ミナを愛してる
分福茶釜
第1話 夢の中へ
ラボの中は相変わらず
それでも、ここまで立派な施設を建てられたのは素晴らしい実績だろう。
最先端の研究設備を有し、世界一の敷地面積を誇るラボの廊下を、俺は彼女と歩いていた。
「……ここにはいつ来ても慣れないな。背中がゾクゾクするよ」
「もう。またそんなこと言って。何回も来てるでしょ?」
「分かってる。記憶がないから、こう感じるだけなんだよな」
「そうそう。すぐに慣れるから気にすることないって」
彼女は俺の肩を優しく叩く。
少しガサツなところもあるが、根は良い人であることを知っているから、そこまで気にならない。
彼女の名前は
セミロングの茶髪をふわりと泳がせ、ベージュのトップスに淡い黄色のスカートを合わせている。
勝気な瞳は釣り上がっていて、薄い唇は快活に微笑んでいた。
時折見える白く輝く歯は、まるでモデルのように綺麗に揃っていて――とても俺の彼女だとは思えない。
ラボで治療を数回受け、一カ月ほど
「……またドキドキしてるぅ」
つい視線を逸らしてしまったのがバレる。
ジト目で
「まだ慣れない? 私に」
「……ごめん。すごく綺麗だから、どうしてもドキドキしちゃうんだ」
「全くぅ。そうやってお世辞を言うのは上手いよね、
「昔……小さい頃のことかな」
「そうそう。春人くんは今までずっとおませさんなんだよ? おかげでどれだけヤキモチを焼いたことか」
「ごめんって」
「今度食事に連れてかなきゃ許しませーん」
ミナは意地悪に突き放す。
こうなると、俺が折れるしかない。
同棲している間、一度も口喧嘩で勝てた試しがないからだ。
「分かったよ。今度、とっておきのお店を予約する。約束だ」
ひたすら平謝りする。
するとミナは、次第に気分を良くして微笑み始めた。
「……フレンチのレストランね?」
「ご所望とあれば」
「最低でも高級なところじゃないと嫌だから。あと野菜が出ないお店ね」
「あるかなぁ」
「返事はー?」
サー、イエッサー。
「よろしい。それじゃあお願いねっ」
すっかり言い負かされてしまった。
今日の治療が終わったら、要望に沿うお店を検索するとしよう。
そう心に決めていると、ラボの奥にある部屋の前に着いた。
人気のない施設の中でも特に静かだ――ミナには内緒にしているが、この辺りまで来ると少しだけ背筋がヒヤリとする。
別にワケありの物件、というわけではない。
なぜ怖がってしまうのかは、正直俺にもよく分からない。
扉を軽くノックする。
部屋の中から男性の声が返ってくる。
もう何回か聞いたことのある、俺の主治医の声だった。
「――やぁ春人くん。それにミナさんも。よく来てくれたね」
「こんにちは、
「こんにちはっ」
扉を開けて招き入れてくれたのは、
ラボの
ボサボサの
応接用のソファに座ると、先生の好物でもあるコーヒーを差し出してくれた。
淹れたてだ。
素手でマグカップを持つと、ほんのりと暖かさが伝わってくる。
「外は寒かっただろう。さぁ、飲んでくれたまえ」
「……ありがとうございます」
頭を下げると、一口いただく。
自分には少し苦く感じた――隣に座るミナは美味しそうに、ゴクゴクと飲み干している。
男らしい飲みっぷりに気を良くしたのか、先生は頬を
対面のソファにもたれかかりながら、俺に尋ねてくる。
「最後に治療してから1カ月ほど経ったけど、どうだい。今の調子は良いかい?」
「おかげさまで、落ち着いて生活できてます」
「そうか。初めて出会ったときのように、パニックを起こすようなことは」
「大丈夫です。私がずっとそばで見守ってきたので」
「はっはっは。なら安心だね。今日が最後の治療日になる予定だから、不安材料はないほうがいい」
「……今日まで、本当にお世話になりました」
再び頭を下げる。
先生には色々
記憶喪失である俺を邪険に扱うことなく、一人の人間として接してくれたのは嬉しかったし――数少ない味方として信頼することができた。
たとえ記憶を取り戻しても、先生への感謝を忘れはしないだろう。
「いいのさ。私にとっても有意義な治療だったからね。春人くんのおかげで、この修繕カプセルの研究も飛躍的に進んだよ」
先生はそう言って、部屋の隅に設置された巨大な保存装置に視線を向けた。
成人一人がちょうど入れるほどの大きさで、中には冷凍機能が
あれが、俺の眠ったままの記憶を呼び起こしてくれる装置だ。
そして先生の研究の結晶でもある。
俺は先生に尋ねた。
「今日で、最後なんですよね」
「あぁ。私の見込み通りなら、記憶の抽出に成功できるはずだ」
「ミナのことも、思い出せますかね……」
「それは春人くん次第でもある。私も神ではないからね。全てに手は及ばないのさ」
「……そうですよね」
不安になる。
もし記憶を取り戻したとして、ミナや先生のことを忘れてしまわないか――今のささやかな幸せが崩れてしまうのではないか、と。
そんな後ろ向きな考えが、顔に出てしまっていたのだろう。
ミナが俺の肩を優しくさすりながら言った。
「大丈夫。春人がどうなっても、私は受け入れるから」
「ミナ……」
掠れた声が漏れてしまった俺に、彼女は明るい笑顔を見せる。
その笑顔にも、俺は何度も救われてきた。
「私はずっと春人の味方だよ。これだけは絶対に変わらないし、誰に何を言われても譲らないもん」
容易に想像できる。
きっと世界中を敵に回しても、彼女は俺に食事をせがむはずだ。
少しだけ心が軽くなる。
最後の治療に対する緊張が、段々ほぐれていくのを感じる。
そうして俺は、先生とミナに連れられてカプセルの中に入った。
装置の中はかなり冷たい――これから全身麻酔を施され、仮死状態に突入する。
後は先生に、この身体を委ねるのみだ。
開閉扉が閉められる前、俺は二人と最後の会話を交わす。
「いいかい、春人くん。君はこれから
「……はい」
「私もできる限りのサポートはする。だから春人くんにも、自分にできることを頑張ってほしい」
「分かりました」
「長い夢から覚めたとき、失われた記憶を取り戻せていることを願っているよ」
小さく頷くと、先生は満足げに微笑み、装置の起動準備に取り掛かる。
次いでミナが
「……いよいよだね」
「あぁ。やっとミナのことを思い出せそうだ」
「ふふっ。そしたらもう、おませさんじゃなくなっちゃうかもね。あーあ、残念」
「どうして? 照れるのは嫌なんだろ?」
「まぁ、よそよそしく感じるからね。でもそれ以上に、顔を赤くしてる春人を見るのは、すごく新鮮だったから。見れなくなると思うと寂しいなーって」
どこまでも意地悪な性格だ。
しかし、そんなところも愛らしく思えるようになった。
ミナの茶色の瞳を見つめる。
たとえ記憶を取り戻しても、彼女への想いは変わらない。
口には決して出さないが――俺は飯倉ミナが好きだ。
「絶対に記憶を取り戻してくるよ。それで、この治療が終わったら、二人で一緒に食事に行こう」
「……春人くんっ」
「約束だ……ミナ」
冷凍されたカプセルの中でも、ミナの体温は確かに感じられた。
そして先生の合図でミナが離れると、扉が重厚な音を鳴らして閉ざされる。
麻酔が効き始め、意識が
「――春人くんっ! ここで待ってるからね! 約束だからねっ――!」
瞼がゆっくりと閉じていく。
そうして俺は、一時の長い眠りに
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