というのは」
男が頭を掻くのを見て、申し訳なく思いながら俯く。
何も悪いことはない――お互いに。
だからこそ気まずくなってしまうのは、既に現実世界でも経験済みではある。
ただ、何回経験しても慣れないだけだ。
「まっ、忘れたなら仕方がない。また教えてやるとしよう」
しかし男は、快活に笑い飛ばしながら言った。
「いいか。俺の名はバルサ。家に置いてきたガキは俺の子で、ユージーンと言う。覚えたか?」
「……オッケーです。しっかり覚えました」
「よぉし。そんで俺は、一年前まで狩猟で生計を立てていたが、きっぱり足を洗って畑作業に身をやつしている。ガキは山の中で拾ってから世話を見始めて、お前のおかげもあって、どうにか健やかに成長できているわけだ。オーケー?」
「オーケー」
「上出来だ。頭は鈍ってないみたいだな。安心したぜ」
男は嬉しそうに笑う。
もっとガッカリされるかと思っていた俺にとって、それは意外な反応だった。
一瞬だけ、男にレナの面影が重なる――現実世界でも同じ反応を見せ、彼女だけが唯一、俺の味方であり続けてくれた。
ふと思い出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「今はそれだけ覚えてくれりゃあいいさ。詳しいことは夜に話せばいい。せっかくだから、晩酌にも付き合ってもらうとするかな」
「……すいません。俺、お酒飲まないです」
「おっと? 何だ、まだ気分悪いのか」
「いや俺、
「そうだったか? まぁいいさ。ちょっと酒の
これもまた、断る理由はない。
一つ頷くと、男――バルサさんに向かって言った。
「俺も聞きたいです。この世界のこと、バルサさんのこと。全部」
するとバルサさんは、俺のほうを向いて目を見開いた。
驚くような、きょとんとするような――曖昧な間を数秒置くと、豪快な笑い声を上げて告げる。
「そうかそうか! それじゃあ早いところ作業を終わらせるか!」
「あ、はいっ!」
「言っておくが、今日の収穫分はこの辺りの田園全部だからな。嫌でも長くなるから、覚悟しておけよー?」
「はい! ……えっ?」
全部。
辺りを見渡し、その途方もない広さを把握して、さーっと血の気が引いていく。
帰り道では一体、どれぐらいの稲穂を抱えて歩くことだろうか。
バルサさんはすっかり機嫌を良くして、ノリノリで鎌を振るい、収穫した稲穂を容赦なく俺に預けてくる。
こうなっては、今さら待ったは掛けられない。
今現在、両手に抱えている分に視線を落とし、その絵面を想像して軽く引き笑いするしかなかった。
***
そうして作業を終え、バルサさんの家で晩酌を交わすころには、外はすっかり暗くなっていた。
俺が息を上げながら運んだ大量の稲穂は、玄関先にまとめて置かれている。
バルサさんの赤ちゃんは夕食の粥を食べ終えると、満腹になったのか、そのまま静かに眠りに就いた。
あまり泣かない子どもなのだな、と思うほど大人しい印象だった。
「――すぐ寝てくれるから助かるぜ。夜泣きも全然しないんだよ、こいつ」
「そうなんですか」
「あぁ。俺としちゃあ、もっと元気な声を聞かせてほしいんだけどな」
つまみの餅を千切って口に放り込みながら、バルサさんはそう言った。
昼間の豪快さはどこへやら、穏やかな表情を浮かべている。
酒も進んでいるせいか、顔全体が紅潮していて、すっかり出来上がってしまっていた。
それでも
俺はちびちびと真水を飲みながら、聞き役に努める。
「なぁ覚えてるか? ガキを拾ったときのこと」
「……あんまり」
「へへっ。あの時のお前はかっこよかったんだぜ? 村の連中相手に
「守る……どうして?」
「そんなの決まってるだろ」
一転、バルサさんは真剣な眼差しで告げた。
「あのガキは蛇の子どもだからだ」
「……え?」
「村に災いをもたらす忌み子――だから村の掟に従って殺されるはずだった。それをお前が守った。命がけでな」
俺が、あの赤ちゃんを。
いやそれよりも――あの子が蛇の子どもだって?
スヤスヤと眠る赤ちゃんは、どう見ても人間の形をしている。
可愛らしい寝顔で、時折笑顔も見せてくれているではないか。
何かの間違いじゃないかと思ったが、しかしバルサさんは懐かしむように、続けて言う。
「俺が災いを全部引き受ける。必要なら村八分にしても構わないって……お前はそう言ってたんだぜ」
「……そうなんですか」
「あぁ。村の連中は喜んでお前を切り捨てたが、その態度が気に食わなかったもんだから、こうしてお前と一緒に暮らしてるってわけさ。オーケー?」
すぐに頷くことはできなかった。
それでも、頭の中で情報を整理して答える。
「オッケーです……よく分かりました」
「そうか。それだけ思い出せば、きっと明日には記憶も全部戻っているだろうさ」
――話題が切り替わり、明日の予定について軽く話し合う。
どうやら収穫は完全に済んでいないらしく、残りの田園を回って、今日の昼と同じような作業をすることになった。
釜戸の火が消え、真っ暗になった後、俺とバルサさんはそれぞれの寝床に就く。
横になると農作業の疲れがどっと湧いてきて、自然と眠気に誘われる。
そのまま寝落ちする寸前。
バルサさんが声を掛けてくる。
「――なぁ坊主」
そして、穏やかな口調で告げた。
「ありがとな。あの時、ガキを助けてくれて」
相槌を返そうとしたが、既に気持ちよさそうな寝息を立て始めていたので、止めておく。
明日は朝早くから作業だ。
夜更かしすると支障が出るかもしれない。
布団を厚く被り、時折吹くすきま風を涼しく感じながら、俺は瞼を閉じた。
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