第10話 裏・初の大阪探索にて

 私こと神嶋かみしま真理愛まりあは、初めて訪れた大阪梅田の街で一人焦っていた。


 だって……だって……



 あそこにすっごい美味しそうなパンケーキ屋さんがあるんだもんっ!



 思わずそんな言葉を心の中で叫んでしまった私。

 自分が今いるのは、『NU茶屋町』という場所だ。

 阪急梅田駅から線路沿いに北へ北へと進んでいくと見えてくるこの商業ビルには、オシャレなアパレルブランドや雑貨屋さんをはじめ、関西初出店の珍しいお店など多数のショップが集まっている人気スポットの一つ。


「わぁっ! チーズと生はちみつのお店とかぜったいに美味しそう!」


 知り合いが誰もいないことをいいことに、フロアマップを見つめながらきゃっきゃと盛り上がる私。

 こう見えて……というか朱華あやかちゃんと心晴こはるちゃんにはバレちゃっているけど、私は食べることが大好きだ。

 どれくらい好きかというと朝からラーメンや唐揚げなんかもペロっと食べれちゃうし、その気になればマックのセットなんかは二つぐらいいけると思う。


 でももちろん、家族以外の人前ではそんな暴食はしない。

 するのは決まって一人になった時。そう……特に、深夜のおやつなんて最高だよね!


 なんてことを思いながら、今度はチョコレートカフェの看板をじーっと眺める私。

 でも今日はダメだ。

 無駄遣いをしたらしっかり者の朱華ちゃんにきっと怒られるだろうし、それにさっき駅前で見つけたお茶漬け屋さんで小腹を満たしたばかりだ。


「あのお茶漬けも美味しかったなぁ」とボヤきながら私はチョコレートの誘惑に泣く泣く背を向けると、そのまま建物を出て大道路へと足を踏み出した。


 わざわざクラス会を辞退して一人梅田の街にやってきたのは、なにも食べることが目的ではない。

 学校でたちばなさんから年下の男の子(まさ君)と相性が良いとお墨付きをもらうことができた私は、少しでも彼の理想の女性になろうと思い、この街でお洒落なお店を巡っては自分磨きの勉強をしていたのだ。


 いくつかお気に入りの服屋さんも見つけることができ、まさ君が好きそうな服装を心の中で思い描きながら並木道を進んでいく。

 季節は、春。

 ぽかぽかと優しい陽の光が青空から降り注ぎ、頬を撫でていくのは新緑の香りを纏う柔らかい風。

 誰も彼もが穏やかな表情で行き交うお洒落な街を、一人で歩く私。

 なんたがちょっぴり大人になった気分だ。


「いつかまさ君とこんなところでデートしたいなぁ」


 目の前を仲睦まじく歩く大学生ぐらいのカップルを見て、私は思わずそんな願望をぼそりと呟く。

 まだ付き合いたての二人なのだろうか、互いにどこか照れたような感じで楽しそうに会話を続けているカップル。

 あと、彼女さんが持っているクレープがすっごく美味しそう。


 って、いけないいけない! とまたも食欲の悪魔に取り憑かれそうになった私はハッと意識を戻す。

 すると無意識に初々しいカップルに惹かれていたのか、それともクレープの香りに惹きつけられていたのか、気付けば私はさっきまでいた建物からさらに奥へと足を進めていた。

 ここは一体どこだろうと辺りを見渡していると、ちょっと変わった形をしているビルがふと目に止まる。


「へぇ、ここって本屋さんなんだ」


 関西のローカル番組を放送している放送局のすぐ近くに聳え立っていたのは、大きな本屋さんだった。

 東京に住んでいた時にも大きな書店はたくさんあったけれど、ここも色んなジャンルの本が置いていそうで本好きの私にとっては興味がそそる。


 さっそく自動ドアをくぐって中に入ってみると、広いレジカウンターの前にはずらりと本棚が並んでいた。

 これは面白そうな本が見つかりそう、と期待しながら店内を歩いているとまず目に飛び込んできたのは、『梅田のお洒落で美味しいお店の歩き方』という雑誌。

 まるで食べ物の神様に導かれるかのようにその雑誌がある方へと近づいて手を伸ばそうとした時、ふと反対側の棚にさらに興味深いタイトルの本があることに気づく。


「……『意中の相手を夢中にさせる女の七十七の秘訣』?」


 恋愛指南書、というものなのだろうか。この手の本は読んでみたことがないのだけれど、今の私にはとてつもなく惹かれるものがある。


 恋愛欲が食欲にまさった私は、今度はその本の前で立ち止まるとチラチラと周りを見回す。別に悪いことをするわけではないのだけれど、なんだかこういう本を読んでいる自分の姿を誰かに見られたくはない。


 辺りに見知った顔がいないことを確認できた私は素早くその本を抜き取ると、そのまま視線を表紙へと移す。

 ペンネームの『さゆさゆ』ってどこかで聞いた覚えもあるけど、どうやら悩める女性に大人気の作家さんのようだ。

 私はごくりと唾を飲み込むと、さっそく最初のページをめくってみる。

 すると目次には……



秘訣① 毎朝鏡に向かって好きな人に想いを伝えよう。

秘訣② 挨拶はちょっと上目遣いで甘えるように。

秘訣③ 二人だけしか知らない秘密を持とう。……etc



「なるほど……男の子ってこういうことされたら喜ぶんだ」


 本に綴られている文章を目で追いながら、頭の中では自動的にまさ君相手に実演している自分の姿がイメージされていく。

 えーと、次は『攻める時は強引に、でもベッドの中ではしっとりと』……って、えぇッ⁉︎ ど、どういうことっ⁉︎


 危うくとんでもないシーンを想像してしまいそうになり、私は慌てて本を閉じた。夜中ならともかく……いや夜中でもダメだけどまっ昼間から一体何を妄想しようとしているんだ私は!


 けれども続きがどうしても気になる自分は、一つ深呼吸して心を落ち着かせると再び本に指を挟む。

 そして念のためにと辺りをキョロキョロと見回していた、まさにその時だった。



「「あ」」



 視線の先、ふと棚の向こうから現れた人物を見て思わず驚きの声が漏れた。

 だってそこにいたのは――



 ま、ま、まさ君っ!?



 ついさっきベッドシーンを想像しかけてしまった相手がいきなり目の前に現れてしまい、恥ずかしさのせいで思わず全身がかぁっと熱くなる。

 それでも普段の物静かな自分のイメージを保つために、私はできるだけ表情を落ち着かせたまま、手に持っていた本を素早く元の場所へと戻した。


 ふー……危ない危ない。さすがにあんな本を読んでいるところを見られたら、私がまさ君のことをまだ好きだってことがすぐにバレちゃう。


 まさかバレてないよね? と恐る恐る彼の方を見た時だった。

 私の視線が、まさ君が右手に持っている一冊の本に釘付けになる。


「――ッ⁉︎」


 突然後頭部を強殴られたかのような強い衝撃が私を襲う。

 なぜならあの純粋で可愛いはずのまさ君が、純粋過ぎてキスだってしてくれなかったあのまさ君が……


 白昼堂々と下着の女の子が描かれている本を握りしめているではないか!!


 思わず呼吸が止まってしまう私。

 いや確かにそれほどの驚きだけれども、表紙以上に衝撃なのはそのタイトルだ。



 も、もしかして……もしかしてまさ君が好きな人って……朱華ちゃんなのっ⁉︎



 ここにきて、まさかの新疑惑が浮上。

 

 いやいやでも、なんか妹って書いてるし心晴ちゃんの可能性もまだ拭えない。

 しかし何より衝撃的だったのは、そのタイトルを上から読んでも下から読んでも斜めに読んでも、悲しいかな、どこにも『年上のお姉さん』とは書かれていないことだ。

 それと気になるのはあの単語。NTRって何? 何かの暗号??


 突然の非常事態に、頭の中がパニックに陥る私。

 すると自分と同じように動揺するまさ君が慌てた様子で口を開く。


「む、向こうの本棚に挟まってて何の本かなーって気になりまして……」


 怪しいぐらいにたどたどしい日本語でまさ君はそう言うと、ビシッと奥の本棚を指差した。

 見るとそこに並んでいたのは、難しい表情を浮かべている歴代の哲学者たち。

 そ、そうだよね! プラトンだってたまにはそんな本読んでみたかったかもね!


 どう考えても辻褄が合わないような気もするが、それでもまさ君の言葉で無理やり自分の心を落ち着かせようとする私。


 しかしこれはマズい……非常にマズい。


 何がマズイかって心晴ちゃんどころか、朱華ちゃんまでもがまさ君の好みの女の子だいう可能性が出てきてしまったことだ。

 このままだとあの二人に差をつけられちゃうと危機感と共にいやーな汗を背中に感じていたら、ふと頭の中にとある文章が浮かんだ。


 そういえば、さっきの本に書いてあった気がする。

 意中の相手がいるのなら、二人だけしか知らない秘密を持って他のライバルと差をつけろ、と。

 あるじゃない……私には、私たちには二人だけしか知らないとっておきの秘密が!


「萩野くん」

「は、はい……」


 僅かに冷静さを取り戻すことができた私は、相変わらず苗字でしか呼べない情けない自分にプチショックを受けながらも、目の前にいるまさ君に声をかける。

 そして一度小さく深呼吸をして心を落ち着かせると、私は覚悟を決めて一歩前へと出た。そしてーー


「私とあなたが付き合っていたことは、絶対に誰にも言わないで」


 静かな声音で、そんな言葉を口にした。

 そう。これこそ私の切り札。

 朱華ちゃんと心晴ちゃんにはない、私とまさ君だけの特別の秘密。

 すでに過去の終わってしまった関係のことだけれども、それでも、二人だけが知っている秘密には違いない。


 私は再び恥ずかしさでかぁっと頬が熱くなるのを感じながら、まさ君からさっと視線を逸らす。

 そしてこれ以上彼の前にいると余計におかしくなってしまいそうだと思い、足を踏み出してまさ君の横を逃げるように通り抜けるとそのまま本屋さんを出た。


 言えた……私は言えたんだ。


 再び並木道を一人早足で歩きながら、ついさっきの場面を思い出して達成感に浸る私。

そう。これはきっと、自分とまさ君との新しい恋路の始まりを告げるきっかけ。


「あ、そういえば……」


 そんな喜びに浸りながら駅に向かっていた時、ふとさっき気になっていた言葉があったことを思い出し、私はその場で足を止めた。

 そしてスマホを取り出すと、グーグルさんに聞いてみる。えーと何だっけ。たしかNT……


「………………」


 春の優しい陽の光が降り注ぐ中、スマホを握りしめながら固まる私。

 

 直後、行き交う誰も彼もが穏やかな表情を浮かべている大阪の街で、私は声にならない悲鳴をあげた。

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