第4話 自室にて

 死刑宣告にも似た新生活に向けての話し合いを終え、俺は今、新しい自分の部屋であぐらをかいていた。


 与えられたのは、六畳一間のありきたりな洋室。


 腰窓があって、押し入れがあって、天井では丸っこいシーリングランプが無機質に輝きを放っている。

 その真下でダンボールの山に囲まれながら、俺はやっと一人になれたことに安堵してため息を一つ吐き出す。


 それにしても……本当に大変なことになったな。


 正直、いまだに自分が置かれているこの状況が信じられない。


 ラノベの世界ならまだしも、ここは現実。

これがイチャこら万歳のラブ&コメディならきっと最初からハッピーエンドに向けてのフラグが立っていたのかもしれないが、残念ながら俺に立っていたのはオイコラ万歳の死亡フラグだ。


 唯一の救いは、俺がかつて付き合っていたことを朱華あやか心晴こはるは知らないことだろう。


 そんなことを思い再びため息をつくと、俺はまだ見慣れない部屋をぐるりと見回す。

 この家の間取りは、玄関に入るとリビングダイニングへと続く廊下が真っすぐに伸びていて、その廊下を挟んだ左右にドアがそれぞれ二つずつある。

 そして俺の部屋は玄関から見て左手奥の部屋。

 なぜここが俺の新たな根城になったかというとその理由は朱華あやかいわく、火事が起こった時は三姉妹が無事に脱出したことを見届けてから燃え尽きろということらしい。……それってどうなの?


 早くもこの家では自分の人権が迷子になりつつあることを感じながらも、それでも俺は胸の奥で感じる高鳴りを隠すことはできなかった。


 そう。なぜならこの部屋の隣には――


「あぁ、真理愛まりあさん……」


 真っ白の壁を見つめながら、思わず愛しの人の名前を呟く。

 まさか真理愛さんとひとつ屋根の下どころか一つ壁の隣で生活することになってしまうなんて。


 着替え中の場合、衣擦れの音は聞こえてくるのだろうか? という邪念に囚われそうになり慌てて首を振って思考を切り替えると、俺はテトリスのように積み上げられているダンボールへと再び視線を移す。

 朱華からは今日中に片付けを終わらせておかないと部屋は没収という重いペナルティが課せられてしまっているので、やはりこの家で俺の人権が迷子になっていることはほぼ間違いないだろう。


 そんなことを嘆きつつも、「さてやるか……」と重い腰をあげようとしたその時だった。


「やっほーまさ兄! 元気しとったーッ⁉」

「うぉほッ!」


 突然背後にあるドアが勢いよく開くと同時に、背中にむにゅっとした謎の柔らかさを感じて俺は思わず奇声を発した。


 ええい、いちいち狼狽えるな俺! たかが心晴こはるが後ろから抱きついてきただけじゃないかッ!


 そんなことを心の中で叫び、俺は背中に当たっている柔らかさはあえて意識せずにすばやく心晴の両腕をほどくと、そのまま彼女から慌てて距離を取る。


「ちょっとまさ兄、なんで逃げんの?」

「当たり前だろ! お前こそなんでいきなり抱きついてくるんだよッ」


 できるだけ動揺を悟られぬのように、眉間にぎゅっと力を込めて真面目な表情を取り繕う。

 というよりコイツは何なんだ、稀に見るセクハラ女子か。


 今の俺にとって男子万人が喜ぶラッキースケベなんて、相手が真理愛さんならともかく、コイツの場合はただの地雷だ。

 万が一にでも、さっきみたいな場面を真理愛さんに見られてしまったら、それこそ寄りを戻すどころか俺の人権は二度と戻ってこないだろう。


 なんてことを黙ったまま考えていると、目の前で心晴が何やら不満げにぷくぅと頬を膨らませる。


「いつものスキンシップやん! 3年前もおんなじことやってやんか」

「いやまあ確かにそうだけど……」


 ぼそりと呟く俺の視線の先には、3年前の心晴には存在しなかったはずの豊かな双子山の姿。

 俺が身長を5センチ伸ばすのに四苦八苦している間に、どうやらコイツはそれ以上の進化を遂げてしまったらしい。


 女子の成長とは恐ろしいものだなと一人つくづく感じていると、目の前で頬を膨らませていたはずの心晴が何故かニヤリと笑う。


「あ、さてはまさ兄ウチのおっぱい見て興奮してるんやろ?」

「なっ⁉︎」


 コイツ、直球でなんてこと言いやがるッ!


 んなわけないだろ! と俺は思わず声を裏返しながら言い返す。

 しかしそんな態度が余計に相手の邪心に火をつけてしまったようで、あろうことか心晴はなんの恥じらいもなく自分の胸を両手でむぎゅっと挟むと、「ほれほれ」とふざけたことに揺らし始めたではないか。


「バカやめろ心晴! だいたい俺はな、お前の胸なんて見たって興奮などせん!」

「ふーん、でもウチのおっぱいまり姉には負けるけど、たぶんあや姉よりかはおっきいで」

「…………」


 けろりとした口調で、今度はとんでもない爆弾発言をかましてくる小娘。


 これは聞き捨てならない情報だ。


 ここはすっと息を吸って、心を落ち着かせて。

 そして組み立ててみよう。

 俺だけの方程式。



 真理愛さん 〉 心晴 〉 朱華



 うん、朱華ドンマイ。


 もしかしたら性格の悪さと胸の大きさは反比例するのかもしれないという独自の考察結果を導き出すと、とりあえずそのレポートは心の書棚に置いといて、再び心晴のことを見る。


「お前、まさかとは思うが学校で男子の前でもそんなはしたないことをしてるじゃないだろうな?」

「ほぇ?」


 さっきから何を育てているつもりなのか、ずっと自分の胸を揉んでいる心晴に対して俺はそわそわと視線を泳がせながら忠告をする。

 するとやっとセクハラ行為から手を引いた心晴がけらりと笑う。


「さすがにウチだってこんなこと学校ではせえへんって。それに中学生なんてまだガキんちょやから女の子のおっぱい見たって興味ないやろ」


 バカ言え心晴。


 俺が真理愛さんと付き合っていた時、どれだけあの聖域に手を伸ばしてみたいと毎晩願いもがいていたか、あの苦しみがお前にはわからないだろう。


 などと思考が脱線しかけたところで、これ以上コイツと乳の話しで盛り上がっている場合ではないとやっと冷静になった俺は、ツバメも驚く切り返しで話題を変える。


「というよりお前、姉妹でシェアハウスするなら先に言ってくれよ」


 真面目な表情に戻って胸に残っているわだかまりを言葉にすれば、心晴が少し罰の悪そうな表情を浮かべる。


「だってまさ兄、ウチらと住むっていったら絶対に来てくれへんかったやろ?」

「……」


 本当なら即答で「当たり前だろ」と言いたいところだったのだが、そんなことを問う心晴の瞳が何故だか幼い頃の彼女に重なって見えてしまい、俺は思わず言葉に詰まった。


 昔から天真爛漫ではちゃめちゃなところがある心晴だが、三姉妹の末っ子ということもあってか寂しがり屋で、そして人の心の機微には敏感なほうだ。


 そのため変なところでひとり強がったり、自分のことは棚に上げて相手に合わせたりすることもよくあった。


 きっと単身赴任に自分だけが付いていったのも、こっちで一人仕事を頑張るおじさんが寂しくならないようにと想う彼女の優しさからだったのだろう。


「ウチな、ほんまに嬉しかってん。まさ兄が急にこっちの高校に入学するって話してくれた時。ちょうどおねーちゃんたちも大阪に引っ越すって聞いてたから、これでまた昔みたいに四人一緒におれるなって」


 そう言って、にへらと嬉しそうに笑う心晴。

 まあたしかにコイツにとっては、青春多感な中学生時代をこっちで一人過ごすことにはかなりの不安があったはずだ。


 きっと俺だったら耐えられなかったような孤独で寂しい夜もたくさんあったのだろうと少ししんみりモードに入っていると、今度は心晴が明るい声で言う。


「ほんでまさ兄、今から何して遊ぶ⁉︎」

「いやお前、このダンボールの山を見てよくそんな発言ができるな」


 なぜか急に瞳の輝きが増したと思ったら、突然そんな空気の読めない発言をしてくる相手。

 なるほど、もしかしたら俺はコイツの性格を深読みし過ぎているだけかもしれない。


「えーだってウチ、まさ兄と遊びに行けると思って大阪の色んなとこ調べとってんで」

「んなこと言われてもな……」


 勘弁してくれ。俺は初日からこの部屋を失いたくないんだよ。お前のねーちゃんほんと怖いんだぞ?


 ジト目でそんなことを訴えるも、俺の視線にまったく気づいていない心晴は「よしっ」と何か閃いたかのようにポンと手を叩く。


「それやったらウチも片づけ手伝うから、はよ終わらせて遊びに行こやっ!」

「いやいやいやいや、それはいいって。片づけは俺だけでするからマジでいいって」

「そんな遠慮する必要ないやん、ウチとまさ兄の仲やで!」


 陽気な声でそう言って勝手にダンボールを開けようとする心晴の手を慌てて払う。

 俺だって年頃の男の子なんだからな、女子には決して見せられないような危険なブツのひとつやふたつだってあるんだぞ!


「わかったって! 今度な、今度はぜったいにお前と遊びに行くから!」


 だからお願い開けないで! といっそ恥を捨てて土下座でもかましてやろうかと覚悟していたら、「しゃーないなぁ」とちょっと不満げながらもようやく納得してくれた心晴。


「じゃあ今度ウチがまさ兄を色んなところに連れてったるから約束やで。この近くにできたリゾートホテルとかほんまスゴいんやからな、めっちゃおっきなやつ立ってるし!」

「あーはいはい、わかったよ」


 さっきの不機嫌さはどこへやら、無邪気な笑顔と共に嬉しそうにそんな言葉を向けてくる相手。

 見た目はともかく、こういう純真な中身は変わってなくて安心する。

 さすが、その名の通り心晴だ。


 しかし気が変わりやすいのも変わってないようで、自ら手伝う宣言をしていたくせに一分も経たずしてベッドの上にどてんと座り始めた。

 あ、コイツまだ俺さえもその新品マットレスには乗ってないのに。

 人の人生の約3分の1は睡眠だという。つまりマットレスを制するものは人生を制するという持論を三日三晩展開してオヤジに無理やり買ってもらった高級マットレス。

 俺がその寝心地を試す前に、ベッドの上で勝手に大の字になって寝ている心晴。


「まさ兄、このベッドめっちゃ気持ちいいやんっ!」


 よほど寝心地が気に入ったのか、まるで動物がマーキングするみたいにぐりぐりとマットレスに身体を擦り付けている心晴。


 さて今晩は心晴の匂いに包まれて寝るとするか、なんて犯罪の匂いがすることを考え始めたところで思考をストップさせて、俺は目の前で元気よく飛び跳ね出した心晴に向かって言う。


「おいあんまりそこではしゃぐなよ。マットレスが潰れるだろ」

「だいじょーぶやって! このマットレスよく跳ねるし」


 理屈がわからん。とすぐさまツッコミを返すものの、「これめっちゃオモロいやん!」と一人勝手に盛り上がる心晴。そのせいで、ついにはマットレスがギシシっと嫌な軋み音を立て始めた。


「おいやめろ心晴! マジでマットレスが潰れる!」

「へへーんっ、だったら捕まえてみーや!」


 こちらの正当な注意に対して、まるで2歳児のような言葉を返してくるわんぱく娘。

 それどころか悲鳴を上げるマットレスの音漏れがあまりにもひどいようで、「うるさい将門!」と今度は朱華のお怒りの声までドアの向こうから聞こえてきたではないか。


 なんで俺が怒られなければならないんだと苛立ちを感じながらも、とりあえず目の前にいる問題児から処理にかかる。


「だからやめろって!」

「おっと、」


 右手を伸ばして心晴の足を掴もうとするも、やはりサルのようにするりと逃げてしまう相手。

 日焼けしているその小麦色の肌が物語っている通り、コイツの運動能力は無駄に高い。


 かといって人生の先輩であるこの俺が、中坊ならぬ中娘相手にてこずっている場合ではないので、俺は静かに両袖を捲りあげると、マットレスという名の闘技場に上がる。


「なんか懐かしいなっ! 昔もまさ兄とよくこうやってベッドの上でプロレスごっこしてたやん!」

「あぁ……」


 そのせいで実家のマットレスを本当に大破させてしまった時、なぜか俺だけがこっぴどく怒られてしまったことは、きっと死ぬまで納得できないと思う。


 そんな余計なことを思い出し、闘志と共にさらにわだかまりを上昇させている俺の目の前では、ファイティングポーズのつもりなのか一人ぴょんぴょんと飛び跳ねている対戦相手。

 そのせいで健全な男子にとっては絵面だけでも凶器になりそうなものまでもがゆっさゆっさと揺れているので、俺はそっと目を閉じると、仙人になったつもりで深呼吸をする。


 ええい、男に二言はない。


 俺はコイツ相手に興奮などせぬッ!


 そんな決意でゴングを鳴らした俺は、今度こそ自分の部屋とマットレスを守る為にも心晴に向かって襲いかかった。


「こいまさ兄! ……って、ひゃあっ!」


 俺が両手を伸ばすのを見て、おろかにも肩を掴まれるとでも思ったのだろう。

 咄嗟に両腕をあげてガードのポーズを取ってきた心晴の隙をついて俺は奴の弱点である脇腹を指先で突つくと、すぐさまその動きを封じる為に心晴をベッドの上で押し倒す。


「まさ兄待って! 本気で押し倒すとかセコイっ!」

「バカいえ! 俺はこんなことさっさと終わらせて、部屋の片付けをしないといけないんだよ!」


 何が楽しくて、シェアハウス初日にプロレスごっこなんてせねばならんのか。

 

 そんなことを思いつつも、中学生の女の子相手に全力で披露するのは、『俺式・四の字固め』。


「ちょ、そんなとこに足入れるとか反則やって! アカンって!」

「うるさい! お前こそシダバタするな! 黙って受け入れろ!」


 心晴の動きを封じるために見よう見まねで四の地固を発動するも、これがまたうまく決まらない。

 対戦相手が相手なだけに、触ってはいけない箇所が多すぎるのはあまりにも不条理だと思う。


 それでも「痛い痛い!」とわざとらしく叫ぶ心晴に、そろそろ朱華が怒鳴り込んでくるのではないかと内心でヒヤヒヤとしていた時、ふと近くにあったダンボールの隙間からタオルの先っぽが顔を出していることに気づいた。


 仕方ない、こうなったら……


 俺は左腕で心晴の両足を捕まえながら、右手でそのタオルをひゅるりと抜き取る。

 もはや悠長なことは言ってられない。俺に残された選択肢は……



 このタオルで心晴を縛るしかないッ!



 そんなことを思った直後だった。

 やかましい部屋にかすかに響いたのは、カチャリというドアが開く音。


 ついにじゃじゃ馬が直接怒鳴り込んできたのだろうと察した俺は、それならいっそ暴れる自分の妹を取り押さえるぐらい一緒に手伝ってもらおうと思い、勢いよく後ろを振り返りながら――


「おい朱華! 今からこいつを縛りつけるのを手伝ってく…………」



 れぇぇぇぇぇぇーーーーッ!?!?



 思わず絶叫と共に見開いた視線の先にいたのは、まるでゲテモノでも見るかのように冷め切った視線で俺のことを見下ろしている真理愛さんの姿!


「ち、ち、違うんです真理……か、神嶋さんッ! これには、これには深い事情が……」

「……………………」


 まるで、息の根が止まるかのような沈黙。


 いつもなら万人を魅了する輝きが詰まっているはずのその瞳が、今は恐ろしいことに底知れぬ奈落の暗闇で塗りつぶされいるではないか。


「ひぃッ!」と思わず悲鳴をあげた俺は、これはもう本人から身の潔白を証言してもらうしかないと思い、「おい心晴!」と後ろを振り返った。

 だがしかし、一体どこで覚えてきたのか、「まさ兄、もうやめちゃうのぉ?」とベッドの上で何故か急にしおらしさをアピールしてくる心晴。

 おいやめろ、この状況でそんな色っぽい顔をするな。余計ややこしくなるだろこのバカっ!


「ち、違うんです! コイツが勝手に……」と受験の時以上に頭をフル回転させて、この状況を正当化する理由を考える俺。


 けれどもそんな誠意が声になるよりも先に、能面のような無の表情を貼り付けた真理愛さんは音もなくドアを閉めて視界から姿を消してしまう。


「…………」


 静寂だけが残った部屋で、時間と共に停止する思考。

 まるで屍のようにただ呆然と立ち尽くす俺の後ろでは、イタズラが成功したことに「うししっ」と腹立たしい笑い声を漏らしているじゃじゃ馬2号。



 やっぱ俺……日帰りで東京に帰っていいですか?



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