第六部「鐘の鳴った日」第2話 (修正版)

 まだ咲恵さきえにとっては早朝だった。

 夜型の仕事をしている人間にとっては朝の八時というのは眠りの深い時間。そんな時に電話で起こされて頭を回すのは難しい。

「…………え? 誰?」

 そう言った咲恵さきえの頭は、僅かにまだ夢の中。

『私! 西沙せいさ!』

「…………だれよ……」

『ちょっと! 起きなさいよ!』

「何時〜?」

 そう言いながらベッド脇の目覚まし時計に目をやった咲恵さきえの声が変わる。

「…………は⁉︎ さっき寝たばっかりじゃないの!」

『知らないわよ! 萌江もえが大変なの! 起きて!』

 その言葉で咲恵さきえの目付きが変わる。

 そして声のトーンが落ちた。

「どういうこと⁉︎ 説明しなさい」

 咲恵さきえの頭に日曜日のことが浮かんだ。

『わかりやすいわね〜』

「さっさと言いなさい……早く言わないと呪物送りつけるわよ」

『────っていうよりどうして気が付いてないのよ。今のままじゃ萌江もえが飲み込まれるよ』

「言いなさい‼︎」





 その頃、すでに萌江もえ杏奈あんなの車の助手席にいた。

 まだ舗装された道路までは少し距離がある。当然左右は林に囲まれ、見るからに山の中。

 容赦無く振動が二人の体に当たる中で、杏奈あんなが口を開く。

「……この間はすいませんでした…………でも、どうしたんですか急に…………」

 助手席の萌江もえは横のガラスを開け、外の空気を入れて応えた。

「なんでかな…………あなたから話を聞く前から関わってたの…………言葉で説明するのは難しいんだけど…………」

 窓から車内に流れ込むのは土と葉の匂い。

 萌江もえは流れる木々に視線を向けていた。

 まだ冬には早い。しかし空気の香りはその冬が近いことを告げているかのように張り詰める。

 杏奈あんながなんとなく言葉を返すのに躊躇ちゅうちょしていると、萌江もえの声が続いた。

「それより、記事はどうするの?」

「んー……」

 苦笑いを浮かべた杏奈あんなが続ける。

「とりあえず今回は古いネタで使ってなかったのがあったので、それでお茶を濁そうかと思ってます。あまり面白くはありませんが…………」

「私の古いネタで良ければ話してあげてもいいけど…………」

「ホントですか⁉︎」

「そんな大した話じゃないよ。ただの体験談程度のもので良ければ…………この間のお詫びに」

 一時間と少し、そのくらいで教会には到着した。

 一〇時まではまだ少し時間がある。

「こんな所に教会があったんだねえ」

 車を降りるなり、萌江もえは柵の向こうの教会を見ながら呟く。

 聞いていた通り、街中からは距離があったがそれほど郊外というわけでもない。周囲には転々と民家もあるが、車の通りは多くない印象だった。周囲には歩いている人影も見当たらない。

「先に中に入ってますか?」

 そう言って杏奈あんなは壊れた柵を指さした。

 少し考えるようにして萌江もえが返す。

「うん…………そうだね…………車、近くのコンビニにでも停めてきてもらえるかな。ここの駐車場に置いたままじゃ警戒される。ちょっと距離あるけどごめん。先に入ってるから」

「そうですね。分かりました」

 杏奈あんなの車が動き始めると、萌江もえは壊れた柵から中へ。

 正面しか見えないが、建物が荒廃していることは分かった。神を信じないと言っても、こういう光景は見ていてあまり気持ちのいいものではない。

 不思議と寂しさが込み上げる。


 ──……改修工事したら……確かに結構かかりそうだね…………


 そして、こんな場所で何かを祈らなければならない理由とはなんだろうと考えを巡らせた。

 しかも、なぜ縁もゆかりもないこの場所に導かれたのか、どんなに考えても萌江もえには分からない。


 ──……私だって……関わり過ぎだよ…………


「…………ねえ…………ここに何があるの?」

 言葉にして出してみるが、誰の返答もない。

 静かだった。


 ──……ここで…………何をすればいいの…………教えてよ…………


 上を見上げる。

 屋根の上の大きな塔の上────鐘が見えた。

 きっと今は誰も鳴らす者はいないのだろう。なんの手入れもされずに雨風に曝された鐘はどんな音を鳴らすのだろう。萌江もえは不思議とそんなことを思っていた。

 教会の扉を開けた。

 中にあるのは静寂だけ。

 中にも落書きがある。ガラスは割られ、壁には穴まで開けられていた。とても神のいる場所とは思えない雰囲気が蔓延している。

 それでも足音は響いた。

 四隅の上のほうには丸いライト。

 間違いない。萌江もえが夢で見たあの教会だった。

 奥のキリスト像に上から光が差し込んでいる。屋根の上の塔が採光塔さいこうとうでもあることが分かった。

 その上にはさっき見た鐘があるのだろう。

 キリスト像に近付くと、その下にはほこりを被った一冊の聖書。何気なく手に取って見ると、それはだいぶ古い物だった。しばらく誰も動かしていないのがすぐに分かる。持ち上げた下には四角い跡。手で表紙のほこりを払い、乾き切った紙の束を開くと、中まで茶色くくすんでいた。しかも中身は英語だけ。

 しかし、まるで溢れるように萌江もえの中にイメージが沸いた。


 ──……そっか…………分かったかも…………


 そこに足音。

 杏奈あんなだった。

「ついでにコーヒー買ってきましたけど…………」

 レジ袋のカサカサとした音ですら、この場所では違和感を感じる雰囲気。

 神聖という言葉は萌江もえはあまり好きではないが、それはこういう場の雰囲気そのものを指すのだろうとも思っている。

「サンキュー」

 萌江もえが缶コーヒーを受け取ると、杏奈あんなの手に下がる袋には残り二本。その内の一本を手に取った杏奈あんなは、それを萌江もえに差し出しながら口を開いた。

「あの女の人も、もうすぐ来るので…………」

 杏奈あんながその女性に感情移入していることが、その目から感じられた。おそらくあれからもまだ追いかけているのだろう。だからこそ確信を持って〝来る〟と言える。

 萌江もえが日曜日に見た目とは違った。

 そして、萌江もえも覚悟を決める。

「分かった」

 そう言って受け取った萌江もえが続けた。

「外で隠れてよっか。その人もお祈りはしたいだろうからさ」

「はい」

 二人は一度外に出る。

 建物の影でコーヒーを飲みながら待った。

 一言も喋らずに教会の外で、一人の女性を待つ。


 ──……私は何を聞きたいんだろう…………聞いてどうするの…………


 それでも、ただ導かれた。


 ──……咲恵さきえに怒られちゃうなあ…………


「来ました」

 隣の杏奈あんなの小さな声に、萌江もえは教会の入り口に目をやる。

杏奈あんなちゃん……打ち合わせ通りに頼むね」

「…………はい」

 小柄な女性が一人、肩から下げた小さなハンドバッグだけで教会の扉を開けた。その体の動きもあってか、確かに聞いていた通り決して若くはない。僅かに見えた顔からは、明らかに〝疲れ〟のようなものを感じた。服の色も全体的にくすんだ印象だったが、何かを重々しく感じさせる理由はそれだけではないだろう。

 萌江もえは水晶の下がったネックレスを外すと左手に巻きつける。

 女性が中に入って数分後、萌江もえは扉へ向かった。杏奈あんなは黙って着いていく。

 萌江もえは扉に手をかけると、小さく口を開いた。

「少し〝隠れる〟から…………ここにいて」

「え? 隠れる?」

 萌江もえは扉を開け、聖堂をまっすぐ進んでいく。

 杏奈あんなにとっては不思議な光景だった。

 奥で膝を落として頭をれる女性は身動き一つしない。以前なら扉を開けた音だけで驚いて逃げようとしたのに、なぜか女性は気付いてすらいないかのようだった。

 萌江もえのショートブーツの音が聖堂に響いていた。

 女性は祈り続ける。


 ──……隠れるって…………


 杏奈あんながそう思った直後、萌江もえが女性の隣に膝を降ろした。

 そして缶コーヒーを女性の前に置いた。

 やっと気付いた女性が少し驚いて顔を上げたが、大袈裟に逃げようとはしない。

 萌江もえがゆっくりと口を開く。

「少し…………お話を聞かせてもらえませんか…………」

 意外にも、その返答は早かった。

「この間のお嬢さんの差し金? だとしたら迷惑です。私はここで祈っているだけです。何も話すことはありません」

 それだけ言うと立ち上がって振り返る。

 一歩進んだところで扉の杏奈あんなの姿に足を止めるが、再び歩き始めた。

 そして萌江もえの声が飛ぶ。

杏奈あんなちゃん────あなたは車で待ってて。二人だけで話がしたいから」

「分かりました」

 杏奈あんなは分かっていたかのように、すぐに扉を閉めた。

「ちょっと────」

 女性がそう声を上げた直後、その女性の体を、背後から萌江もえが両手で包み込んだ。

 女性は抵抗もせずに、小さく体を震わせるだけ。

 その耳元で萌江もえささやく。

「……どうしても……私はあなたから話を聞かなきゃならない…………」

 すると、女性が言葉を絞り出す。

「…………あなたは…………私の人生には何の関係もない…………」

「……うん…………今まで会ったこともない…………でも、私はここに導かれた……それには絶対に意味がある…………あなたがここで祈るのと同じようにね…………ここにいた神父さん…………」

「え?」

「その神父さんになら…………あなたは会ってるはず…………」

 すると女性は、肩を震わせながら膝を落とす。

 それに合わせて体を降ろした萌江もえは、さらに強く抱きしめながら続けた。

「…………あの時みたいに…………話してみて…………」

 女性の震えが止まる。

 そして、ゆっくりと話し始めた。





 中澤理津子なかざわりつこが大学病院での研修医を終え、地元の産婦人科病院で働き始めたのは、九〇年代の中頃だったと記憶している。

 同郷であった大学の先輩が開業した病院だった。研修医時代から誘いを受けていたこともあり、理津子りつこは迷わずその病院に移ることを決める。

 研修医時代は当然様々な科を勉強することになるが、元々理津子りつこは産婦人科希望だった。当時はまだ産婦人科での女性医師が少なかったこともあり、理津子りつこは地元でも大いに注目された。

 開業医である先輩は男性医師として小さな病院を切り盛りしていたが、看護師ではない女医が産婦人科に入ったことでしだいに噂は広がり、いつの間にか病院を訪れる人々も増えていく。

 しかし理津子りつこは、実際に現場に入ってから産婦人科の現状を知った。

 出産よりも中絶手術のほうが多い現実を目の当たりにする。

 もちろん大学で勉強はしていた。しかもその施術がどんなものかも知っている。同じ女性として、複雑なものがあったのは事実だ。

 しかもそれは、理津子りつこが誘われた理由の一つでもあった。

 そして、病院は小さいながらも繁華街の近く。

 そのため、手術ではなく、検査にくる女性たちも多い。

 風俗業界で働く女性たちの性病検査だった。決して難しいものではないが、費用は千円や二千円ではない。

 そしてそんな女性たちの中絶手術が多いのも事実。妊娠して何周目なのかにもよるが、やはり費用は安くない。保険適用外となるため、一〇万円前後は見なければいけなかった。まとまったお金を用意出来なかったのかカード払いの人も多い。

 風俗業であるかどうかに関わらず、中絶の理由は様々だろう。理津子りつこは決して深入りしないように努めてきた。泣きながら病院を後にする女性を何人も見てきた。それでもやはり理津子りつこが女性医師だからか、咳をきったように言葉が溢れ出る患者もいる。プライベートなことだけに、誰にでも相談出来ることではない。止むに止まれず辿り着いた先で、やっと何かが弾ける。理津子りつこは女性たちの想いを受け止めようと努めた。

 そしてそれは、同じ女性だから共感出来ると同時に、同じ女性だからこそ理津子りつこの精神を日々蝕んでいった。


 様々な重圧を受け止め切れないまま、病院の経営者でもある先輩医師に相談する中で、二人が体の関係になるのにはそれほど時間は掛からなかった。

 理津子りつこ一人で抱えられる問題を超えていた。その時の自分の中に本当に自分自身がいたのか、それは理津子りつこ本人でも分からない。ただ寂しかっただけか、誰かと気持ちを共有したかったのか。

 自分の中に積み重なっていくものを、異性との情欲で誤魔化そうとした。

 早い段階で妊娠に気付き、すぐに中絶を決意する。

 自分で何度も他人の中絶を施術してきた。

 今度は自分がその立場になる。

 怖かった。

 自分の身勝手さと、自分が女であることの現実を改めて意識した。

 しかし他に選択肢はなかった。少なくともその時の理津子りつこにはそれしか思い浮かばなかった。

 男性医師には家庭があったからだ。

 悔しかった。

 しかし自分には、日々待っている患者がいた。

 彼女たちを裏切るわけにはいかないという使命感が理津子りつこを支えていた。

 別の病院で中絶手術をし、男性医師との関係は仕事だけと割り切った。

 妊娠したこと。そして中絶したことを告げると、それだけで関係は冷め切る。その程度の関係でしかなかったことを知った。

 それからは仕事のことしか考えられなかった。

 そんなある日、一人の若い女性が病院を訪れる。

 中絶手術を希望していたが、説明を聞いていたその女性は突然立ち上がった。

 静かな診察室に椅子の音が響く。

「────すいません…………お金ないので…………」

 明らかに怯えた目だった。

 立ち去ろうとするその女性を理津子りつこは引き止める。

 机の近くで女性を改めて座らせ、その肩に手を置くと、耳元で小さくささやいた。

「今……お財布にはいくらあるの?」

 女性は財布の中のお札を数えながら応える。

「…………一万円…………」

 使い古した財布。使い古した鞄。傷だらけのパンプス。服もしばらくアイロンがかけられていないことがすぐに分かった。


 ──……どうして……誰もこの子を助けてあげられないの…………


「幾らなら出せるの?」

 その理津子りつこの言葉に、女性は財布の中のお札を総て掴み出した。

 その震える目には涙が浮かぶ。

「生活費だって……必要でしょ」

 理津子りつこは女性の手の中から千円札を一枚だけ取ると、引き出しから出した自分の財布に入れ、そこから新たに一万円札を出すと、机の上のメモ用紙にペンを走らせる。

 自宅マンションの住所を書いたメモと一万円札を女性に渡し、ささやく。

「明日は日曜日で病院は休みだから…………ここに来て」

 大きく目を見開いたまま理津子りつこを見上げる女性に、理津子りつこは笑顔を向けながら続けた。

「しっかり食べて……栄養つけなきゃ」

 泣きじゃくる女性の背中を、理津子りつこはそれからしばらくさすり続けていた。

 大量の出血を伴うような外科手術とは違う。

 衛生と器具にだけ気を付ければいい。理津子りつこは仕事が終わると、器具と消毒液、麻酔液等必要な物をこっそりと鞄に詰めて帰宅した。

 翌日マンションを訪れた女性は、昨日と同じ服装だった。

 少し会話をして気持ちを和ませる。

「ご飯は食べてきたの?」

「……はい……今朝は…………」

 妊娠をするということは相手がいる。しかし理津子りつこの目の前の若い女性は一人で抱え込んでいた。

 それでも理津子りつこはそのことを深く聞き出そうとはしない。

 女性がシャワーを浴びている間に、女性の服を洗濯機にかけ、必要な器具の消毒を始める。

 麻酔の量も分かっている。

 問題はない。

 バスローブ姿の女性をベッドに寝かせ、麻酔を注射する。

 本来は全身麻酔である必要はない。痛みはそれほど無い上に、時間も短時間。しかし今回は女性の精神面を考慮した。

 研修医時代に興味を持っていた麻酔の勉強が役に立った。

 しかし実際に全身麻酔を行った経験は無い。

 正直、怖さはあった。

 それでも引き下がる気は無い。

 女性の腰の下に枕を挟み、施術が始まる。


 女性が目を覚ますと、理津子りつこはベッドのわきで女性の髪に手を添えていた。理津子りつこは柔らかい笑みを向けたまま口を開く。

「大丈夫だよ…………無事に終わったからね」

 その言葉に、女性は大粒の涙を流して理津子りつこの手を握りしめた。よほど精神的に疲れていたのか、それとも安心したのか、女性は三時間ほど眠った。理津子りつこの部屋で夕ご飯を食べ、やがて暗くなってから帰る時間。

 理津子りつこは自分の所持品である使っていない鞄や財布、服等を大きめの紙袋に詰めると、タクシー代と共に女性に渡した。

「同じ過ちは繰り返したらダメだよ」

 理津子りつこはそう言いながら、自分にも同じことを言い聞かせていた。

 女性は何度も何度も繰り返し頭を下げてタクシーに乗り込んだ。タクシーのリアガラスから、見えなくなるまで理津子りつこに手を振り続けていた。

 理津子りつこはあの女性が苦しむような世の中を恨んだ。


 ──……世界は…………優しくなんかない…………


 理津子りつこは女性の体から取り出した〝子供〟の処理を悩んだ。

 まだ人間の形はしていないが、命が宿ったものであるのは事実。本来なら調味料を入れるための小さな瓶に入れていた。

 そして、そう遠くない所に教会があったのを思い出した。おぼろげながら裏に墓地があったようにも記憶している。周囲を花壇に囲まれた綺麗な教会だったので覚えていた。

 深く考えもせずに車を走らせていた。

 すでにだいぶ遅い時間。教会の駐車場には他に車は無い。門は施錠されていたが、すぐ側に柵の壊れた所を見付けた。何とか人一人通れる程度の隙間だったが、理津子りつこはそこから中に入り、教会の建物の横を抜けて裏へ。

 教会の窓からは灯りが漏れていたが音は聞こえない。

 墓地の近くであればいいと思った。人の歩く所でなければいい。手で土を掘り、小瓶ごと〝命〟を埋め、両手を合わせた。

 今の理津子りつこに出来る精一杯のとむらいだった。

 いつかまた同じようなことがあるかもしれない。そう思った理津子りつこは麻酔液を少しずつ病院から盗み始める。消毒は何とでもなるが、麻酔液は簡単に入手出来るものではない。

 しかし経理担当の従業員にお金を渡して仕入れ量の数字を誤魔化したのがバレる。

 もちろん理津子りつこは誤魔化し続けたが、限界が来る前に病院を退職した。

 その時点で、理津子りつこは知り合いと友達を総て切り捨てた。退職の直前でマンションも引っ越し、電話番号も変える。

 過去の繋がりを捨て、毎日のように繁華街に出かけた。


 ──……誰か見つけないと…………助けないと…………


 過去の患者を探していた。そこから風俗業界に繋がりを作りたかった。しかし簡単には見付からない。

 やっと街中のコンビニ前で見付けた女の子に声をかけるが、やはりあまりいい顔はされなかった。当然、周りには秘密にしたい過去。しかし同時に、女の子からすれば自分の感情を受け止めてくれた相手。

「元気だった?」

 その程度の理津子りつこの言葉にも、やはり素っ気ない。

「……ん……うん…………まあ…………」

 その女の子のプライベートに踏み込むつもりはもちろん無い。それでも気持ちのどこかでは元気そうな顔を見ただけで安心した自分もいた。

「私ね…………あそこ辞めたんだ…………」

「ふーん」

「あの時のあなたみたいに困ってる子がいたら紹介してくれない?」

 理津子りつこは自分の電話番号をメモした紙を渡しながら、その耳元でささやく。

「相場の十分の一でいいよ」

 説明はそれだけで良かった。

 それから数年、理津子りつこは闇医者として過ごし続けた。

 誰もが隠したい。だからこそ秘密は守られた。

 最初は月に一人から二人。

 まだ退職金があったので生活には困らない。

 やがて業界の中で話が広がり始めると、波はあったが月に多い時で二〇人。少なくても一〇人。一日に二人をこなす時もある。その需要に驚きながらも、やがて退職金は底をついた。病院に勤めていた頃と比べると明らかに収入は落ちる。ギリギリの生活レベル。

 それでも理津子りつこは金額を上げるつもりはなかった。

 少しずつ生活水準を落としながら、闇の仕事を続けた。

 貧しい女の子たちに食事をご馳走し、お金を渡して帰す日々。

「ここにはもう戻ってきたらダメ。でもどうしようもなくなったら…………私が力になってあげる…………」

 そして週に一度、夜にあの教会に行って〝命〟を埋める。埋める場所はいつしか固定されていた。いつしか墓地の後ろの林の中に大きな穴を掘っていた。その穴の中で、土に返すために〝小さな遺体〟を焼き、土を被せる。

 そんな生活を繰り返した。

 気持ちの休まる時はなかった。


 ──……私は………………人殺し………………

 ──…………自分の子供も殺した………………


 気が付いた時には、疲れているのが当たり前の生活。

 本人も気付かない内に、精神的に疲弊していた。

 やがていつの間にか、患者の来ない日は外に出る時が多くなっていた。

 家にいたくなかった。

 目的地も決めずに近所を歩いた。

 その日は、いつの間にか遠くまで歩いていた。

 そして、あの教会の前へ。

 いつも夜に来ていた。

 昼間に来たことはない。

 だいぶ印象が違った。

 教会の周囲の花壇には色とりどりの小さな花。

 いつの間にか大きな木製の扉を開けていた。

 高い天井。

 奥に見えるキリスト像には上から陽の光が降り注ぐ。


 ──……綺麗…………


 無意識に足を進めていた。


 ──……あの子供たちにも…………見せてあげたかった…………


 キリスト像の前で膝を落としていた。

 すると、足音が聞こえる。

 慌てて立ち上がった時、その優しい声が届いた。

「いえいえ……ゆっくりされて構いませんよ」

 少し離れた所に立っていたのは、初老の神父だった。短い白髪はくはつの下にある優しい目に見惚みとれていると、神父は続ける。

「……ここは祈る所です。あなたは祈る理由があってここへいらした。違いますか?」

 理津子りつこはその言葉に再び膝を落とし、そして床を見つめ続けた。

 その横顔に何かを感じたのか、神父はゆっくりと歩き始め、理津子りつこの背後にある長椅子に腰をかけた。膝の上に聖書を乗せたまま、ゆっくりと口を開く。

「……もしも祈るだけでないのなら、神の代わりに私がお話を伺いましょう」

 吐き出してしまいたかった。

 そんなことをしたところで何も解決しないことは分かっている。

 理津子りつこはゆっくりと立ち上がると、中心の通路を挟んで、神父の反対側の長椅子に腰を降ろして話し始める。

「…………私は……今まで…………数え切れない人間を…………殺してきました…………」

 気が付くと、理津子りつこは今までのことを総てさらけ出していた。

 まるで病院の診察室で、何かが弾けるかのように話し続けた患者のように…………。





           「かなざくらの古屋敷」

      〜 第六部「鐘の鳴った日」第3話(第六部最終話)へつづく 〜

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