第六部「鐘の鳴った日」第2話 (修正版)
まだ
夜型の仕事をしている人間にとっては朝の八時というのは眠りの深い時間。そんな時に電話で起こされて頭を回すのは難しい。
「…………え? 誰?」
そう言った
『私!
「…………だれよ……」
『ちょっと! 起きなさいよ!』
「何時〜?」
そう言いながらベッド脇の目覚まし時計に目をやった
「…………は⁉︎ さっき寝たばっかりじゃないの!」
『知らないわよ!
その言葉で
そして声のトーンが落ちた。
「どういうこと⁉︎ 説明しなさい」
『わかりやすいわね〜』
「さっさと言いなさい……早く言わないと呪物送りつけるわよ」
『────っていうよりどうして気が付いてないのよ。今のままじゃ
「言いなさい‼︎」
☆
その頃、すでに
まだ舗装された道路までは少し距離がある。当然左右は林に囲まれ、見るからに山の中。
容赦無く振動が二人の体に当たる中で、
「……この間はすいませんでした…………でも、どうしたんですか急に…………」
助手席の
「なんでかな…………あなたから話を聞く前から関わってたの…………言葉で説明するのは難しいんだけど…………」
窓から車内に流れ込むのは土と葉の匂い。
まだ冬には早い。しかし空気の香りはその冬が近いことを告げているかのように張り詰める。
「それより、記事はどうするの?」
「んー……」
苦笑いを浮かべた
「とりあえず今回は古いネタで使ってなかったのがあったので、それでお茶を濁そうかと思ってます。あまり面白くはありませんが…………」
「私の古いネタで良ければ話してあげてもいいけど…………」
「ホントですか⁉︎」
「そんな大した話じゃないよ。ただの体験談程度のもので良ければ…………この間のお詫びに」
一時間と少し、そのくらいで教会には到着した。
一〇時まではまだ少し時間がある。
「こんな所に教会があったんだねえ」
車を降りるなり、
聞いていた通り、街中からは距離があったがそれほど郊外というわけでもない。周囲には転々と民家もあるが、車の通りは多くない印象だった。周囲には歩いている人影も見当たらない。
「先に中に入ってますか?」
そう言って
少し考えるようにして
「うん…………そうだね…………車、近くのコンビニにでも停めてきてもらえるかな。ここの駐車場に置いたままじゃ警戒される。ちょっと距離あるけどごめん。先に入ってるから」
「そうですね。分かりました」
正面しか見えないが、建物が荒廃していることは分かった。神を信じないと言っても、こういう光景は見ていてあまり気持ちのいいものではない。
不思議と寂しさが込み上げる。
──……改修工事したら……確かに結構かかりそうだね…………
そして、こんな場所で何かを祈らなければならない理由とはなんだろうと考えを巡らせた。
しかも、なぜ縁もゆかりもないこの場所に導かれたのか、どんなに考えても
──……私だって……関わり過ぎだよ…………
「…………ねえ…………ここに何があるの?」
言葉にして出してみるが、誰の返答もない。
静かだった。
──……ここで…………何をすればいいの…………教えてよ…………
上を見上げる。
屋根の上の大きな塔の上────鐘が見えた。
きっと今は誰も鳴らす者はいないのだろう。なんの手入れもされずに雨風に曝された鐘はどんな音を鳴らすのだろう。
教会の扉を開けた。
中にあるのは静寂だけ。
中にも落書きがある。ガラスは割られ、壁には穴まで開けられていた。とても神のいる場所とは思えない雰囲気が蔓延している。
それでも足音は響いた。
四隅の上のほうには丸いライト。
間違いない。
奥のキリスト像に上から光が差し込んでいる。屋根の上の塔が
その上にはさっき見た鐘があるのだろう。
キリスト像に近付くと、その下には
しかし、まるで溢れるように
──……そっか…………分かったかも…………
そこに足音。
「ついでにコーヒー買ってきましたけど…………」
レジ袋のカサカサとした音ですら、この場所では違和感を感じる雰囲気。
神聖という言葉は
「サンキュー」
「あの女の人も、もうすぐ来るので…………」
そして、
「分かった」
そう言って受け取った
「外で隠れてよっか。その人もお祈りはしたいだろうからさ」
「はい」
二人は一度外に出る。
建物の影でコーヒーを飲みながら待った。
一言も喋らずに教会の外で、一人の女性を待つ。
──……私は何を聞きたいんだろう…………聞いてどうするの…………
それでも、ただ導かれた。
──……
「来ました」
隣の
「
「…………はい」
小柄な女性が一人、肩から下げた小さなハンドバッグだけで教会の扉を開けた。その体の動きもあってか、確かに聞いていた通り決して若くはない。僅かに見えた顔からは、明らかに〝疲れ〟のようなものを感じた。服の色も全体的に
女性が中に入って数分後、
「少し〝隠れる〟から…………ここにいて」
「え? 隠れる?」
奥で膝を落として頭を
女性は祈り続ける。
──……隠れるって…………
そして缶コーヒーを女性の前に置いた。
やっと気付いた女性が少し驚いて顔を上げたが、大袈裟に逃げようとはしない。
「少し…………お話を聞かせてもらえませんか…………」
意外にも、その返答は早かった。
「この間のお嬢さんの差し金? だとしたら迷惑です。私はここで祈っているだけです。何も話すことはありません」
それだけ言うと立ち上がって振り返る。
一歩進んだところで扉の
そして
「
「分かりました」
「ちょっと────」
女性がそう声を上げた直後、その女性の体を、背後から
女性は抵抗もせずに、小さく体を震わせるだけ。
その耳元で
「……どうしても……私はあなたから話を聞かなきゃならない…………」
すると、女性が言葉を絞り出す。
「…………あなたは…………私の人生には何の関係もない…………」
「……うん…………今まで会ったこともない…………でも、私はここに導かれた……それには絶対に意味がある…………あなたがここで祈るのと同じようにね…………ここにいた神父さん…………」
「え?」
「その神父さんになら…………あなたは会ってるはず…………」
すると女性は、肩を震わせながら膝を落とす。
それに合わせて体を降ろした
「…………あの時みたいに…………話してみて…………」
女性の震えが止まる。
そして、ゆっくりと話し始めた。
☆
同郷であった大学の先輩が開業した病院だった。研修医時代から誘いを受けていたこともあり、
研修医時代は当然様々な科を勉強することになるが、元々
開業医である先輩は男性医師として小さな病院を切り盛りしていたが、看護師ではない女医が産婦人科に入ったことでしだいに噂は広がり、いつの間にか病院を訪れる人々も増えていく。
しかし
出産よりも中絶手術のほうが多い現実を目の当たりにする。
もちろん大学で勉強はしていた。しかもその施術がどんなものかも知っている。同じ女性として、複雑なものがあったのは事実だ。
しかもそれは、
そして、病院は小さいながらも繁華街の近く。
そのため、手術ではなく、検査にくる女性たちも多い。
風俗業界で働く女性たちの性病検査だった。決して難しいものではないが、費用は千円や二千円ではない。
そしてそんな女性たちの中絶手術が多いのも事実。妊娠して何周目なのかにもよるが、やはり費用は安くない。保険適用外となるため、一〇万円前後は見なければいけなかった。まとまったお金を用意出来なかったのかカード払いの人も多い。
風俗業であるかどうかに関わらず、中絶の理由は様々だろう。
そしてそれは、同じ女性だから共感出来ると同時に、同じ女性だからこそ
様々な重圧を受け止め切れないまま、病院の経営者でもある先輩医師に相談する中で、二人が体の関係になるのにはそれほど時間は掛からなかった。
自分の中に積み重なっていくものを、異性との情欲で誤魔化そうとした。
早い段階で妊娠に気付き、すぐに中絶を決意する。
自分で何度も他人の中絶を施術してきた。
今度は自分がその立場になる。
怖かった。
自分の身勝手さと、自分が女であることの現実を改めて意識した。
しかし他に選択肢はなかった。少なくともその時の
男性医師には家庭があったからだ。
悔しかった。
しかし自分には、日々待っている患者がいた。
彼女たちを裏切るわけにはいかないという使命感が
別の病院で中絶手術をし、男性医師との関係は仕事だけと割り切った。
妊娠したこと。そして中絶したことを告げると、それだけで関係は冷め切る。その程度の関係でしかなかったことを知った。
それからは仕事のことしか考えられなかった。
そんなある日、一人の若い女性が病院を訪れる。
中絶手術を希望していたが、説明を聞いていたその女性は突然立ち上がった。
静かな診察室に椅子の音が響く。
「────すいません…………お金ないので…………」
明らかに怯えた目だった。
立ち去ろうとするその女性を
机の近くで女性を改めて座らせ、その肩に手を置くと、耳元で小さく
「今……お財布にはいくらあるの?」
女性は財布の中のお札を数えながら応える。
「…………一万円…………」
使い古した財布。使い古した鞄。傷だらけのパンプス。服もしばらくアイロンがかけられていないことがすぐに分かった。
──……どうして……誰もこの子を助けてあげられないの…………
「幾らなら出せるの?」
その
その震える目には涙が浮かぶ。
「生活費だって……必要でしょ」
自宅マンションの住所を書いたメモと一万円札を女性に渡し、
「明日は日曜日で病院は休みだから…………ここに来て」
大きく目を見開いたまま
「しっかり食べて……栄養つけなきゃ」
泣きじゃくる女性の背中を、
大量の出血を伴うような外科手術とは違う。
衛生と器具にだけ気を付ければいい。
翌日マンションを訪れた女性は、昨日と同じ服装だった。
少し会話をして気持ちを和ませる。
「ご飯は食べてきたの?」
「……はい……今朝は…………」
妊娠をするということは相手がいる。しかし
それでも
女性がシャワーを浴びている間に、女性の服を洗濯機にかけ、必要な器具の消毒を始める。
麻酔の量も分かっている。
問題はない。
バスローブ姿の女性をベッドに寝かせ、麻酔を注射する。
本来は全身麻酔である必要はない。痛みはそれほど無い上に、時間も短時間。しかし今回は女性の精神面を考慮した。
研修医時代に興味を持っていた麻酔の勉強が役に立った。
しかし実際に全身麻酔を行った経験は無い。
正直、怖さはあった。
それでも引き下がる気は無い。
女性の腰の下に枕を挟み、施術が始まる。
女性が目を覚ますと、
「大丈夫だよ…………無事に終わったからね」
その言葉に、女性は大粒の涙を流して
「同じ過ちは繰り返したらダメだよ」
女性は何度も何度も繰り返し頭を下げてタクシーに乗り込んだ。タクシーのリアガラスから、見えなくなるまで
──……世界は…………優しくなんかない…………
まだ人間の形はしていないが、命が宿ったものであるのは事実。本来なら調味料を入れるための小さな瓶に入れていた。
そして、そう遠くない所に教会があったのを思い出した。
深く考えもせずに車を走らせていた。
すでにだいぶ遅い時間。教会の駐車場には他に車は無い。門は施錠されていたが、すぐ側に柵の壊れた所を見付けた。何とか人一人通れる程度の隙間だったが、
教会の窓からは灯りが漏れていたが音は聞こえない。
墓地の近くであればいいと思った。人の歩く所でなければいい。手で土を掘り、小瓶ごと〝命〟を埋め、両手を合わせた。
今の
いつかまた同じようなことがあるかもしれない。そう思った
しかし経理担当の従業員にお金を渡して仕入れ量の数字を誤魔化したのがバレる。
もちろん
その時点で、
過去の繋がりを捨て、毎日のように繁華街に出かけた。
──……誰か見つけないと…………助けないと…………
過去の患者を探していた。そこから風俗業界に繋がりを作りたかった。しかし簡単には見付からない。
やっと街中のコンビニ前で見付けた女の子に声をかけるが、やはりあまりいい顔はされなかった。当然、周りには秘密にしたい過去。しかし同時に、女の子からすれば自分の感情を受け止めてくれた相手。
「元気だった?」
その程度の
「……ん……うん…………まあ…………」
その女の子のプライベートに踏み込むつもりはもちろん無い。それでも気持ちのどこかでは元気そうな顔を見ただけで安心した自分もいた。
「私ね…………あそこ辞めたんだ…………」
「ふーん」
「あの時のあなたみたいに困ってる子がいたら紹介してくれない?」
「相場の十分の一でいいよ」
説明はそれだけで良かった。
それから数年、
誰もが隠したい。だからこそ秘密は守られた。
最初は月に一人から二人。
まだ退職金があったので生活には困らない。
やがて業界の中で話が広がり始めると、波はあったが月に多い時で二〇人。少なくても一〇人。一日に二人をこなす時もある。その需要に驚きながらも、やがて退職金は底をついた。病院に勤めていた頃と比べると明らかに収入は落ちる。ギリギリの生活レベル。
それでも
少しずつ生活水準を落としながら、闇の仕事を続けた。
貧しい女の子たちに食事をご馳走し、お金を渡して帰す日々。
「ここにはもう戻ってきたらダメ。でもどうしようもなくなったら…………私が力になってあげる…………」
そして週に一度、夜にあの教会に行って〝命〟を埋める。埋める場所はいつしか固定されていた。いつしか墓地の後ろの林の中に大きな穴を掘っていた。その穴の中で、土に返すために〝小さな遺体〟を焼き、土を被せる。
そんな生活を繰り返した。
気持ちの休まる時はなかった。
──……私は………………人殺し………………
──…………自分の子供も殺した………………
気が付いた時には、疲れているのが当たり前の生活。
本人も気付かない内に、精神的に疲弊していた。
やがていつの間にか、患者の来ない日は外に出る時が多くなっていた。
家にいたくなかった。
目的地も決めずに近所を歩いた。
その日は、いつの間にか遠くまで歩いていた。
そして、あの教会の前へ。
いつも夜に来ていた。
昼間に来たことはない。
だいぶ印象が違った。
教会の周囲の花壇には色とりどりの小さな花。
いつの間にか大きな木製の扉を開けていた。
高い天井。
奥に見えるキリスト像には上から陽の光が降り注ぐ。
──……綺麗…………
無意識に足を進めていた。
──……あの子供たちにも…………見せてあげたかった…………
キリスト像の前で膝を落としていた。
すると、足音が聞こえる。
慌てて立ち上がった時、その優しい声が届いた。
「いえいえ……ゆっくりされて構いませんよ」
少し離れた所に立っていたのは、初老の神父だった。短い
「……ここは祈る所です。あなたは祈る理由があってここへいらした。違いますか?」
その横顔に何かを感じたのか、神父はゆっくりと歩き始め、
「……もしも祈るだけでないのなら、神の代わりに私がお話を伺いましょう」
吐き出してしまいたかった。
そんなことをしたところで何も解決しないことは分かっている。
「…………私は……今まで…………数え切れない人間を…………殺してきました…………」
気が付くと、
まるで病院の診察室で、何かが弾けるかのように話し続けた患者のように…………。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第六部「鐘の鳴った日」第3話(第六部最終話)へつづく 〜
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