第十六部「丑の刻の森」第2話 (修正版)

 妃水ひすいが最初に子供を産んだのは一八の歳。

 神社の周りが薄らと雪に覆われる頃。

 産婆さんばは代々母親が務める。病院には行かず、神社での出産。

 よく言えば昔ながら。

 昔ならばそれだけで済むが、現代は出産届け等もあり、行政への手続きもある。

 しかし、代々その手続きはしていない。

 いわば、戸籍の無い一族。

 誰が死んでも、死亡届けの必要も無い。

 子供が産まれても学校には通わせず、誰もが神社だけで育てられる。

 食料は裏山で採れる山菜や野草、木の芽、近くの川で取れる魚。

 どうしても必要なものがあれば、定期的に顔を見せる他の神社の人間に頼む。もちろんその神社は清国会しんこくかいの関係。

 人が入ってこない深い森を有する山奥。

 そうまでしても、清国会しんこくかいにはこの神社を守る理由があった。

 山に巣食う〝念〟が必要だった。

 その〝念〟を守る為に、その一族が必要だった。

 しかし遥か昔から〝男根おとこね〟は邪心を生むものとされた。女性だけのうし刻参こくまいりによって深い念を作り上げてきた。男の存在は女性の念の邪魔になるとされてきた。

 〝妊娠の為の男〟以外は不要とされた。

 一族の娘が年頃になると、婿むこ養子が充てがわれる。その婿むこ養子は幼い頃にさらわれ、雄滝おだき神社で育てられた者。

 一族に必要な娘は一人だけ。その娘を全力で守る。必要以上の人数は余裕を生み、その力を削ぐ。

 婿むこ養子を充てがわれた娘が女の子を産めば、婿むこ養子は用済み。

 しかし、妃水ひすいが最初に産んだのは男の子。

 自分が望まれていないことを知っているかのように、あまり大きな声では泣かなかった。

 母である美水みすいは寂しい目をするだけ。当然出産を喜ぶことはない。

「では妃水ひすい…………お願いしますよ…………」

 美水みすいはそれだけ言うと、無表情で立ち上がった。

 出産に立ち会うことが許されない婿むこ養子に、死産であると伝えに行く。

 へそを切ったばかり。妃水ひすいは震える体で上半身を上げようとするが、体の力は殆どが出産で削がれた後。

 隣には手足を僅かに動かしながら、小さく途切れ途切れに声を上げるだけの子供。未だ羊水ようすいに包まれたその姿を、妃水ひすいは懸命に〝物〟だと思うようにした。台所や屋根裏に巣食うねずみと同じだと思った。


 ──…………子供じゃない…………私の子じゃない…………


 妃水ひすいは枕の上の麻布あさぬののタオルを掴んでいた。さっきまで自らの頭を支えていたタオル。自分の汗が染み込んだタオル。

 それを子供の顔に押し付ける。

 タオルから手に、手から体に、命の抵抗を感じた。

 鼓動を感じた。

 暴れる子供の小さな手が、妃水ひすいの腕に当たる。


 ──……小さな手…………小さな足……………………


 ──…………人じゃない…………

 ──……私が産んだ赤ちゃんなんかじゃない…………


 やがて、静かになった。

 もはや手も足も動かない。

 鼓動も感じない。

 それでも、僅かな温もりだけが麻布あさぬのから伝わる。

 体が震え始めた。


 ──…………どうして……涙が出るの……………………


 妃水ひすいは周囲の幾枚ものタオルを闇雲に掻き集め、動かなくなった子供を包んだ。

 障子を開け、板戸を開けると、外は薄暗い。時間は妃水ひすいには分からない。

 妃水ひすいは部屋の燭台しょくだいの下に置いてあったマッチを手にすると、裸足のまま雪を踏みしめる。

 出産直後。

 体力はほぼ無い。

 ゆっくりと足を前に出した。

 小さな石や枝が足の裏に刺さるが、もはや妃水ひすいにはその感覚すら伝わらない。

 それでも足の間を流れ落ちていく何かだけは感じる。

 ただただ歩き続け、無心になろうと努める。


 ──…………母上も…………同じことをしたの…………?


 それでも右手に抱いたタオルの塊から、まだ温もりを感じた。

 周囲から夥しい数の視線を感じる。視線を忙しなく配るが、目に映るのは月明かりに照らされた藁人形わらにんぎょうばかり。

 まるで何かを吸い込むような暗い洞窟の入り口。

 妃水ひすいは吸い込まれるように入っていった。

 四つん這いになり、右手に子供を抱き、左手で足元を触りながら進み、穴を探す。

 大きなくぼみで歩みを止めた。

 目を凝らすと、ゆっくりと闇の塊が現れる。

 妃水ひすいは、そのまましばらく動かなかった。

 妃水ひすいにとっては総てが初めての経験。洞窟の中に入るのも初めて。

 人間の命を奪ったのも初めて。


 ──…………ごめんね……………………


 罪悪感を認めた時、妃水ひすいはゆっくりと布の塊を穴に落とした。

 聞こえるのは、僅かな傾斜を滑り落ちていく音。そして、小さく鈍い音と共に、静かになった。

 外に出ると、空気が違った。それまでの重い雰囲気は無い。

 松明たいまつ燭台しょくだいそばにあるびついたバケツを手に取ると、近くの雪混じりの土を掻き集めた。スコップで土を掘ろうという発想すら浮かばない。両手が冷たさで硬くなっていく。

 何度か往復すると、マッチに火を灯す。しかし松明たいまつにはなかなか火が着かない。

 洞窟の中に紛れ込んでいた細い枯れ枝を使い、やっと火が広がる。

 途端に、暖かさを感じた。


 それから一年と少し。

 春の香りを感じる頃。

 妃水ひすいは二人目を妊娠する。

 病院に行くわけではない。性別が分からないまま、日々と共に不安だけが増していく。

 大きくなっていく自分のお腹に、喜びは無い。

 やがて、音水ねすいが産まれた。

 笑顔が浮かびかけた妃水ひすいに向けて、美水みすいはまたしても寂しい表情を向ける。そして赤ん坊を湯の張ったおけで洗い始めた。

 妃水ひすいも気付く。


 ──……この子にも……同じ運命を背負わせる…………


 そこに美水みすいの声。

「……よく頑張りましたね…………この子は我らの運命を継ぐ子です…………大事に育てていくのですよ…………」

 しかし、この後のことは言わなかった。


 一週間以内にしなければならないことがある。

 それは体力がいること。

 そして、相手は子供とは違う。


 出産から五日後。

 夜。

 妃水ひすいは夫の角由かくよしを裏山に呼び出していた。

 久しぶりに登る緩い山肌。

 夜になると空気が重い。

 独特の息苦しさを感じる。

 子供の頃から、森の藁人形わらにんぎょうに触ってはいけないと言われて育った。

 月に一度ほどの頻度で、深夜に釘を打ち付ける音。

 うし刻参こくまいり────誰かが誰かを呪う儀式。

 しかしその誰かが去っても、そこには〝念〟が残される。残され続けた。決して消えない。

 足が重い。

 山を覆う〝何か〟が足に絡みつく。

 洞窟の入り口はすぐそこ。

 今回は松明たいまつに火を着けるのにも戸惑わないはず。

 持ち物は懐中電灯とマッチ、そして巫女みこ服に使用する腰紐こしひも。丈夫で、かつ細すぎない。あまり太いひもは向かないと美水みすいから教わっていた。長さも丁度いい。

 妃水ひすい松明たいまつを背に、自分の登ってきた山肌を見下ろした。

 遥か下に、小さな懐中電灯の灯りがチラつく。

 その登ってくる夫を待つ間、不思議と妃水ひすいの気持ちは落ち着いていた。


 ──……あの時とは違う…………愛情なんかない…………


「…………お待ちしておりました」

 肩で息をする角由かくよしに、妃水ひすいは涼しげな声を掛けた。

 角由かくよしは大きく息を吐き出して返す。

「……ここには……来てはいけないと聞いていましたが…………」

「……はい…………今夜は特別な儀式がございます…………お手伝いをお願い致したく、ご足労願いました」

「…………そ……そうでしたか…………」

「どうぞ、中へ…………」

 妃水ひすいは懐中電灯のあかりだけを頼りに洞窟へと入っていく。

 角由かくよしは未だ息を切らしたまま。

 初めての暗い洞窟に圧倒されながらも妃水ひすいを追いかける。

 しだいに天井が低くなった。

 腰を落としながら、膝も曲がったまま。

 やがて、妃水ひすい角由かくよしも完全に腰を落とし、穴の入り口を見下ろした時、角由かくよしは手を着いて穴を見下ろしていた。中を照らしながら唾を飲み込む。

「深い穴ですね…………この穴は…………」

 首を回すが、隣にあったはずの妃水ひすいの顔が無い。

 妃水ひすい角由かくよしの斜め後ろ。

 両手に腰紐こしひもを巻き付けていた。

 それを角由かくよしの背後から首にかけると、そのまま手を交差させ、力の限り引く。

 美水みすいから教わっていた。ひもは細いと自分の指が痛くなるから力が入りにくい。太いと首の肌に食い込みにくく、かつ相手が指を入れやすくなる。腰紐こしひもが丁度いいと。しかも腰紐こしひもは丈夫だからと。

 低い呻き声を出しながら、角由かくよしの体が波打つ。

 両足を伸ばしたその体に、妃水ひすいは馬乗りになって背中に足をかけた。

 時間が掛かった。

 〝あの時〟とは違う。

 そして、やがてその体は静かになった。

 それでもすぐにはひもは外さず、妃水ひすい角由かくよしの心臓の音を確かめた。

 何も聞こえない。

 聞こえるのは自らの激しい鼓動だけ。

 ひもを首に巻いたままの角由かくよしの体を、妃水ひすいは穴に押し込むように落とすと、外に駆け出す。

 息苦しかった。

 いつの間にか呼吸が荒い。

 すぐにバケツを手に、スコップで土を掘る。

 いくつもの視線を感じた。大量の視線が交互に迫ってくる。


 ──……私は悪くない……私は悪くない…………


 一時間後、妃水ひすい松明たいまつに火を灯す。

 火の粉を振り撒きながら、その灯りは周囲を明るく照らしていた。

 もし、音水ねすいが病気で命を落とすようなことがあっても、次の婿むこ養子を招けばいいだけ。





 綾芽あやめ涼沙りょうさ雄滝おだき神社にいた。

 もう二ヶ月になる。

 修行の毎日だったが、その大半は萌江もえたちの動きを探るための祈祷きとうに費やされた。

 それは一重ひとえに、誰にも〝見えなかったから〟に他ならない。

 雄滝おだき神社の人間を持ってしても居場所も動きも見えない。誰かに邪魔されていることは明白だったが、その足掛かりとして、血の繋がりの濃い西沙せいさの姉である綾芽あやめ涼沙りょうさの力が求められた。

 その計画の中心となったのは清国会しんこくかいの総本山である雄滝おだき神社をまも滝川たきがわ家の当主、恵麻えま

 萌江もえを手に入れるためならば、咲恵さきえ西沙せいさの犠牲はやむを得ない。二人を依代よりしろとする御世みよ京子きょうこの存在を消さなければ、萌江もえ清国会しんこくかいの頂点に座らせることは出来ないだろうと考えていた。

 しかし綾芽あやめ涼沙りょうさを介しても、未だに見付けることが出来ずにいた。

 そしてその夜も祈祷きとうは続いた。

 恵麻えまを中心に妹の陽麻ひまが横に着く形で祭壇に向かっていた。その二人の背後には綾芽あやめ涼沙りょうさ

 松明たいまつの火の粉が辺りを照らす。

 やがて、恵麻えま呪詛じゅその声が本殿を揺らす中、涼沙りょうさが体を前後に揺らし始めた。

 神楽鈴かぐらすずの音が響く。

 涼沙りょうさの顔や首から大量の汗。

 隣の綾芽あやめはすぐに気が付いたが、決して動じない。初めてではなかった。

 というより、動じてはいけなかった。以前にこうなった時、涼沙りょうさに寄り添った綾芽あやめ恵麻えまに叱責されていたからだ。

 そして、そのまま涼沙りょうさは床に倒れ込む。

 綾芽あやめは一瞬だけ顔を向けかけて、恵麻えまの反応を伺う。

 恵麻えまには、背中から総てが見えていた。その恵麻えま呪詛じゅそが止んだかと思うと、小さく言葉を発する。

綾芽あやめ…………何が見えたのか…………後で報告するように」

 恵麻えま陽麻ひまは立ち上がり、そのまま祭壇を出ていく。

 綾芽あやめはその二人の姿が見えなくなると、すぐにふところから手拭いを取り出して倒れる涼沙りょうさの汗を拭った。

 意識はある。気を失っているわけではない。

 荒い息遣いが痛々しかった。

涼沙りょうさ……部屋に行きましょう。まずは休まないと…………」

 綾芽あやめ涼沙りょうさに肩を貸し、寝室まで運ぶ。

 とても会話の出来る様子ではなかった。まして見えた映像など今の綾芽あやめにはどうでもいい。それよりも、雄滝おだき神社に来てから少しずつ痩せていく涼沙りょうさのことのほうが心配だった。

 涼沙りょうさ巫女みこ服を脱がせると、未だ全身が汗で覆われたまま。綾芽あやめは全身のその汗を拭った。


 ──……私はどうすればいいの…………西沙せいさ……………………


 二人の母であるさき雄滝おだき神社を訪れたのはその頃。

「これはこれは…………娘の様子を見に来ましたか?」

 参道を歩くさきに声を掛けてきたのは、恵麻えま陽麻ひまの母、前当主の陽恵ひえだった。

 さきはすぐに深々と頭を下げる。

 陽恵ひえが近付きながら続けた。

「今は湖のほうの滝に行っております…………本殿で待っているがよい」

「左様でしたか……では失礼致します」

 すると、すれ違いざま、陽恵ひえさきの耳元でささやく。

おのが子を心配するのは血を分けた親として当然のこと…………それはわれも同じです」

 陽恵ひえはそれだけ言うと、さきから離れていった。

 清国会しんこくかいくらいではもちろんさき御陵院ごりょういん家より滝川たきがわ家が上。その滝川たきがわ家の前当主が下であるさきに対して〝同調〟などするはずがない。

 さき陽恵ひえの言葉の真意を計りかねた。

 それでも、途端に不安が押し寄せる。二ヶ月の間、会えないだけではなく電話も許されなかった。今日は恵麻えまに呼び出されたから来れたようなもの。感謝こそすれ、不安が無いわけではない。

 さきは本殿に上がると、入ってすぐの板間に腰を降ろした。

 大きく開け放たれているのは正面だけではない。左右まで板戸が開かれ、神社ならではの広大な開放感の中を爽やかな風が過ぎていく。

 しかしさきは、それに誤魔化されないほどの強い〝念〟を祭壇から感じていた。

 ただ強いだけではない。

 しかしその正体は見えない。

 ここで何が行われているのか、もちろんさきは知らなかった。綾芽あやめ涼沙りょうさを利用することで西沙せいさを切り口としたいことは理解出来た。しかしその上で恵麻えま西沙せいさをどうするつもりなのかは見えなかった。

 西沙せいささきから去っていった。

 それは変わらない。

 相対する存在となっていることは事実。しかも御世みよ京子きょうこ依代よりしろとして萌江もえを守っている。清国会しんこくかいとして萌江もえを招き入れることは必要なことだが、その時に清国会しんこくかい咲恵さきえ西沙せいさをどうするつもりなのか。さきはその真意を恵麻えまから聞き出せないまま。

 やがて、参道に背を向けるさきの耳に足音が届いた。

 小さく顔を向けると、視界の端に恵麻えまを先頭に三人の姿。

 さきは体を回して深々と頭を下げた。その瞬間に視界に残ったのは顔を伏せたまま歩く綾芽あやめ涼沙りょうささきの不安が膨らむ。

 そこに聞こえるのは恵麻えまの声。

さきか……よく来た」

 そして恵麻えまは階段を上がり、頭を下げたままのさきの横を通り過ぎる。

 さきが僅かに顔を上げると、そこには階段の下からさきを見上げる綾芽あやめ涼沙りょうさ。その二人の表情には不安と安堵が混ざり合う。特にさきが気になったのは涼沙りょうさの痩せ方。やつれてさえ見えた。

 しかしさきは振り切る。

 体を回し、祭壇の前に座る恵麻えまに向ける。背後からは二人が階段を登る足音。

 そこに恵麻えまの声。

「……よくないな…………二人を育てたのはお前ではないのか? さき…………」

 さきは軽く頭を下げながら応える。

「…………はい……」

 そのさきの横に綾芽あやめ涼沙りょうさが座った。

西沙せいさとの繋がりを求めたが…………まるで成果が無い…………血の濃さは関係ないということか?」

 その恵麻えまに返す言葉に困ったさきが、小さく口を開きかけた時、その耳に聞こえたのは涼沙りょうさの声だった。

「…………私なら……出来ます…………」

 その声に、恵麻えまが微かに首を回す。その鋭い目が涼沙りょうさに向いた。

 そして小さく。

「…………言うか……」

「姉のサポートがあれば……私には出来ます。現段階で西沙せいさに一番近付けるのは私だけなはず」

 事実だった。

 涼沙りょうさでも完全に見えていたわけではない。しかし一番近付けているのは涼沙りょうさだけ。

 もちろん恵麻えまもそれは分かっていた。しかし、いつも後一歩。そして、それが涼沙りょうさの体力を削っていることも理解している。

 その恵麻えまはすぐには応えない。

 静寂が緊張を刺激する。

 その静寂に混ざるのは、再びの涼沙りょうさの声。

「……私が……………………西沙せいさの代わりに、ヒルコ様の依代よりしろに…………」

 それに返す恵麻えまの声は、立ち上がって振り返るのと同時だった。

「貴様ごときがヒルコ様と────‼︎」

 恵麻えまの強い足音が床を揺らす。

 自分に迫るその姿に、涼沙りょうさが僅かに体を後ろに下げた時。

 涼沙りょうさの前には、体をひるがえし、片膝を着いて半身だけ乗り出したさきの姿。

 さき涼沙りょうさに正面を向け、背中を恵麻えまに向けていた。

 その背中の前で、恵麻えまが足を止める。

 さきは立てた膝に両手を乗せたまま、目を閉じていた。

 周囲の風さえ止まる。

 動くのは、横で見ている綾芽あやめまぶただけ。

 綾芽あやめの中に何かが込み上げる。

 色々なものが目からあふれそうになっていた。

 そして、最初に口を開くのは、さき

「……恵麻えま様も…………お分かりのはず…………新たな計画は動いております…………どうか…………今は、我が娘たちを存分に御利用下さい…………」

 さきは、細く目を開き、続ける。

 その目に映るのは、怯えた表情の涼沙りょうさ

「…………恵麻えま様も……………………何卒なにとぞ……御自愛ごじあいを……………………」

 そしてさきは、目だけを動かし、綾芽あやめに向けた。


 ──……あなたにも…………迷いがあるのですね……………………


「分かった…………さき…………」

 さきの背中に響く、恵麻えまの低い声。

 それが再び響く。

「しばらくはお前も留まれ…………結果を楽しみにしているぞ」





 そこに辿り着いたのは早朝。

 微かに空が明るくなっていた。

 途中のサービスエリアの駐車場で僅かに仮眠を取ってはいたが、誰も満足に熟睡など出来ないまま。

杏奈あんなちゃん、もう少し行くと左側に山道の入り口みたいなスペースがあるから、そこで」

 咲恵さきえは車の後部座席から、運転席の杏奈あんなにそう声をかけた。

 杏奈あんなは道路の左側に意識を向けながら応える。

「とすると、ガードレールの切れてる所が…………」

 三人が目指す弁財天べんざいてん神社は、地図に載ってはいるが、そこまでの道が無い。少なくとも地図上には記されていなかった。

 ヒントになるものはネットの情報だけ。僅かだが、うし刻参こくまいりの情報の中に〝しばらく道の無い山の中を歩かなければならない〟との情報があるだけ。公然とルートの入り口が書かれているものは見付けられなかった。

 頼りになるのは西沙せいさの痕跡だけ。

 幸い、萌江もえ咲恵さきえには難しいことではなかった。そして二人とも、今は明確に西沙せいさを感じる。はっきりとした言葉などではない。それでも二人には西沙せいさが見えた。〝感じる〟としか表現のしようのないものだ。

 その痕跡が、西沙せいさがわざと残したものだと信じたかった。

「ここですか?」

 杏奈あんなが車を停めたのは、舗装されたような場所ではない。車が二〜三台停められるだけの森の入り口。僅かに獣道けものみちとも言えるような所が森の奥に続いているだけ。看板があるわけでもなく、知らなければ通り過ぎてしまうような所だった。

「……うん…………西沙せいさちゃんに呼ばれてるよね…………やっぱり……」

 咲恵さきえがそう呟くように口を開くと、隣の萌江もえが返した。

「…………呼ばれなくても行くけどね。西沙せいさだけに背負わせる気はないよ」

 萌江もえはドアを開けて外に出ると、続けた。

「みんな……〝私〟に会いたいんでしょ…………出向いてやるよ」

 萌江もえ咲恵さきえが〝見えて〟いたことで、今回は全員がアウトドア用のブーツだった。しかも全員がジーンズに、上には短めの厚手のジャケット。まだ朝。しかも山の中。いずれは訪れる予定だった場所だ。事前に用意していたことが功を奏した。それでも鞄を持っているのは杏奈あんなだけ。いつもの鞄のストラップをリュックタイプに切り替えていた。萌江もえ咲恵さきえが持っているのは財布とスマートフォン、水のペットボトルだけ。

 すぐに道そのものが無くなることも分かっていた。しかし迷うことはない。目に見えない西沙せいさの痕跡を辿ればいい。

 一番後ろを歩く杏奈あんなにも不安は無い。萌江もえ咲恵さきえに着いていけば問題は無いと思えた。不安なのは自分の体力だけ。


 ──……西沙せいささんが待ってる…………


 杏奈あんなはそれだけを考えた。


 そして森の中を登り続けること二時間。

 やっと三人の前に、石の階段が姿を表す。

 幅は狭い。人一人がやっと。その左右を深い森が遥か上まで続いている。

 すでに明るくていいはずの時間にも関わらず、暗い。

 森の木々の高さが時間を隠す。

 三人は息を切らしながら階段を見上げていた。

 それぞれペットボトルの水を飲み込み、気持ちを休ませる。誰もが水の残りは少ない。それでも真夏でないことが唯一の救いだった。

 すでにジーンズの膝から下とブーツは草木の朝露あさつゆで濡れていた。結果的に足は重くなる。

「……西沙せいさを利用してっていうよりさあ…………」

 そう静かに口を開いた萌江もえが続ける。

西沙せいさ自身が私たちに何かを見せようとしてるみたいだね…………西沙せいさが、なのか…………西沙せいさの中の誰かなのか…………」

 返すのは咲恵さきえ

「そう考えたほうが自然かもしれない。しっくりくる」

咲恵さきえはどう? …………まだ咲恵さきえだよね」

「今はね…………でも安心して。例え誰が出てきたって、〝私たち〟はあなたを全力で守る…………」

 しかし、そんな咲恵さきえの言葉も、萌江もえには不安材料だった。


 ──…………咲恵さきえを犠牲になんかしない……………………


 萌江もえがそう思った時、咲恵さきえの声が続いた。

京子きょうこさんだって…………自分の命を賭けて萌江もえを救った…………だから────」

「────だから────」

 萌江もえ咲恵さきえの言葉を遮った。

 そして続ける。

「……だから…………私も…………咲恵さきえを守る…………全力で…………」

 すると、咲恵さきえが動いた。

 萌江もえに近付く。

「…………うん…………」

 咲恵さきえの小さい声が、萌江もえの耳に響いた。

 咲恵さきえの唇は柔らかい。

 萌江もえは、その唇を離したくなかった。

 一度咲恵さきえから離した唇は、再び萌江もえへ。

 すると、背後から萌江もえに抱きついたのは杏奈あんなだった。

 その杏奈あんなの声が、二人の神経をくすぐる。

「……大丈夫ですよ…………私たちなら…………大丈夫です…………」

 張り詰めた何かが緩んでいく。

 それに合わせたかのように、緩やかな風が吹き始めていた。





            「かなざくらの古屋敷」

    〜 第十六部「丑の刻の森」第3話(第十六部最終話)へつづく 〜

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