後
咲奈の服選びやメイク、ヘアセットの予行練習は、思っていたより時間をかけることなく終わった。
残り時間は駄弁り、漫画を読み、ゲームをしながらゆるゆる過ごす。おれにとって第二の自室といっても過言ではない空間は、帰宅途中に立ち寄るカフェ同様に居心地がいい。
家事という、家族共通の任務があるので、おれがいられるのは午後四時まで。あらかじめ、持ってきた物も咲奈の私物も片付けてあったから、立つ鳥跡を濁さず。帰り際にもたつくことはなかった。
「いやー、先生。今日はありがとうございました。こちら、ささやかなものですが」
「これはこれは。ありがとうございます」
玄関先で、互いにぺこぺこと頭を下げながら、可愛らしいクッキー缶を貰う。未開封のところを見ると、部屋で食べたクッキーとは別だろうか。
「じゃ、また月曜日に」
「うん、またね。寝坊すんなよ」
「うっす、心がけます」
と言ってはいるが、彼女は寝坊常習犯。いつも通り、モーニングコールをすることになるだろう。友だちと遊びに行く時くらいは、何とか起きてほしいところだ。
大きく手を振る咲奈に、こちらも振り返しながら思う。進んだ高校は別々だが、登下校の道や最寄り駅はずっと同じため、モーニングコール係も継続で任されていた。
二、三軒先の我が家の玄関に着いても、まだ彼女は外にいた。おれが再び顔を向けると、今度は両手を振り始める。毎回やっているけど、常に全力でやっていると分かるから、つい笑ってしまう。
最後の振り返しをして、「ただいま」と玄関に声を落とす。返答も、自らの音が跳ね返る気配すら無い。クッキー缶をリビングに置き、部屋に戻るまでに立てた音たちが、落ちたまま死骸になり果てていくような気がしてくる。
持ち出していた私物を片付け、姉の部屋に借りていたものを返してから、ベッドの上で仰向けになった。
「……咲奈に恋人、かぁ」
一昨日つぶやいた独り言が、また部屋に降り積もる。咲奈をそういう意味で好きになったことは一度も無いし、彼女もそうだと思うが、何だか不思議な気分だった。
人付き合いがサバサバとしていて、誰にでも平等な咲奈が、誰か一人に熱を上げる姿は想像しづらい。だけど、快活そうなショートヘアと顔立ちや、可愛いと評判のブレザー制服を着こなす姿は魅力的だから、告白される奴は幸せだろう。友人贔屓が八割くらいの、個人的見解ではあるが。
「上手くいくと良いな」
おれが好きな、彼女の笑顔が曇りませんように。
成功を祈った後、反動をつけてベッドから起き上がる。おれだけしかいない内に、掃除を終わらせておかないとならない。
***
「楯石くん、ごめん! 教科書見せてくれない?」
当時から管理というものが苦手だった咲奈が、教科書を忘れて、見せてあげた。話したきっかけはこうだったはず。とりあえず彼女が何かを忘れて、おれが貸したのは確定している。
抜けていて、おれ以外からも世話を焼かれがちな咲奈とは、不思議なくらい気が合って話も弾み、家も近所だったからすぐ仲良くなった。周りからはからかわれたり、何か噂話をされたりしたけれど、特に気になったことはない。
一つ上がって四年生の頃。クラス替えは無かったので、おれと咲奈は引き続き、仲良くつるんでいた。
「結人って、美人だよね」
思ったことは正直に言う咲奈から、褒めてもらったことも少なからずある。おれはその度に嬉しかったが、同時に怖がっていた。というのも、ちょっと昔の出来事を思い出していたからだ。
小さい頃から、おれはファッションというもの、服飾が好きで。身だしなみを美しく整えることを、カッコいいことだと思っていた。おれ以外の男の子も同じだと、当然のごとく思っていて、男友達に話題を振ったことがあったのだが。
「そんなの、女子の話じゃん」
予想外にも、突き落とされた。真っ暗な底なし穴へ。
変な奴と露骨に語る視線を向けられて、傷つきはしたけれど。おれは案外しぶとく、姉という味方がいたこともあり、憧れた世界を手放すことはしなかった。壊れてしまわないように、晒されて馬鹿にされないように抱え直して、暗中へ落下していった。
でもやっぱり、バンジージャンプのような紐はないから、渦巻く恐怖に苛まれていた。落ち続けるのは嫌だ、早く着地したかった。
姉がそういう存在になってくれなかったわけじゃない。けれど、おれと違って様々なものに恵まれていた姉の傍には、どうしても長く居続けられなかった。早く不安から逃れたいくせに、贅沢しようとする我儘な自分が、嫌になったこともある。
歳が二桁にも満たない頃に、何とも難儀なものを抱えていたおれは、誰かに話を聞いてほしかった。励ましも相槌も要らないから、ただ、叫ばせてほしい。一人でもできることだけれど、それじゃあ駄目だと分かっていた。全然すっきりしないから。
そんな俺の前に現れたのが、咲奈だった。
何気ない褒めの一言を貰うようになってから、打ち明けたいと考え始めて。言おうと期限も決めて、退路を断った。
五年生に上がるとクラス替えがある。一度離れて、それを機に言えずじまいになって後悔することだけは、どうしても避けなければならない。
「ねえ、咲奈。聞いてほしいことがあるんだけど」
決行日の春休み初日、三月十七日。冷たい風を受けたブランコの、キイキイという鳴き声が転がる高台の公園で、おれは口を開いた。服やアクセサリーが好きなこと、ファッション雑誌を見るのが好きなこと。姉以外には言わないようにしていた夢――いつか自分で服を、いや、ドレスを作りたいという夢も、全部ぶちまけた。
いざ話し出すその時まで、嫌な想像の曇天だったのに、話していると気分が晴れた。唸りを上げるミシンのように、心臓がうるさく脈打っていた。けれどもそれは、好きなものを言葉にして織り上げている時だけで。終わってしまえば一転、断崖に立たされた気分になる。
受け入れてもらえなくてもいいと、勇ましく言い放つことができたら、どんなに良かっただろう。それくらい強ければ、底なし穴だって怖くないのに。
「結人が前のめりになるの、初めて見た」
ぐるぐる、たくさんの思考が暴れる中。咲奈の声が現実に戻してくれた。じっとこちらを凝視する目と、視線が絡み合う。
「いっつも、背筋ピーンってしてるから。背中丸まってる結人見るの、初めて」
「それは、そう、心がけてるから」
「さっきは忘れてたの?」
問いかけられて、流れるように頷く。咲奈が何を考えていて、どんなことを言い出すのか、全く予測が付かない。
でも、ふっと彼女が笑ったから、嫌なことは言われないと確信した。
「じゃあ、それくらい洋服が好きってことだね。すごい」
「すごい?」
聞こえた音に、字が追い付かない。「そう、すごいよ。す・ご・い!」咲奈が区切って、ようやく分かる。
「おれ、すごい、の?」
「そうだってば!」
「変じゃ、ない? おかしくない?」
「え。何か変なところあった?」
おれより不思議そうな顔をして、咲奈は首を傾げる。けれどすぐ、にっこりと笑った。いつも見ている笑顔なのに、その時は、太陽みたいに眩しかった。
「結人はすごいし、かっこいいよ。あと綺麗!」
駆け寄って来るなり手を握って、ぶんぶんと上下に振るう咲奈。馬鹿みたいに全力で振るうから、おれも笑っていた。大きく上下する腕と笑い声に、しつこく付きまとってきた恐怖や嫌悪が、追い払われていくような気がした。
いくら無邪気な子どもとはいえ、異性に言うにはストレートすぎる台詞だったけど、まあ、そこは咲奈だ。出会った時から、あの子はいつも素直だった。咲奈の言葉と笑顔は、おれに足場をくれたどころか、急上昇する翼までくれたのだ。
今でこそ、人は案外、自分を受け入れてくれるのだと分かったけれど。あの時のおれは怖くて、怯えていて、動けなかった。一歩踏み出せるようになったのは、咲奈のおかげだ。
何てことないように笑って助けてくれた、大切な友達。それが、津野田咲奈だ。
***
コーディネートに協力してから、二週間後の土曜日。ついに、咲奈が告白しに行く日が来た。
本日のモーニングコールは、咲奈と一緒に遊びに行くという友達に任されたらしいので、おれの起床は比較的ゆったりとしたものになった。
ベッド脇の机からスマホを引き寄せて、何かの通知が来ていないか確認する。画面上部から流れ落ちてくる通知の中に、メッセージアプリのアイコンが混じっていた。咲奈だろうか。何事もなく駅に着いたら、連絡すると言っていたし。
ロックを解除し、新着メッセージを開く。送り主は案の定だったが、短い三つのメッセージが目に入った瞬間、飛び起きていた。
『定期忘れた』
『助けてくれ』
『へるぷみー』
すぐさま着替えて家を出る間に、『本当すまん』と文字が増える。時間が惜しいから返信はしない。……やっぱり、スタンプだけ押しておいた。咲奈相手に使いまくっているせいで、履歴の先頭に出てくる「任せて!」を。
咲奈の家で定期を受け取り、引っ張ってきた自転車で、駅前までかっ飛ばす。日ごろの善行が認められていたのか、道中の信号機に一つも引っかからず、十五分弱で目的地に着けた。
「マジで申し訳ねえ……ありがとう」
自転車置き場から少し歩いたところで、こちらの姿が見えたのか、蒼白な顔の咲奈が駆け寄ってきた。我ながら中々のタイムで届けた定期は、しっかりと彼女のバッグに収められる。
「出かける前は持ち物を確認しましょうね、咲奈さん」
「はい先生」
「まあ、切符買えば済む話ではあるけど」
「……。あ!?」
すっかり頭から抜け落ちていたのか、今さら気付いたらしい。咲奈は言葉に変換できない声を上げて、顔を覆い
「いっそ殺してくれ」
「気にしてないよ。それより、他は大丈夫? 今日は雨降らないっぽいから、折り畳み傘の心配はないけど」
「イケメンかよ。イケメンだけど」
「イケメンだよ」と投げやりに返して、のろのろ立ち上がる咲奈の姿を確認する。服装にも、特におかしなところは見当たらない。あるあるの値札付けっぱなしや、糸くずがついているなんてこともなく、バッチリ決まっている。
「うん、大丈夫だね。じゃあ、楽しんで来なよ。お土産もよろしく」
「了解。……本当、ありがとうね、結人」
赤色が残る顔に微笑を浮かべて、咲奈は照れくさそうに礼を言う。メイクもしっかりしているから、男一人、容易くドキリとさせられるくらい魅力的だ。
でも、我が誇るべき女友達の笑顔、その威力はこんなものではない。
「最高に決まってるんだから、問題ないよ。ぶちかましてこい」
背中を叩くように言えば、瞠目を挟んでそれが表れる。眩しく輝く、弾けるような笑顔が。
「イエッサー! いってきます!」
「あっ、走るな、転ぶだろ!」
「転ばねーよー!」
赤に混じって潜んでいた、暗い影を吹き飛ばして。咲奈は不安な足取りながら、軽快に走って行く。乗車した電車が出るまで見送ってから、やっと自転車置き場に足を向けた。
唯一無二の女友達。どこか抜けていて、放っておけない幼馴染。
おれの夢を
わらわなかった君のために 葉霜雁景 @skhb-3725
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