第2話 修羅ハウスタート

 昔、誰かが言っていた。


 男という生き物は、一度付き合った過去の女が、いつまでも自分に好意を持ち続けてくれると錯覚する愚かな生き物だと。


 べつにいいじゃないかと思う。


 この感情を供養できないのなら、そんな幻想を抱き続けて明日の生きる糧にすればいいんじゃないかと。


 けれども今俺の目の前にいる相手は、そんな儚い幻想さえ抱かせてくれぬほどに嫌悪感を露わにしていた。


 ツンととがらせたあの唇も(キスはできなかったけど)。


 三姉妹の中で一番豊かで柔らかそうなあの胸元も(触れることは決して許されなかったけれど)。


 そして、白磁のように繊細で綺麗な指先でさえも(頑張って手は繋いだよ!)。


 まるで俺のことなど眼中にないかのように、違う方向を向いている。


「ってかなんでシェアハウスの募集に将門まさかどがきてんのよ。女子限定のはずでしょ⁉」

「おいちょっと待て、それはこっちが聞きたい! 俺は今年の入学生で他府県男子限定だって資料に載ってたから応募したんだぞッ」


 そう。こんな意味不明な展開になっていることに対して、この場を借りて無罪と言い訳を主張したい。


 俺こと、萩野はぎの将門まさかどは先日都内にあった中学校を無事に卒業して、涙ぐましい努力の果てに進学校への合格を掴み取ってここまで来た。

 遠路はるばる大阪の高校に進学を選んだ理由は、別にフラれたことが原因ではない。


 大事なところなので2回言う。

 

 別に別れたことが原因なんかじゃない。

 

 都内にいると思い出の場所を一人巡って辛くなるとか、最寄り駅にいけば偶然を装って会えるんじゃないかと毎日駅に張り込む自分が痛く思えてくるとか。

 ともすれば俺の存在が遠くなることで改めて好きだったという感情に相手が気づき、寄りを戻したいという連絡が来るのを期待しているとかそういうわけじゃない。


 そう、これはいわば男を磨くための決断。


 自分のことを振った相手に対して、久しぶりに再開した時に「やっぱり別れなきゃ良かった」と後悔して寄りを戻してもらう為の修行の道。


 なのに……なのに何故俺はこんなにも早く再会しちゃってるの?


 これじゃあ俺の方が「どうしてフラれたんだッ!」って毎日後悔しちゃうじゃねーかよオイ! と一人心の中でさっそく後悔している時だった。

 動揺のあまり宙を漂わせていた視線がふと彼女の綺麗な瞳とマッチングしてしまった瞬間、相手はあからさまに顔を逸らしてきたではないか。

 それどころか、彼女は見てはいけない汚物でも見てしまったかのようにぎゅっとその瞳を閉じてしまう始末。


 どうやら今の俺の存在は、聖母であっても目に入れられぬほど邪悪な存在らしい。


 そんな彼女の姿を目の当たりにして俺は、ショックのあまり膝から崩れ落ちそうになるのをグッと堪える。


 やっぱり俺は、まだ真理愛さんに……


 張り裂けそうな心を必死になって慰めていると、そんな自分に追い討ちをかけるかのごとく、今度はじゃじゃ馬娘のうるさい声が脳天に響く。


 「解散よ解散っ! 私たちだけならまだしも、乙女のプライベートな空間に男子がいりびたるとか犯罪よ!」

「か、解散ってお前……じゃあ俺はこれからどうすればいいんだよ!」


 いきなりの解散宣言。

 シェアハウスといいながら何一つシェアすることなく終わってしまう俺の新生活。

 ……いや、このまま真理愛まりあさんにさらに嫌われてしまうぐらいなら、いっそ近くの公園にポイ捨てされたほうがまだマシか?


 そんなことを考えて再びこの惨状から思考だけでも現実逃避していると、今度は心晴こはるが呆れたような声で言う。


「さすがにそれは無理やってあや姉。だってここオトンの名義でもう借りてもうてるし、同居人の名前にはまさ兄も入ってるからな」

「ちっ」


 心晴の言葉に、眉間に皺を寄せて心底悔しそうに舌打ちをする朱華あやか。ってかコイツ、ほんと昔から俺にだけ容赦ないよな……。


 しかしそんな彼女の太々しい態度よりも、今の俺にはどうしても気になることがあった。


「ってか心晴、おじさんの名義でこの家借りてるってどういうことだよ?」

「あ」


 何やら失敗したかのように間抜けな声を漏らす心晴。

 それを見て、俺の頭の中にいやーな予感がよぎった。


 そもそもこのシェアハウス、最初に教えてくれたのは何を隠そうこのわんぱく娘だ。


 3年前におじさんの単身赴任にくっついて大阪へと引っ越し、俺が今度から通うことになる高校の附属中学に所属する彼女が、「今年からシェアハウス制度ができてんで!」と教えてくれて資料を送ってくれたのだ。

 やたら誤字脱字の多い、ワードで作られた素っ気ないプリントを。


『大阪へいらっしゃい!』という文頭から始まっていた時点で違和感を感じつつも、破格の賃料と家電付き、そして『これで君も入学式からボッチじゃない!』というマジックワードに誘惑されてしまったあの時の俺をマジで殴ってやりたい。


 そんな自分の不甲斐なさを呪いつつ、「お前まさか……」と全力で疑いの視線を向けていると、相手は吹けもしない口笛を吹いてるつもりなのか、俺から目を逸らして唇をタコにする。


 どうやら俺は最愛の女性からフラれただけではなく、その妹の悪だくみにまんまと引っかかってしまったらしい。


 もはやこの状況に怒ったらいいのかそれとも泣けばいいのかさえもわからずただ地蔵のように突っ立っていると、またも悪態をついた声が届く。


「だったらさ、お父さんにお願いして将門だけ追い払ってもらったらいいじゃん。そしたらあたし達だけで住めるし」

「いやーそれも難しいと思うで。だってまさ兄の両親からも『息子がお世話になりますが、よろしくお願いします』って、ご丁寧に菓子折り付きで手紙も届いてたし」

「…………」


 心晴の言葉を聞いて今度こそ諦めることしかできないと悟ったのか、悔しそうにぎゅっと唇を噛み締めて黙り込む朱華。

 まあコイツらが幼い頃に、多忙を極める神嶋夫婦の代わりに隣人だった俺の親たちがいっつも面倒を見ていた恩があるからな。

 さすがにそんなお世話になった相手に向かって、「おたくの息子はキモいのでいりません」とは口が裂けても言えないだろう。


 かと言って、同居人にここまで嫌われてまでシェアハウスするのはいかがなものか? という根本的な疑問を感じていると、すでに俺と同じ空間にいるだけでも不愉快極まりないのか、さっきから無言を続けている真理愛さん。

 普段から口数が少なく物静かな印象があった彼女だが、この状況での無言はただただ怖い。


 すると終始ビビりっぱなしの俺とは違い、心晴が臆することなく気軽な口調で言う。


「なぁなぁ、まり姉はいいやんな?」


 実の姉ということもあり、どこか甘えたような声音でそんなことを尋ねる心晴。やめて……もうこれ以上真理愛さんに俺のことについて聞かないで!


 一体どんな恐ろしい返答が待っているのかと、眼球だけ動かしてチラチラと様子を伺っていると、真理愛さんがその唇をそっと開いた。


「まあ………………いいと思う」

「……」


 うわーっ、真理愛さんすっごい嫌そう!  

 そりゃそうだよね、愛想尽きて振った年下の男となんてぜったい一緒に住みたくないよね⁉


 呟かれた言葉の数よりもあきらかに間があった時間の方に本音が詰まっていそうな気がするのだが、もちろんそれをほじくれるような勇気はない。

 そんなことを考えて狼狽える自分にとどめを刺すかのごとく、右手で額を押さえながら静かにため息をつく真理愛さん。


 もはやこのメンバーでシェアハウスなど壊滅的かつ絶望的。


 けれどもどうせこのまま終わってしまうぐらいなら、せめて最後にほんの少しでも真理愛さんの気持ちを動かしたい。

 そう思った俺は、右手にぐっと力を込めると、覚悟を言葉に変えて口にする。


「いや……俺はやっぱり出ていくよ。なんかこんな感じで新しい生活を始めるのは間違ってると思うし」


 先ほどまでとは違い真面目な表情と声音で告げたことが効果的だったのか、俺の発言を聞いて今度は動揺したような表情を浮かべる朱華と心晴。

 そしてその隣では……相変わらずの無表情を貫く真理愛さん。


 一番動揺してほしかった相手がまったく微動だにしていない事実に自分が一番動揺してしまうも、口にしてしまったことは今さら取り消すことなんてできない。

 俺はスマホを取り出すと、今朝涙目になりながら見送ってくれた両親に「日帰りで帰ります」と情けない一報を入れるために電話帳のアプリを開く。そして緑の電話マークをタップしてからスマホを右耳に当てようとした、その瞬間――


「ちょっと待ってや!」


 急に俺に向かって飛び出してきた心晴が、まるで猿のような素早い動きで俺からスマホを奪い取ってしまう。


「お前なに……」

「ウチ、まさ兄が出て行くとか嫌やっ!」


 ハッキリと力強い声が、真新しいリビングに響いた。

 思わず息を吞む自分の視線の先にいるのは、俺以上に真剣な眼差しでこちらを見つめてくる心晴の姿。


「勝手なことしてもうたのはほんまにゴメン。でも……でもウチも悪ふざけでこんなことしたわけちゃうねん」


 そう言うと心晴は、スマホを握りしめている指先にぎゅっと力を込める。


「ウチな、みんなと離れて暮らすようになってから気付いてん。こっちでどれだけ新しい友達作って遊んでも、家でオトンと一緒に過ごしてても……やっぱりウチは、この四人で一緒におる時が一番楽しかったんやって」

「心晴……」


 妹の切実な告白に、少し瞳を潤ませながら彼女の名前を呟く朱華。


「まさにぃ、まさにぃ!」といつも弟のように俺にくっついては悪さばっかりしていたあの心晴が、二人に負けず劣らずの美少女へと変わりつつあるその姿で、そんな想いのこもった言葉を口にしてくれるなんて。


 思わずグスンと鼻をすすりそうになるも、視界の隅で真理愛さんがジト目で俺のことを見ていることに気付いてしまい、そんな感情はすぐにフラットに戻る。……って真理愛さん、お願いだから今は心晴のことだけを見てあげて!


 なんて突っ込みはもちろん入れれるわけもなく、俺は自分の存在感を消してこのしんみりとした空気の一部と化していると、今度は朱華の声が耳に届く。


「あーもうわかったわかった。心晴がそこまで言うならもうこのメンバーでいいよ」


 まり姉もそれでいい? という朱華の呼びかけに、真理愛さんもしぶしぶといった具合にコクリと頷く。

 そして彼女はそっと顔を上げると、初めてまともに俺のことを見てきた。


「それでいいよね……ま…………は、萩野くん?」

「ッ⁉」


 再び息が詰まるほどの衝撃を受けてしまったのは、真理愛さんがやっと俺に話しかけてくれたからではない。

 呼び方が……俺に対する呼び方が、まさかの『萩野くん』になっていたからだ。


 そんな……バカな……


 思わず狼狽えながら心の中でそんな言葉を漏らす俺。

 以前は付き合う前からでも『まさ君』と親しげかつ優しい声音で俺のことを呼んでくれていたあの真理愛さんが、ここにきてまさかの他人行儀に戻ってしまっているだと⁉


 先ほどの感動ムードから、心は一瞬にして奈落のどん底へとホールインワン。

 けれどもこのままではいつまで経ってもこの気まず過ぎる沈黙に終止符を打つことができないので、俺はゴクリと唾を飲み込むとやっとの思いで声を絞り出す。


「そ、そうですよね……『神嶋かみしまさん』」

「…………」


 俺が真理愛さんのことを同じく苗字で呼んでしまった瞬間、相手にとってはもはや自分ごときに呼ばれること自体が不愉快なのか、あからさまに目を細めて嫌そうな表情をする真理愛さん。

 そんな彼女からさーっと視線を逸らすと、俺は窓の向こうに広がる大阪の街並みを見つめながら思う。


 ――都内にいるお父さんとお母さんへ。

 

 息子は手違いと勘違いの果てに、今日から無事に修羅ハウスの生活をスタートできそうです。

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