第3話 裏・修羅ハウスタート

 私こと、神嶋かみしま真理愛まりあは焦っていた。


 新しい家で、姉妹たちと一緒に始まる新しい生活を迎えた初日。

 事前にシェアハウスと聞いていたのでどんな人が来るのか期待と不安でドキドキしていた私は、初の顔合わせとなったリビングで驚きのあまり声も漏らすことができずに硬直していた。


 だって……だって……



 私の目の前に、あのまさ君がいるんだもんっ!



 早る胸の高鳴りを誤魔化すかのように、私は真正面にいるまさ君から思わず身体ごと視線を逸らしてしまう。


 あーダメだダメだ! これだと私がまさ君のことを嫌いになってるって勘違いされちゃうッ!


 そんなことを心の中で叫んでしまった私は、せめて表情だけでも愛想良くしようと思うも、どうやら彼の前だと緊張してしまうらしく、口角を上げるつもりが逆に唇を尖らせてしまう。

 情けないそんな自分にさらに自己嫌悪を感じながらも、相変わらずこの胸の奥ではときめきが急かすように早鐘を打ち続けていた。


 正直、まさかこんな形でまさ君と再会できるなんて夢にも思わなかった。


 まさ君のことは幼い頃から知っていて、隣の家に住んでいた私たち姉妹とは毎日のように遊んでいた仲だ。

 ちょっぴり頼りないけど優しくて、それに私たち姉妹が困っている時はいつも力になってくれていたまさ君。

「まりねーちゃん!」といってはよく私に懐いてくれていた彼の存在は、妹しかいない自分にとっては何だか可愛い弟ができたみたいで嬉しかった。


 そんな小さかったまさ君が、今は私よりも背が高くなっているし、女の子みたいだった声もいつの間にか声変わりしちゃって今ではもう立派な男の子。


 けれども性格がちょっと間抜けで可愛いところはちっとも変わってなくて、今だってそう。  

 もう昼過ぎなのにまだ寝癖が直ってないところか、よく見るとズボンのチャックが少し開いちゃってるところとか。

 それがまた可愛らしくて、私の母性をくすぐらせる。

 そんな彼の隣にいる時間は私にとって一番居心地が良くて、癒される場所だった。


 それがいつからだろう。


 まさ君の姿を見るだけでドキドキしてしまうようになってしまったのは。


 そしてそれが恋心だと知ったのは、あの日。


 夕焼け色に包まれた公園で、まさ君が私に対して初めて想いを伝えてくれたあの瞬間。


 この胸の中で弾けた気持ちはあまりにも眩しくて、私は思わず飛び跳ねそうになったぐらい嬉しかったことを今でもハッキリと覚えている。


 一目惚れでもなければ、一夜だけの恋でもない。

 それは幼い頃から大事に大事に育てて、やっと花を咲かせた私の『初恋』。

 そう、私の人生にとってたった一度しか訪れることがない大切な恋心。


 なのに……それなのに私は……


 ズキリと痛む心を隠すかのように、私は胸元でぎゅっと拳を握りしめる。罪悪感と一緒に込み上げてくるのは、たった半年間だったとはいえ、彼と付き合い楽しく過ごしていた日々だ。


 するとそんな儚い思い出を吹き飛ばすかのように、突然朱華ちゃんの声が響く。


「ってかなんでショアハウスの募集に将門がきてんのよ。女子限定のはずでしょ⁉」


 同い年ということもあってか、昔からまさ君とはなんの遠慮もなく一番親し気に話しをしている朱華ちゃん。

 いいなぁ、私もあんな風にまさ君と気兼ねなくお喋りしたいなぁ。なんてことを羨ましがりながら二人のやり取りを見つめていた時、ふとまさ君の瞳が私のことを捉えた。


 いけないっ! 


 まさ君のピュアな瞳をまだ直視する覚悟がない私は、慌てて彼から視線を逸らす。


 やめてよまさ君、急に見つめられたら恥ずかして照れちゃうよっ!


 そんなことを再び心の中で叫びながら、私は動揺する気持ちを少しでも落ち着かせようとぎゅっと瞳を閉じる。

 せっかくまさ君と話せるチャンスを、さっそくポイしてしまった情けない私。

 再び激しい自己嫌悪に陥っていると閉じた瞼の向こうから聞こえてくるのは、今度はまさ君と心晴こはるちゃんの会話だ。


 もともとこのシェアハウスは、心晴ちゃんのアイデアだった。

 単身赴任だったお父さんのところに私たちも暮らすことになり、それだったら姉妹三人で暮らすのはどうかって話しを出してくれたのだ。


 そこからはトントン拍子で準備が進んでいき、住むことになったこの家にたまたま部屋が4つあったので、せっかくなら同じ学校に通う生徒を誰か一人呼んでシェアハウスしようということになった。


「手配は全部ウチがやるから任せといてっ!」と末っ子の心晴ちゃんが一番気合いを入れてその準備をしてくれていたのだけれど、それがまさかこんな展開になっちゃうなんて……


 うっすらと片目だけを開けた私は、何やら心晴ちゃんともめているまさ君のことをチラリと見る。

 もう当分の間は会うこともなければ、声さえ聞くことができないと思っていたはずのまさ君。

 そんな彼と、まさかこれから同じ屋根の下で暮らせるなんて。

 

 ごくりと唾を飲み込むと、私の思考は知らぬ間に妄想の世界へと足を踏み入れる。


 こ、これってつまりあれだよね……毎日まさ君の隣でご飯を食べたり、一緒にお買い物に行ったり、寝る前の「おやすみ」だって言えちゃうってことだよね? そ、それにその気になればこっそり部屋に忍び込んでいつでもまさ君の寝顔をのぞ……


「なぁなぁ、まり姉はいいやんな?」


 突然心晴ちゃんの声が聞こえ、私はハッと我に返った。

 見ると心晴ちゃんに朱華ちゃん、それにまさ君までもがチラチラと自分のことを見ているではないか。


「え?」と思わず間抜けな声が出そうになるのをぐっと抑えて、私はすぐさま状況を整理する。

 どうやらまさ君がこの家に一緒に住むことについて、姉として意見を求められているらしい。

 再び訪れた、まさ君と話せるチャンス。 

 私はすっと小さく息を吸うと、込み上げてくる気持ちを今度こそ言葉に変える。



「まあ……


――わ、私は大賛成かな。ほらだってまさ君ひとりだとちゃんとご飯食べてるのか心配になっちゃうし、それに朝寝坊しないように毎日私が起こしてあげることもできるからね。だからまさ君も一緒に住んだほうがぜったいに――


……いいと思う」



 そんな言葉で締め括った直後、緊張のあまり頭の中はすでに真っ白だった。

 

 正直、この気持ちがどこまでちゃんと声になって伝わったのかはわからない。

 

 けれども私はまさ君を前にしてあまりにも赤裸々な願望を向けてしまったことに対して、恥ずかしさのあまり思わず右手でおでこを押さえるとため息を吐き出す。 


 あぁ、いくらまさ君と一緒に暮らせるのが嬉しいからってこれはさすがにはしゃぎ過ぎた。だって毎日起こしてあげるとかそんなの……そんなの私がまるでまさ君のお嫁さんみたいじゃ――



「いや……俺はやっぱり出ていくよ。なんかこんな感じで新しい生活を始めるのは間違ってると思うし」



 ………………え?



 突如耳に届いたまさ君の言葉に、私の思考は一瞬にしてフリーズした。


 ちょ、ちょっと待てよまさ君……き、急にどうしちゃったの? もしかして私の想いが重すぎて引いちゃった⁉︎


 予想もできなった突然の事態に、私はただ呆然としたまま立ち尽くしてしまう。

 かろうじてチラリと視線だけを横に動かせば、同じようにかなりの衝撃を受けてしまっているようで朱華ちゃんと心晴ちゃんもあきらかに動揺した表情を浮かべているではないか。


 ダメだ真理愛、私がこんなところで狼狽えちゃいけない。ここは神嶋家の長女として、自分がこの場を、まさ君のことを引き止めないとっ!


 姉としての責任感からそんなことを感じた私が勇気を振り絞って声を発しようとした、まさにその時。

 ちょっと待ってよ! という自分の言葉の代わりに、「ちょっと待ってや!」と心晴ちゃんの大阪弁が先にリビングに響いた。


「ウチ、まさ兄が出て行くとかぜったいに嫌や!」


 出て行こうとするまさ君に対して、はっきりと自分の想いを伝える心晴ちゃん。

 幼い頃だったらこんな場面になると真っ先に泣き出していたはずの彼女が、今は涙も見せずに真っ直ぐで力強い瞳と想いをまさ君にぶつけている。


 そんな成長した妹の姿を目の当たりにして、私は姉として素直に喜ぶ…………ことは、残念ながらまったくできなかった。


 なぜならそう、私は見てしまったからだ。


 心晴ちゃんがまさ君からスマホを奪い取るその瞬間、しばらく見ないうちにいつの間にかおっきくなっていた彼女の胸が、まさ君の右腕に思いっきり密着していたことを!


「――ッ⁈」


 コンマ数秒の間に起こったボディタッチに、私は思わず愕然とする。


 心晴ちゃんそれはダメだよ反則だよッ! と慌てて心の中で叫ぶも、声にすることができないそんな忠告はもちろん彼女の耳には届かない。

 私はハラハラとした心境のまま、目の前の二人を凝視する。


「ウチな、みんなと離れて暮らすようになってから気付いてん。こっちでどれだけ新しい……」


 心晴ちゃんが、必死になってなんか言ってる。

 けれども今の私にはそんなことを気にしている余裕などなく、意識は目の前にいるまさ君へと全力で注がれる。

 よく見るとまさ君は、今まで心晴ちゃんには向けたことのないような熱い視線を彼女に向けてしまっているではいか。


「…………」


 落ち着け私、相手は心晴ちゃん。

 まだ中学生の女の子だ。そして私たち姉妹の末っ子だ。

 それにほら、昔まさ君が言ってたもん。心晴ちゃんは女の子っていうよりも俺の弟みたいな存在だって。


 そう、まさ君にとって心晴ちゃんは男の子男の子……と心の中でそんなことを呪文のように唱えながら、私は念の為彼の本心を見抜こうと、心晴ちゃんに熱い視線を注ぐまさ君のことをさらにじっと見つめる。

 けれども彼の意識は今完全に心晴ちゃんに向いてしまっているようで、私がどれだけ熱い視線を注ごうともこちらを向いてくれる気配はない。


「くっ……」


 思わず悔しさが声になって漏れてしまう。

 そういえば、私だけがまだまさ君とちゃんとお喋りができていない。


 このままだと自分だけがますます取り残されてしまうと危機感を感じて一人焦燥に駆られていたら、そんな私にふと助け舟が出る。


「あーもうわかったわかった。心晴がそこまで言うならもうこのメンバーでいいよ」


 まり姉もそれでいい? とそんな言葉と共に、私へのチャンスが再び到来。

 

 ナイス朱華ちゃん! と心の中でガッツポーズを取った私は、今度こそあまりはしゃぎすぎないようにと、そっと視線を下げるとお淑やかかつ物静かに頷く。

 その直後、覚悟を決めてゆっくりと顔を上げた私は、今日初めてまさ君の顔を真っ直ぐに見つめた。そしてーー


「それでいいよね……ま」


 不意に、私の唇がピタリと止まった。


 あれ……そういえば私、まさ君のこと何て呼べばいいんだろ?


 ふとそんな疑問が頭の中に浮かび、続くはずだった言葉を遮る。


 私にとってまさ君は、昔からまさ君だ。

 

 けれども彼と付き合ってからの『まさ君』という呼び方は、それまでとは違った意味を持ち、私だけの特別だった。


 それが今さら同じように呼ぶなんて、あまりにも馴れ馴れしくて、嫌われたりしないだろうか?


 考えれば考えるほど思考は泥沼にハマっていき、私は答えを求めるかのようにただ呼吸だけを小刻みに繰り返す。

 ダメだ、このままど余計に喋れなくなってしまう。……だったら、


「……は、萩野くん?」


 無意識に唇からこぼれ出た言葉は、彼に対して初めて使ってみた呼び方。

 そうだ。ここはいったん歳上っぽく彼のことを君付けで呼んでみて、しばらくして慣れてきたらまた前みたいに……


 頭の中でそんな段取りを考えていた時だった。

 何やらそわそわとした様子のまさ君が、意を決したようにその唇を開く。


「そ、そうですよね……『神嶋かみしまさん』」

「――ッ⁉︎」


 神嶋さん、神嶋さん、神しまさん、かみしまさん、カミシ…………


 まるで走馬灯のように、まさ君の言葉と声が頭の中で何度もリピートしては消えていく。


 あのまさ君が……「まりねーちゃん!」と無邪気に呼んでくれていたまさ君が……「真理愛さん」って彼氏として優しく呼んでくれていたはずのまさ君が……



 ……神嶋さんになっちゃってるぅぅぅーーーーッ⁈



 私はその場で膝から崩れ落ちてしまいそうになるのを、かろうじてグッと堪える。そして目を細めると、疑うような視線をまさ君へと向けた。


 そうよね、そうだよね……私が苗字で読んじゃったらまさ君だって普通そうなるよね。ははっ、神嶋さんか……そっかそっか、ハハっ。


 膝の代わりに思考が崩れ落ちていくのをリアルタイムで感じながら、ただ茫然とその場で立ち尽くす私。

 するとすでにまさ君は私に対しての興味を失っているのか、窓の向こうに見える通天閣を物珍しそうに眺めているではないか。


 そんな彼の姿を見てさらに衝撃を受けつつ、私はひりひりと痛む乙女心をそっとため息で誤魔化すと、大阪の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


 こんなところで負けるな私。恋のリベンジマッチは、まだ始まったばかりだ。


 一人そんな決意を新たに心に刻むと、私は顔を上げてまさ君と同じように大阪の街並みを見つめながらこの想いを見えない便箋へと乗せる。


――わりとすぐ近くに住んでいるお父さんとお母さんへ。

 

 どうやら姉妹たちと始まる新しい生活は前途多難の予感がします。

 けれども真理愛は、こんなところで挫けたりはしません。



 だって……だって私は、みんなのおねーちゃんなんだもんっ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る