第38話 一度目のエピローグ

 気付けば俺は、慣れない大阪の街を一人でまた走っていた。


 急ぐ理由はただ一つ、あの人に……自分にとって大切な人に会いに行くためだ。


 

 真理愛さん……



 早る鼓動が響く胸の中で、俺は彼女の名前をそっと呟く。


 結局、付き合っていた時も……いや付き合う前からもずっと、俺は真理愛さんに頼りっぱなしだった。


 今日みたいに自分が壁にぶち当たった時も、どうすればいいのかわからなくて道に迷った時も、俺はいつも真理愛さんに助けられてきた。


 あの人の言葉に、あの人の優しさに、何度も何度も救われては、その度に誓ったはずだった。

 

 今度は自分が、そんな真理愛さんを支えられるような男になろうと。


「なのに……やっぱダメだな俺は」


 浮かんだ苦笑いと共に、つい唇からこぼれ落ちるのはそんな情けない言葉。

 気付けば辺りの街並みも少し変わり、雑居ビルが立ち並ぶ間を走り抜け、予備校らしき建物の足元を通り過ぎると、目の前に現れたのは大きなタコの滑り台がある公園だった。

 そしてその隅に置かれたベンチにふと視線を移した時、視界に見覚えのある人物のシルエットが映り、俺は歩調を緩めた。


「……やっぱりここに居たんですね」


 呼吸を整えながらゆっくりベンチへと近づきそんな言葉を口にすれば、一人で座っていた真理愛さんが驚いた表情を浮かべてこちらを見上げてくる。


「どうして……ここに?」


 大きくて綺麗な瞳をパチクリとさせながら、そんなことを尋ねてくる真理愛さん。

 その表情も可愛いのなんのって、思わず一瞬見惚れそうになってしまった俺はハッと我に返ると慌てて口を開く。


「あーいやその……真理……か、神嶋さんって昔からよく公園にくるイメージがあったというか……」


 どんなイメージだよ。と俺は思わず心の中でツッコんでしまう。

 くそっ、本当はキザなセリフの一つや二つや三つでも言って、宝塚みたいに感動的なムードを作りたかったのに!


 相変わらず恰好の決まらない自分に呆れてため息を吐き出すと、俺はそんな自分を誤魔化すかのように辺りをぐるりと見渡す。

 休日の昼下がりの公園は穏やかで、風が吹き抜ける音と一緒に子供たちの楽しそうな笑い声が届いてくる。


 なんとなくこういった場所が真理愛さんにとって特別な場所なんだということは、昔から気づいていた。

 だからさっきみたいなことを、ついあたふたとした口調で彼女に言ってしまったのだ。


 それに……俺が真理愛さんに想いを伝えたのも公園だったから。


 などと恥ずかして馬鹿げたことを言えるほど、自分もさすがに愚かではない。

 けれどもそんなことを考えてしまったせいか、あの頃の日々が一瞬頭の中にフラッシュバックする。


「あの……神嶋さん」


 ぼそぼそと話し始めた自分の言葉に、「なに?」と静かに首を傾げる真理愛さん。

 そんな彼女を前にして、俺はゴクリと一度唾を飲み込むと、再びゆっくりと唇を開く。


「そ、その……」



 ――どうして、俺と別れたんですか?



 今までずっと聞きたくても、覚悟ができずに聞けなかった言葉。


 けれども結局この時も俺は、声にならない短い息をただ吐き出しただけで、胸の奥で燻り続ける感情を言葉にすることができずに黙り込んでしまう。


 だいたいそんなこと、わざわざ本人に聞かなくなってわかるはずだ。


 真理愛さんみたいに綺麗な人が、誰もが憧れる女性が、俺みたいに情けなくて頼りにならない年下の男と付き合ってくれていたということ自体が、本当は奇跡みたいなものだったんだから……


 続く沈黙に居心地が悪くなったのか、「どうしたの?」と再び尋ねてきた真理愛さんに、俺は小さく首を振るとわざとらしく咳払いをして話しを変える。


「そ、そろそろ帰りましょうか神嶋さん! 晩飯の買い出しもしないといけないし」

「……」


 あからさまに話しを逸らした俺に、真理愛さんは一瞬訝しむように眉根を寄せていたが、それ以上は何も言わずに静かにベンチから立ち上がった。

 わかっていたことではあるが、相変わらず興味を持たれていない自分自身に思わず心が折れそうになるのを、俺はぐっと拳を握って耐え忍ぶ。


 そして無理やり気持ちを切り替えるかのように、真理愛さんに背を向けて先に歩き出そうとした時だった。

 踏み出した俺の足を呼び止めるかのように、シャツの背中がくいっと引っ張られる。



「私のことも……やっぱり名前で呼んでほしい」



 ふいに背中から聞こえてきた、消え入りそうな小さな声。


 けれども確かに耳に届いてきたその言葉に、俺は驚きのあまり呼吸を止める。


 代わりにトクントクンと動き続けるのは、加速していくこの胸の心音。


 一瞬にして頭の中が真っ白になっていた自分は、直後思い出したかのように息を吸い、そして声を取り戻す。


「は、はい……」



 ――真理愛さん。



 まるで初めてその名前を呼ぶかのように、俺は緊張した声音で大切な人の名を口にした。

 直後訪れたのは、先ほどとは違うどこか歯がゆさを纏ったかのような沈黙。

 俺は恥ずかしいのやら嬉しいのやら色んな感情に飲み込まれてしまい、後ろを振り返ることができずにただ固まってしまう。

 そしてそんな自分の呼びかけに真理愛さんからは何も返事は返ってこなかったけれど、代わりにシャツを掴むその指先にきゅっと力が

込められる。


 今の小さなお願いに、彼女のどんな想いが込められていたのか。


 その真意を確かめられるほどの勇気は、今の俺にはまだ持てない。


 けれどもきっとこの先、いつかどこかで、今度はちゃんと向き合って尋ねることができる日が来ると思う。


 だって俺の……俺たちの賑やかでかけがえのないシェアハウス生活は、まだ始まったばかりなのだから。



(第一期・完)

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