第3話 零度に還る

 ソファに横たわる柊さんの呼吸は荒く、いつ死んでもおかしくないほど、顔が青白くなっていた。吐血も止まることなく、防寒用のグローブを付けた右手でハンカチを持ち、口周りの汚れを拭き取る。

 外の天気は段々と荒れてきており、室内は暖房が効いているはずなのだが、少し肌寒く感じてきた。

 これでは外で薬を探すことはできない。

 時計の短針の音が刻まれるたび、事態は静かに悪化していく。

 俺は何もできずに、柊さんの虚ろな表情を見つめながら、自分の無力さに打ちひしがれる。


「……そう、暗い顔をしないで、くれ」

「……すいません」

「生まれつき、身体、弱いから……無理したら壊れるって……分かって、たから」


 柊さんはこんな時でも気丈に振舞う。

 笑いを絶やすことなく、吐血しながら俺に声を掛け続けてくれる。


「机の上に、置かれてたカルテさ……見たか?」

「……はい」

「そうか。あれは、俺の肺なんだ。白く映ってるのは、全部、血なんだ」

「っ……」

「なけなしの文献、読み漁って……自分が結核だって、理解した。それと、自分の寿命が、長くないことも……」


 一旦、深呼吸する。

 すると柊さんの瞳から、一筋の粒が零れ落ちた。

 心なしか表情が安らぎ、呼吸も安定してくる。


 天井を遠目で眺めながら、懐かしむような口調でぽつぽつと告げる。


「……俺の母は、俺を産んですぐに死んだ。それからは、仲間に育てられて……死んでいくまで、一緒に、一生懸命に生きた」

「…………」

「母を、何回も恨んだ。こんな世界に、何で産んだんだって……何で、あの優しい連中が、死ななきゃいけないんだって……一人になってから、何回も泣いた」


 でも、と続けて言う。


「母に、感謝もしたかった。顔も、知らないけど……産んでくれたから、最高の仲間たちに……彼女とも、出会うことができた」

「…………」

「後悔なんて、山ほどある。けど、それ以上に幸せなことが、いっぱい……ウッ!」


 俺は柊さんの肩を掴み、吐血を抑えながら制止させようとする。

 しかし制止を振り解き、勢いよく上体を起こすと、逆に俺の肩を強く掴みながら問いかけてきた。


「……君は、どうしてこの世界で生きる」

「えっ……」

「人間、なんだろう。だったら、生きたい理由があっても、おかしくないはずだ」

「……俺は……」

冥途めいどの土産に聞かせてくれよ。頼む……」


 茶色の瞳がキラキラと、最期の輝きを放っている。

 無下に扱うことなど出来はしない。

 俺は一つ頷き、柊さんの顔をまっすぐに見据えて言った。


「……失ってしまった記憶を取り戻すために。大切な人と過ごした時間を思い出すために。俺は、この世界にやって来たんです」


 静寂が包む。

 柊さんは静かに頷き、優しげに微笑むと、俺の頭をいつくしむように撫でる。

 決して彼の境遇に同情したわけではない。

 しかし気づけば、頬に暖かなしずくが一つ。


 柊さんが俺に笑いかける。


「泣くなって。分かるよ。俺と、お前は、よく似てる」

「柊さん……」

「でも、俺より君のほうが、幸せかもな。まだ、後悔せずに済んでるから」

「……後悔ですか」

「あぁ。俺は仲間たちに教えてもらった」


 そして、真剣な表情で告げた。



「後悔のない選択なんてない。大切なのは……自分の、心の在り方だってな」



 容体が急変する。

 先ほどよりも大量の鮮血を吐き捨てて、両手で苦しそうに胸の辺りを押さえる。

 俺は肩に血を浴びながら、床に倒れ込もうとした身体を支え、再びソファに横たわらせた。

 必死に呼びかける。

 瞳の輝きが徐々に失われていき、呼吸が浅く、拍動が弱くなっていく。


 無我夢中で心臓を押した。

 肋骨に強い衝撃が加わり折れる感触が、掌から腕全体へ、やがて全身に行き渡る。

 手応えはまるでなかった。

 事態は好転することなく、終わりへと向かっていく。


 柊さんに叫ぶ。

 反応がない。

 疲労困憊こんぱいになり、次第に両腕はしびれて使い物にならなくなる。

 足元の床は血塗れだった。


 部屋には俺の荒い息遣いだけが響く。

 目の前で横たわる死体を見つめて、頭の中が真っ白になりながら、茫然と冷たくなった手を握る。


「――――柊さん」


 呼びかけるも返答はない。

 口は小さく開いたまま、瞬きの一つも見られない。

 脳はうっすらと理解した。


 たった今、俺の目の前で、ひいらぎ終里おわりという人間は死んだのだと。


「柊さん……柊さん」


 悲しいと思う気持ちはあった。

 しかしそれ以上に――彼は、一生懸命この世界で生き抜いてきたのだ。

 たった一人で、途方もない時間を孤独に過ごしてきた。


 ならば、もう止めておこう。

 身体を傷つけることなくいたわり、安らかに眠らせてあげよう。


「ありがとうございました……柊さん」


 その場に立ち上がり、手を合わせて瞼を閉じる。

 頬を伝う暖かな感触は、自然と乾き冷めていく。


 俺は荒天の外に出た。

 耳をつんざくほどの風切り音とともに、大量のひょうが降り注いできて、手足の指先や顔面に切り傷を負わせる。

 それでも構わず前へと進む。

 雪で視界を遮られ、当てもなく、ただ息絶えるためだけに歩き続ける。


 この世界にもう人類はいない。

 俺がすべきことも、もう存在しないはずだ。


 黒雲に覆われた空に向かって、力の限り叫ぶ。


「――梛野なぎの先生! この夢はいつ覚めるんですか⁉」


 自然と怒りが込み上げてくる。

 両手を強く握りしめ、再び叫んだ。


「先生は俺に、この世界で何をさせたかったんですか⁉」


 答えは何も返ってこない。

 分かっている――それでも言わずにはいられなかった。



「俺は……柊さんを死なせるために、この世界に来たわけじゃない‼」



 やり場のない感情を、天高く解き放った瞬間。

 突然、視界がぐにゃりと曲がり、強烈な吐き気に襲われた。

 堪らずその場に崩れ落ちる――焦げ茶色の嘔吐物が雪の上に零れ落ち、それでも喉の奥の不快感は消えずに、立ち上がる気力を失ってしまう。

 次第に耳鳴りも聞こえ始めた。

 まるで命令系統を乗っ取られてしまったように、身体が言うことを聞いてくれない。


 段々と眠気が湧き出てくる。

 意識が途切れ途切れになり、もう動くことは叶わない。


 きっと、次の夢を見ろということなのだろう。


「……くそっ……くそっ……!」


 また、こんな地獄を見せようというのなら。

 今度こそ誰も死なせない――俺の手で救ってみせる。

 強く決意するとともに、瞼が重く閉ざされた。


 その時、どこからか声が聞こえる。


『――それでいいんだよ』

「え……?」

『抗って。この夢に。負けないで。この夢に――』


 幻聴ではない。

 どこか懐かしく感じるこの声は、少女らしく聞こえた。

 しかし妙だ。

 まるで聞き覚えがない。

 俺のことを知っているのか、この夢の目的が何なのか――聞きたいと思い、最後の力を振り絞って瞼を開けた。


 周囲の音が消えて無くなっていく。

 目の前が暗闇に包まれ、白銀の世界が消滅する。

 もう少女の声は聞こえなかった。


 そして、俺の意識は遠のいていった。

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