旅立ち、失望

 死神との出会いからしばらくして経過したが、何も起こらなかった。日常は普段通り過ぎ去り、失恋の痛手を負ったままゆみは悶々もんもんな日々を送っていた。

 ある日の授業中にふと荒井君が座っている席の方をばれないように、そーっと見てみると何やら鼻をほじっている。立派なやつがほじくれたらしく、誇らしげにそれを眺めて、ぴーんと弾き飛ばした。ゆみはそれを見て、はっとクソ87のことを思い出した。休み時間に少しだ勇気を振り絞って荒井君に声をかけた。


「荒井君は本当に中国に行こうと思っているの?」


「もう退学届けは提出したから、早ければ来週中に旅立てると思うよ。まわりは大反対。せめて高校ぐらいは卒業しろって親に泣いて頼まれたけど、鼻くそばっかりほじってて何にも意味がないからいやだって説得してやったよ。二人ともマーボ豆腐は好物だから内心喜んでいるとは思うけどね」その鼻くそが引き金となって世界中がおかしくなる話をあの日、死神から聞いたんだけどとは言えなかった。


「中国のなんていう場所に行くの?やっぱり北京か上海?」


「何言っているんだよ?マーボ豆腐の本場はなんとっても四川省しせんしょう成都せいとだよ。とりあえずそこの語学学校に入学して中国語を学びながら、陳々ちんマーボ豆腐店に弟子入りしようと思う」死神が言っていた場所の名前を荒井君の口から出たことに、一抹いちまつの不安が頭の中をかすめた。さすがに、就業中に鼻くそをさっきみたいにほじくりまわさないでねとは言えなかった。が、ゆみはもう一歩大きく踏み込んでお互いの連絡先を交換することができた。


「ゆみ、あんたさ荒井君が学校辞めてから全然元気ないみたいだけど大丈夫?三か月も経ってるんだし、それこそ男なんてさ掃いて捨てるほどいるんだから、早く次の人見つけなよ。今度いい人紹介しようか?」春ちゃんが心配して家にやって来た。


「ううん。大丈夫だよ、荒井君とは連絡先も交換したし、今だってたまにはメールが来たりしてお互いの近況を報告しているから、この前もメールが来ててね、二週間前に念願のちん々マーボ豆腐店に弟子入りできたって、荒井君とっても喜んでるみたい。今お茶淹れてくるね」春ちゃんが気にかけてくれることはとても嬉しかったが、どうしても荒井君のことが忘れることができなかった。


 お茶とお菓子を持って部屋に戻ると、


「ケータイ鳴ってたよ。もしかして荒井君だったりして?」春ちゃんがにやにやして聞いてきた。


「あっ荒井君からだっ!」ゆみ大声を張り上げ、メールを読み始めた。


 ゆみさんへ


 あなたに本当のことを打ち明けようと思います。僕は恰好をつけて学校を辞め、遠路はるばる中国までやって来てマーボ豆腐の修行に来たわけですが、自分の考えがどれだけ甘かったかを、この店のマーボ豆腐を食べて知りました。僕には辛すぎてこの本場のマーボ豆腐を一口食べただけで、翌日はお腹を壊してしまいます。成都の人は辛い物がとても好きなようで平気な顔をして食べています。ここの人の辛いのレベルは暴力的な辛さです。たくさんの期待をこめて口いっぱいにこの店のマーボ豆腐を口に入れた時は、本当に死ぬ思いをしました。この店だけではなく、どこの店のどんな料理も辛すぎてとてもじゃないですが、人間が食べる代物とは思えません。

 僕は何か大きな勘違いをしていたみたいです。小さいころにクックディドゥーのレトルトマーボ豆腐に心を魅了され、本物の味を追及してここまで来たわけですが、今はどうしていいのかさっぱりわかりません。

 日本がこんなに恋しいと思ったのは生まれて初めてです。故郷は遠きにありて思うものとはよく言ったものです。

 中国に来る前に、親からも中国の中華料理は日本の中華料理とは別物だからと口すっぱく言われていましたが、僕は全く聞く耳を持っていませんでした。弟子入りしたといっても、毎日皿洗いばかりさせられて、調理場へ足を運ぶ機会さえないぐらいです。僕は何かとんでもない失敗をやらかしてしまったようです。でも、この国は活気があり刺激に満ち溢れているので、きっと何かが見つかると思います。今は中国語の習得に重点を置き、店の人たちとわいわいやりながら楽しく過ごしています。

 あの日君に命を救われてた時、正直に君の気持ちを受け止めていればよかったと後悔しています。ここに来てからの秘かな楽しみは日本から持ってきたカップラーメンを食べることです、しかしそれもあと少しでなくなるので、あまり得意ではない自炊を始めなければならない時が迫っています。僕はどっちかというと追い込まれた時に本領を発揮する方なので、なんとかなると思うので心配しないように。あとは他にすることがないのでほじっています(笑)。今回は少し弱音を吐きましたが、どうかお許しください。君にだけは本当のことを伝えたかったので。                     


                                    荒井 


 ゆみは最後のほうの文章が気にかかった。鼻くそばっかりほじっています(笑)とあった下りは、嫌でも死神が言っていたことを思い出させた。


「荒井君だいぶ追い込まれてるね。そりゃそうだよ、いくら同じ東南アジア人といってもさ、中国人と日本人の味覚には天と地ほどの差があるわよね。でもいいんじゃないの?彼はきっと成長して帰ってくるわよ。きっと自分の立ち位置というものを学んだはずだし、違った角度から物事を見れるようになるのは大きな収穫よ」春ちゃんがゆみを励まそうと前向きなことを言った。


「違うのそんなことはどうでもいいの!荒井君鼻くそばっかりほじってるって書いてあるでしょ?それがいちばんやばいことなのっ」半分泣きそうになりながらゆみは春ちゃんにあの日何が起こったかを話し始めた。


「死神、クソ87、何それ?あんたさ、フラれたショックで幻覚でも見たんじゃないの?絶対にそんなことは起こらないから心配しないの、鼻くそなんて誰でも隠れて食べてるぐらいだし、そんなに人間はやわじゃないわよ」春ちゃんは根本的なことを理解しなかったようだ、鼻くそなんてどうでもいい。私も小さいころにはよく食べていたから死なないことはわかる。悪党どもが問題は鼻くそにクソ87という新しい概念を与えることによって、今までのどうでもいい鼻くそが、メディアの力によって恐怖の鼻くそに変貌へんぼうさせられることだ。

 ゆみはここまで考えて、ハッと我に返った。私はなんで死神の言ったことばかり考えているのか?死神の言っていた話はあまりにも現実離れしている。絶対に起こるはずはない。気持ちが重く沈んでしまったので春ちゃんには悪いが、具合が悪いっと言って帰ってもらい、今日は何もせずに早くに眠ることにした。

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