いやー、これは、世界が悪い

常世田健人

いやー、これは、世界が悪い

 人生に劇的な出来事なんて無いと確信したのは――二十九歳の誕生日に、約七年付き合った彼氏に別れを告げられた時だった。

「ごめん、他に好きな人が出来た」

 その時の彼(現在は元彼)の表情は、なんて悲しげなことだっただろうと、笑うしか無いなと思う。

 元彼は六年寄り添った恋人に対して一方的に別れを切り出すどうしようもない男だった。

 元彼とは大学一年生の時に出会った。同じサークルで同じ趣味を持っていて、同じ価値観を持っていていつかは同じ家族を持つものだと信じていた。

「どんな人なの?」可能な限り落ち着いた口調で私は聞く。

「……会社の、同僚」

「先輩、後輩、どっち」

「……後輩」

 あーあ。

 クソ野郎だなと、シンプルに思った。

 結局元彼は若い女が好きで、サーにアラウンドな女性には興味を持てないんだなと如実に感じてしまった。

 それでも、私は、元彼が好きだったんだ。

 だからこそ、こんな質問を――してしまった。

「私とその子を比較した時に、その子を選んだ理由は何」

 元彼はより一層苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 チラリと見た私の表情が般若の如く見下ろしていたから、覚悟をしたのだろう。

「聞かれたから答えるけど」元彼はそう切り出して、決定的な一打を繰り出した。「ロマンティックなトキメキってやつが、君よりも彼女の方が得られたんだよ」

「ハッ。地獄に堕ちろ」

 水滴を片目から流しながら、精一杯の嘲笑を元彼に浴びせてその場を去った。


 *


 ロマンティック。

 トキメキ。

 MVが恐ろしく可愛い流行りまくった名曲のタイトルかと思うほどの甘ったるい単語の羅列だった。

 少なくとも私には、そんなものを提供できる自信がない。

 神奈川の端っこで事務職にひたすら取り組み続けるアラサーは、元彼のロマンティックなトキメキという幻想的な意にそぐわなかったのだろう。何をバカなことを――若い女性の性的な魅力に取り憑かれただけだろう――そんな悔し紛れな感情がどんどん自分の中から出てくるのに、外に出せない自分がやるせなかった。

 どうでも良いと思い、様々な出会いに手を出した。

 先日二十九歳になったばかりの私は、まだまだ誰かに好かれる要素はあると思い、色々様々かくかくしかじか多種多様な諸々に手を替え品を替え、希望を見出しまくった。

 街コン――そもそも一人参加の女性は男性二人以上の猛攻に耐えられない。

 合コン――誘われない。

 合コン幹事――幹事に手一杯で肝腎要の自分の出会いに関係なく参加してくれた女性陣にお礼を言われる始末。

 相席飲み屋――一人で行くべき場所では、間違いなく、無い。相手側の男性を困らせてしまって反省でしかない。

 マッチングアプリ――たくさん種類があって目に付く無料サービスに手当たり次第に登録した結果――同じくマッチングアプリ狂の男性から「別のアプリにも登録してるよね?」と質問を受けてブロックする日々だった。

 それぞれで、良いなと思う男性は数多くいる。

 けれども、私が思いうかぶ最低限の理想像には遠く及ばなかった。

 それは――次の要素。


① 三十歳以下。

② 一人暮らし。

③ ある程度の年収を得ている。

④ 仕事に対してもプライベートに対しても前向き。

⑤ 話していて楽しい、無言でも気にならない。


これだけの希望しかないのに、合致する男性が全く出てこない。

「世の中の男性、見る目がなさすぎでしょう!」

 横浜の港近くにて、盛大に大声を出す。周りに人がいたところで構うもんかとしか言えなかった。どこをどう切り取っても、男性は若い女性のことが好きなんだと思わざるを得ない。二十九歳という年齢がベストな年齢かもわからない。何でも良いからありのままの自分を好いてほしいと思うしかない。どうにもこうにもうまくいかないまま、私は、湘南の海の近くで――こう叫んでいた。

「結婚を想定出来る阿吽の呼吸の彼氏が欲しい!」

 我ながら情けない絶叫だったと思う。

 それでも、捨てる神あれば拾う神ありという奴は本当で――

 鼻水を流しながら涙も流していた私の足に――コツンと、無機質な感触が襲いかかってきた。

 鼻水を啜りながら下を向くと、そこには、ガラスの瓶があった。

「ガラスビン?」

 思わず発してしまった直後――私は気づいてしまった。

 足元にあるガラスの瓶の中には、何やらメッセージが入っている。

 無駄なことに無駄の極みとばかりにカレーを食べた後、レストランにて冷静に叫んだ。

「メッセージボトルだ!」

 海を漂い、メッセージボトルを投げ入れた人物からは誰がどう手に入れて読むのか、理解が及ばなかった。

 こんな前時代的な代物を見る時が来るのかと衝撃を覚える。躊躇は何もなかった。とにもかくにも、何か――何かが起こるかもしれない――という期待が、それ以外の全てを勝ってしまう。ロマンティックとやらが、トキメキとやらが、今まさに私に訪れようとしている!

「ぬうぁああああああああああ!」

 前述の横文字がかき消されそうなほど死に物狂いな叫び声を出しながら、メッセージボトルのコルク栓を抜こうとする。本来ならばワインオープナーを使うべきなのだろうが、海辺で崖っぷちという意味不明な文字面状態の私には構いやしなかった。

 コルク栓も気を付かってくれたのか、なんとか抜くことが出来た。

「よっしゃああああああああ!」

 鼻息を荒くしつつ、丸められた紙をガラス瓶の中から取り出す。

 ガラス瓶を足元の砂浜に思いっきり投げつけた後、紙を開いた。

 書き出しはこんな感じだった。


『初めまして。

このメッセージを見られた方がもし女性でしたら、何かの運命かと思っています。

もしよければお会いしませんか。

プロフィールと連絡先を下記にまとめます』


 *


 翌週の土曜日。

 私は精一杯のオシャレをして、とある駅の改札口近くに佇んでいた。

 メッセージボトルの彼は私の好みに合うプロフィールで、連絡をしてみると「すぐにでも会いたい」と言ってくれる素晴らしい男性だった。メッセージアプリの名前欄が絵文字だったこともあり、その人物の名前はわからなかった。

 それでも会いたいと思ったのは、プロフィールもそうだが――メッセージボトルでの出会い方だからだろう。

 こんな奇跡、人生においておそらくもう二度と無い。

 三十歳直前の年齢で、一度くらい大博打を打っても良いはずだ。

 ドキドキしながら待って――遂にその時がやってきた。

 待ち合わせの時間、待ち合わせの時にわかりやすい服装の特徴が目の前にやってくる。彼は青い肩掛けバッグを持ってくると言っていた。私も青い肩掛けバッグを持っている。その目印に向かって歩いてくる男性を見て――息を呑んだ。


 元彼だった。


「久しぶり。まさかこんなことがあるなんて思いもよらなかったよ」

 元彼はなんだかはにかみながら私に近寄ってくる。

「後輩の女の子にこっぴどく振られて、やけになってメッセージボトルを投げてみたら、まさか君に行き着くなんて」

 徐々に近寄ってくる。

 その姿から、目を離せない。

「連絡先が違って驚いたよね。後輩の女の子に振られて自暴自棄になって、スマホ、買い替えたんだ。今となっては君を驚かせることができてよかったと思っているよ」

 元彼の両頬は、朱く染まっている。

 その姿は、付き合い初めの時に見た様子を彷彿とさせる。

「ロマンティックなトキメキ、感じている。今更でゴメン」

 元彼が次に言いそうな言葉は――流石の私でもわかった。

 その言葉を告げられた時、どんなことを感じるのだろう。

 ――そんなこと、考えるまでもなかった。

 目の前まで来た元彼が言葉を紡ごうとしたその時に――

 元彼の右頬を、思いっきりビンタした。

「痛っ!」

 元彼が信じられないと言いたげな表情で見てくる。

 その表情があまりにも情けなくて、思わず「ハッ」と鼻で笑ってしまった。

「どんなにロマンティックなトキメキを得られそうな再会を果たせたとしても、あんたと付き合う気は二度とないわ!」

「ま、待って!」

 踵を翻した私に対して元彼が何か言いたげだったが、立ち止まる気はさらさらなかった。

 目的地も決めずに駅の階段を駆け降りる。

 駆け下りながら――元彼の姿を思い返した。

 ああ――

 何も感じない――

 元彼は、私の中で、元彼でしかない。

 彼に戻ることは、金輪際なさそうだった。

 メッセージボトルで異性と出会う確率なんてどれほど貴重なものなのか計算しなくてもわかるはずなのに、よりにもよって出会うのが元彼だとは。後輩の女性に振られたとわかって清々したが、それ以上の感情は何も抱くことはなかった。

 もう、いいや。

 二十九歳で、三十歳になるまで一年もなくたって、どうでも良い。

 幸か不幸か今日明日と誰にも会う予定は無い。

 ニンニクたっぷりの豚骨ラーメンでも食べに行こう。

 女性として良くないムーブなのかどうかはわからないが、構うもんかと思う。

 スマホを取り出して、近隣のラーメン屋を探しはじめた。

 元彼からメッセージが来ている。

 最後に一言、苦言を呈すならこの文字列がふさわしい。

 誰に言うでもなく、呟いた。

「いやー、これは、世界が悪い」

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