第2話 永久凍土の世界

 ゆっくりと覚醒したとき、最初に感じたのは強烈な寒さだった。

 カプセルの中よりも冷たく、全身がかじかんでけるような痛みを覚える。

 掌には固く脆い感触。

 視界を埋め尽くす白色の固形物が積雪せきせつだと理解したのは、自分が地面に寝そべっているのを自覚してからだった。


 慌てて起き上がり、辺りを見渡す。

 見覚えのない街の光景が広がっていた――ここは夢の世界なのだろうと、おぼろげながら理解する。

 少し歩き、ザクリと雪を踏みしめる感触が本物に近いことに驚く。

 どうやら今まで見てきた夢よりも、かなり現実に忠実な世界のようだ。


 俺は今、街の大通りにある道路の中央にいる。

 人気ひとけはなく、路肩では何台かの車体が雪に埋まり、まだ外は明るいというのに営みのあかりは見当たらない。

 まるで終末世界のような、不気味な静寂が漂っている。


「……誰かいませんかー? おーい?」


 白い息とともに呼びかけるも、声は返ってこなかった。

 仕方なく先を歩き続ける――どこまでも変わらない白銀の景色に、段々と不安が湧き上がってくる。

 すると、突然強い風が吹きつけた。

 地面の雪が舞い上がり、一瞬で視界の全てを覆い尽くしていく。


 そうして吹雪の中、たちまち身動きが取れなくなった。

 先ほどまで晴天だった空も黒雲で覆われ、全身に大粒のひょうがぶつかり、耳たぶや頬の辺りにじんわりと熱さが広がっていく。

 切り刻まれるような痛みに耐えるが、激しい寒さに震える両脚は、遂に力を失ってしまった。

 雪の上に膝から崩れ落ちる。

 両目をつむり、両手で肩を寄せて、まさかここで息絶えるのかとぎった――まさにその時。


 豪風の音の中で、若々しい男の声が聞こえてきた。


「――大丈夫かー!」


 次いでザク、ザクと足音が聞こえる。

 段々と近づいてきたかと思うと、俺の身体をくるむように厚めの毛布が羽織られる。

 そして頭にゴーグルを掛けられ――瞼を開けると銀世界が黒ずんで見えた。

 視界を確保できた俺は、隣に寄り添う男のほうを向く。


 黒色のジャンパーに防寒用のズボン。俺と同じようにゴーグルを付け、首元にマフラーを巻いている。

 ゴーグル越しに瞳が合うと、口元が嬉しそうにほころんだ。

 吹雪の中でも優しげな雰囲気を醸し出しながら、青年は俺の耳元で言った。


「動けるか?」

「……あぁ、動ける」

「よーし! それじゃあ俺の住処すみかに行くぞ! 肩を貸すから、あんたも一緒に来るんだ!」

「助かった。ありがとう……」

「いいってことさ! さぁ、行くぞ!」


 青年に担がれて来た道を戻る。

 足取りはしっかりとしていて、特に屈強そうな身体でもないのに、強風にあおられてもビクともしない。

 不安が徐々にやわらいでいく。

 ふと俺は、青年に尋ねる。


「……君の名前は?」


 そして青年は笑みを浮かべて答えた。


ひいらぎ終里おわりだ。よろしくな!」


***


 窓の外は吹雪で覆われてしまって、すっかり街の光景を見通せなくなっている。

 柊さんの住処、もといマンションの一室には暖房が効いていて、冷え切っていた身体はすっかり平温に戻った。

 指先にも血が通うようになり、両脚の震えも無事に収まる。

 ガラスに映る自分の顔も、この部屋に来たときより血色が良くなってきた。


「――ほら、出来たぞー。食ってけ食ってけー」

「あ……ありがとうございます」

「どーも」


 差し入れてもらったインスタント食品を頬張る。

 十分な湯が注がれていないのか、食材が少し固めだった。

 それでも味わい深く、かつ適量だったので、疲れ切って空腹だった身体にはこの上ないご馳走ちそうだった。


 アンティーク調のソファに座って、互いに向かい合う。

 食事が熱かったのか、柊さんは時折咳込みながらそっと箸を下ろす。


「それにしても驚いたよ。まさか俺以外に生き残っている人間が、まだこの世界にいたなんて」

「俺もビックリしました。もし助けてもらわなかったら、今頃どうなっていたか」

「あははっ。気にすんなって。困ってるときはお互い様だろ? 特に俺たちは、数少ない生き残りなんだからな」


 とても嬉しそうだ。

 宝物を見つけた子どものように、茶色の瞳をキラキラと輝かせている。

 薄々感づいてはいたが、どうやらこの世界には人間がいないらしい――道理で叫んでも返事がなかったはずだ。

 そしてその理由も、外の現状を考えれば何となく想像はつく。


「寒かっただろ、外? 運が悪かったな。今日はこれから荒天になるんだ。いつも以上に冷え込むぞ」

「分かるんですか?」

「あぁ。何たって目を養ってるからな。空を一目見れば、天気の移り変わりぐらい一瞬で見抜ける」

「天気予報とかなくても?」

「もちろん。教えてくれる奴がいないんだから、自分で探るしかないだろう?」


 にわかに信じ難いが、本当ならたくましいサバイバル能力だ。

 恐らく過酷な環境の中で磨かれたのだろう。

 同じぐらいの年に見えるのに、俺よりもずっと大人びていて頼もしく感じる。


 柊さんは飄々ひょうひょうとして告げた。


「何たって俺、この惑星ほしの最後の人類だからな。他の奴らは皆、寒さと飢えで死んじまったし。仕方がないのさ。物資もないから楽に死ねないしな」


 肩をすくめて笑う。

 笑い事ではないはずなのに、全く辛さを感じさせない。

 きっと、この世界では極限状態こそが日常なのだ。


 先に食べ終えた柊さんは立ち上がり、ゴミ箱に容器を放る。

 どこか出かけるのか、気になっていると、


「ちょっとトイレに行ってくる。長くなるかもしれないから、適当にくつろいでてくれ」


 そう言ってリビングルームから出ていった。

 一気に手持ち無沙汰になったので、俺はひとまず立ち上がり、室内を探索することにする。

 あくまでここは夢の世界。

 自分の記憶を取り戻すため、手掛かりとなるものを探さなければならない。


 とはいえ、資料が散らばっていたラボの乱雑さと比べると、この部屋の備品は随分整然とされていた。

 家電製品は小さめのもので、筆記具も最低限の個数しかない――雑貨の類は見当たらず、衣類を収納するクローゼットも置かれてなかった。

 ミニマリストだと言われれば納得するほど、あまりにも少なすぎる備品の数。

 故に、柊さんのデスクに視線を奪われる。

 その上には数枚のカルテが置かれていて、見ると全て肺を映した写真だった。


 肺はほとんど白色で映されている。

 医学的な知識があるわけではないが、正常な人間のカルテでないことはすぐに分かった。

 そして、人類が絶滅したこの世界で、カルテを撮れる人物はただ一人。


「……まさか」


 その時、部屋の外から何かが落ちたような、鈍い音が聞こえた。

 嫌な予感がして、すぐに駆けつける。


「……柊さん!」


 トイレから出ようとしていたのだろうか。

 扉を全開にして、電気もつけたまま、柊さんが床に倒れ込んでいた。

 しかし一番驚いたのは、彼の口から滴り落ちる鮮血――苦しそうに吐き出していて、全く止まる様子がない。

 幸い意識はあるようで、茶色の瞳がぼんやりと揺らめいていた。


 どうにか身体を起こして担ぐと、リビングまで運びソファに座らせる。

 そして強く呼び掛けた。


「大丈夫ですか! 何でこんな……!」

「……ごめ、んな。うえっ……やっち、まった……」

「しっかり! 薬はどこかにありますか?」

「……ない。そんな、べんりなの、ない」

「え……!」


 頭の中がパニックになる。

 この状況をどうすればいいのか、分からなくなる。

 しかし柊さんは静かに微笑み、力なく呟いた。


「いい……いいんだ。こうなる、ことは……分かってたから……」

「……分かってたって、どういう意味ですか」


 ――嘘だ。

 分かっていないフリをしているだけで、本当は薄々感づいていた。

 

 もしあれが、柊さんの身体のものだとすれば。


「……おれ、けっかく、なんだ。だから……もうすぐ、しぬんだ」


 結核けっかく


 最悪の未来が、最悪の言葉となって紡がれた瞬間だった。

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