第4話

 降ろしてもらった後は、徒歩で土井は高台の危機管理センターにたどり着いた。「ミカン」のシステムが収め垂れているところだ。

「だいじょうぶか」

「建物は免震構造になっているから……ああ!!」

 サーバーラックの一部が倒れている。

 とりあえず起こしたが、電源の入らないノードがある。

 職員の努力で、バックアップの自家発電は機能している。

 建屋は太陽光発電システムも完備しており、電力網からの給電がなくなっても、全電源喪失に陥る心配はない。

 こういったときこそ「ミカン」の真価が試されるのだ。なにしろ判断は迅速であり。疲れを知らない。

 しかし、ノードのトラブルによる影響は未知数だ。

 停電は起こっていないし、自家発電できるので、全体が停止することはなかったにせよ、計算能力の大幅ダウンは間違いない。

 夏場であるので、室内の空調も切ることは出来ない。

 屋上の太陽電池と蓄電池だけで賄うことが出来るか、不安だ。

 さしあたって、高台にあって被災を免れた、ミカン畑跡地のメガソーラーに送電線を接続することにする。

「何しろ、命綱だからな」

 危機管理センターのスパコンは、東電工の本社にある、はるかに高性能のスパコンとネットワークで繋げることができる。

「中継機はまだか」

 非常事態で回線が本社と繋がらない場合は、中継機を経由して通信することになっている。

 中継機は「成層圏プラットホーム」と呼ばれる大型の飛行船で、成層圏の比較的気流の安定した高度二万メートル付近に滞留している。

 表面に貼り付けられた超薄型の太陽電池パネルで給電し、GPSで位置を自動調整する。有線と違ってケーブルが途切れる心配はないし、衛星回線よりタイムラグが少ないという利点がある。

 それが生きている限り、本社と連絡が途切れることはない。

 ネットに繋がり、SNSなどから情報を収集し、自然発生的に作られた避難所などを把握する。

 ネットに大量に流れている情報には錯誤や、意図的な偽造も含まれるが、訂正情報に速やかに上書きされる。

 ここも、AIの利点が発揮されるところである。フランシス・ベーコン言うところの「イドラ(先入観、偏見)」とは無縁である。

 このご時世、本来公共の理念を守るべき政治家まで、まっさきにデマを流す始末だ。

 あまりにもデマ情報が多いので、この時代、ネット経由の情報の信頼性は地に墜ちていた。

 しかし情報が早いのも事実だ。人間は欺されるが、AIはそうはいかない。


 状況が判明してきた。

最初の地震で発生した津波により、駿河湾沿岸一帯、下田市、沼津市、富士市、焼津市、静岡市、牧之原市、御前崎市の沿岸部は壊滅状態。数十万人の被災者が出ている模様だ。それに「本震」とそれによるさらなる規模の大津波が、追い打ちをかける。

しかし「ミカン」が稼働できることで、土井は多少は冷静になることが出来た。

 夕方までに集合できた職員は数人に過ぎなかった。この人数では、壊滅した街で災害対応を行うことなど不可能だ。

 しかし、「ミカン」はまだ使える。本格運用するしかない。

 土井は訊ねた。

「松崎さんは」

 職員は黙って、首を振った。

「……まさか」

 ひとりが言った。

「……市長、市議と連絡が取れません」

 一縷の望みを託してはいたが、どうやら、津波に巻き込まれたのは間違いないらしい。

「わかった。決断を下すしかないようだな」

 土井は言った。

「ミカンに、全権を委任しよう」

 パラボラアンテナを背負った中継車が繰り出された。

 成層圏プラットホーム経由でネットワークと接続される。地震で地上の回線が断絶したり、輻輳を起こしても回線は確保される。「ミカン」のシステムは、研究所のスパコンでも、バックアップを走らせることが可能なのだ。

 複数のスパコンが連携して情報処理をする形式であるので、極端な話、世界中どこにあってもいいのだ。

「ドローンを用意してくれ」

 ドローンを飛ばして、被災状況を確認する。

 有人のヘリよりも小回りがきき、医薬品のような小型軽量の荷物なら、運搬投下することも出来る。

 海岸線に沿った進路を指定し、しばらくすると、飛行しているドローンが撮影した画像が映る。

「これは……」

 津波によって海沿いにあった集落や道路は押し流され、瓦礫の山が出来ている。ひしゃげて横倒しになった車や、潰れた民家の屋根に乗り上げた漁船。周囲は浸水したままだ。

「壊滅だな……」

 予想していたとはいえ、目を覆うような惨状だ。

 高台にある学校。校庭には、着の身着のままで逃げ出した避難民が集まっていた。校舎の屋上には、机や椅子を並べて書かれた「SOS」の文字が映る。

 土砂崩れで赤土が露出した山肌。大量の土砂が谷を埋め、川をせき止めている。大雨が降れば決壊の恐れもあるかも知れない。

「山道は寸断されているな」

「揺れの被害も相当あったようだ」

 どこから手を付けていいのか。分からない。

「本格的な救助隊は、いつごろやってくるのか?」

「被害範囲が広すぎるからな……数日はみておいたほうがいいだろう」

 土井は答えた。

 まずは、孤立した被災者に物資を届けることだ。

「こいつが使えるはずだ」

 職員のひとりが、電気自動車を手動モードにした。

 ダッシュボードの横にある赤いアクリル板を割り、内部の非常スイッチを入れると、オートドライブが解除されて、手動の運転が可能になる。ダッシュボードの下に折りたたまれていたステアリングを引き出し、運転できるようにする。

 電気自動車は大型の蓄電池を積んでいるので、停電している場所の非常電源にもなれば、

稼働しているソーラーパネルから充電することも出来る。

「4WDだから、舗装していない山道でもだいじょうぶだ」

「頼む」

 山道を孤立した集落に向かっていった。

 避難所になったスポーツセンターの状況が入ってきた。

 館内は人いきれでむっとするようだ。老若男女の被災者がホールはおろか、通路にまで座り込んでいる。

 手元には、避難者すべてに行き渡るほどの物資はない。被災を免れた小売店に供出して貰って、急場をしのぐことにする。

 混乱が収まらないまま、日が暮れた。

 瓦礫のあちこちから上がった火の手は、廃墟や陸に上がった船、津波が到達した地点で一直線に並ぶ自動車の残骸を赤々と照らし続けた。

 「ミカン」に接続すれば、自動運転車を巡回させることが出来る。救援物資をドローンで投下して、避難民に行き渡させようとした。

 しかし、却下された。

「物資の運搬には職員が付き添わないと。不測の事態が生じないとも限らない」

 少し考え込んだ。考えたくないことを考えなくてはいけないのか。

「それも、そうかな」

 返事をしたとき、また、余震が来た。

「……!」

 床が大きく揺れてきしみ、埃やコンクリートの小片が天井からぱらぱらと落ちる。

 避難者たちは言葉にならないどよめきを発する。子供の泣き声が聞こえる。へたり込むものもいる。

 地の底からわき上がるような恐怖。それは、この場にいる皆等しく感じているだろう。

 およそ、地震ほど非人間的な現象はない。

 地震の本態である、地下深くの岩盤の破壊現象を、地上にいるわれわれ人類は見ることが出来ない。地上に伝わる地震動や、地表に現れた断層運動を「地震」だと思っているのだ。

 プレート境界が連動して動く超巨大地震。内陸直下型の地震に、マントル内部で発生する深発地震、火山性の地震などは、それぞれ全く別の現象であるが、人間の感覚ではそれを了解しにくい。

 なんの前触れもなく気まぐれに襲って、すべてを破壊していく現象。そう思われている。

 このような自然の振る舞いが、無関係な事象にも因果関係――「物語」を求めずにはいられない人間の心に疑心暗鬼を生むのは、ある意味当然なのかもしれない……。


 職員が帰ってきたときは、ネットなどで情報を収集して、全体の被害状況がわかってきたところだった。それは、想像を絶するものだった。

 駿河トラフで発生した地震と津波で、駿河湾沿岸の一帯は壊滅したが、続いて起こった遠州灘震源の地震。こちらのほうが規模がはるかに大きく、四国沖までの南海トラフが一気に動いたらしい。被害は中京圏や関西一帯に及んでいる。第一報レベルの状況だが――名古屋が酷いようだ。地震動による倒壊、火災と津波のダブルパンチだ。大阪も津波で浸水している上に、直下で誘発地震が発生してこちらで被害甚大らしい。被害の全容は分からないが、確実に数百万人以上の被災者が出ている。救援はこっちの方にかかりきりだ。

 これだけでかいと、最初の地震の救援中にやられた部隊もあるようだ。全国から自衛官や警官、消防士をかき集めて、被災地に向かわせている。在日米軍にも協力を要請している状態だが、救助の手が伸びるまでは、まだまだ時間がかかるようだ。

「……われわれだけで、やっていくしかないな」

 テレビをつけると、東京のスタジオは次々に入る生々しい映像を映し出している。テロップでは各所の被害が羅列され、麻痺した首都圏の交通情報を流し出す。伝えるべき情報が大量すぎて追いつかない。

 火に包まれる名古屋市中心部。水に浸かった大阪市街、至る所で寸断された新幹線、高速道路……ささやかな町のささやかな被害は、注目を惹かないに違いない。

 早期の増援も期待薄だ。マンパワーが圧倒的に足らない。

「ミカン」はネットに裏伊豆市の被害の状況をアップロードした。それにより、裏伊豆の惨状と窮状は世界の知るところになった。

 津波で市街地は壊滅し、山側を通る道路も寸断され、孤立状態であること。公的な救助機関は他の被災地で手一杯で、後回しになっていること。市民の大半は家を失い、避難所でわずかな物資を頼りに命をつないでいると言うこと。

 市長と市議会が全滅、職員も大半が被災し、頼りになるのは行政AI「ミカン」だけであるということ。しかし、スパコンが被災し予定通りのパフォーマンスが出せないこと……。

 世界中から、か細くも、たしかな救いの手はいくつもさしのべられた。

 東電工の本社だけでなく、東京にある工業大学のスパコンでもバックアップは稼働する。さらに、試験段階に入っていた分散コンピューティングシステムを稼働させることにした。

 コンピュータにデータを割り振って、被災地から収集されたさまざまなデータを解析する。

 セキュリティ上の問題は発生するが、背に腹はかえられない。「善意」を信じるしかない。

 しかし、人間のすべてが善意に満ちているわけではない。他ならぬ当事者も、例外ではなかったのだ……。


「大変だよ!」

 土井の元に、中年の男が血相を変えて詰め寄ってきた。

「潰れた家に見慣れない人がいるんだ。泥棒かもしれない」

「そんな情報は入ってませんが」

「なにのんきなこと言ってるんだよ! こちとら命がかかってるんだ!」

 命がかかっているのは、あんただけじゃない。

 こちらはべらぼうな量のタスクを、乏しいリソースで振り分けなければいけないんだ。余計な仕事を増やさないでくれ。

「……すみません。対処します」

 避難所でも、とんでもない流言飛語が飛び交っているようだ。

「外国の言葉を喋ってるやつらが、何人か連れだって集落に向かっていた。あれはきっと、潰れた家から金目のものを持ち出そうとしているに違いない」

「女子供が襲われるぞ」

「家を流された被災者が、親切そうに声を掛けてくれる男に連れ去られた」

「東京にいる人身売買マフィアが、地震をきっかけにこっちにやってきて、女子供をさらって外国に売り飛ばそうとしているんだ」

 噂は伝言ゲームのように歪曲され、荒唐無稽な流言飛語になっていった。流言飛語は心の中の恐怖や固定観念を餌に、どんどん肥え太っていく。その伝播の速度は異常に速い。

 もっとたちの悪いことに、被害のなかった場所にいて「ブラックジョーク」として差別的な流言飛語をネットで拡散する手合いも出てきたのだ。平時には看過する余裕もあっただろうが、現在はそんな余裕はない。

 いろいろな情報が口コミや、断続的に繋がるネットなどを通して、断片的に入ってくる。寄る辺のない状況でそれがさらに増幅される。真偽定かでない情報が飛び交い、雪だるまのように肥大化していく。避難民にも伝染し、焦りの表情が見える。

 住民の数人が、仮庁舎にどやどやと入ってきた。そして職員のひとりに詰め寄った。

「外人をかくまっているのは知ってるんだ!」

 外国人とは、避難所に身を寄せた温泉旅館の宿泊客で、日本語以外での対応が可能になる別の避難所に移ったのだ。

「はやくあいつらを追い出せよ」

「出来ません。同じ被災者ですから」

「……同じゃないって」

「おれたちを優先しろよ」

「順番です。ご理解ください」

 頭を下げた。

 土井は外国から来た観光客の一団を見つけると、声をかけた。状況を簡単に説明して、異国で不安な思いをしているかれらの気持ちを和らげようとした。

「あなた、中国語が出来るんだったな」

「多少は」

 シンガポールに留学していた関係で、中国語には支障がない。それに最近は、人工知能関係の国際学会ではどこの国に行っても、飛び交う言葉は英語よりも中国語のほうが多いのだ。

 ロボット、人工知能など、情報処理技術の開発がいちばん進んでいるのは、今や、海の彼方にある大陸国家である。しかしなぜかこの国のひとびとは、自分たちこそロボット、人工知能の世界最先端と信じて疑わないのだ。

 それは、ロボットが主人公になるマンガやアニメが盛んだったという原体験に基づいている。確かにそれは黎明期に一日の長を得るのに貢献したが、すでにキャッチアップされ、アドバンテージはない。この分野でも過去の「成功体験」に囚われるという、この国の悪癖が出たのだ。

「おい、あんた」

 土井に声をかけた。

「日本語を話せよ」

「こちらの方々は、観光客ですので……」

「嘘だろう」

「……」

「とにかく、この場は落ち着いてください」


 悪いことに、「被災地泥棒」は実際に出没したのだ。

 家が半壊して避難した住民が荷物を取りに行くと、知らない男が家の中に入っていて、誰何したら無言で立ち去ったという。

 かろうじて機能していた防犯カメラに映っていた画像から、近所に住んでいた窃盗の前科のある男であると推定され、逮捕された。

 そんな情報が口コミで被災者のあいだを飛び交う。そのうちにどんどん変形していく。

「なんであいつら、捕まえないんだよ」

 自分たちには理解できない言葉を喋る集団に対する警戒心が、剥き出しになる。

「おい、外国人を被災地に入れるな!」

「やめろよ。あのひとたちは国際緊急援助隊だよ」

「そんなの、当てになるかよ。服だけ着た偽物だよ」

 非常時にはレイシズムが堂々と復活する。極限状態で、剥き出しの偏見が闊歩するのだ。

「どうせそんなことを言ってるのは、ネットでヘイトスピーチに麻痺した世代だろうな……」

 土井は小さく吐き捨てた。


 避難所の正面に、ハイブリッドのRVが乱暴にやってきた。

 ドアが開いて、数人の男たちが降りてくる。

 ヘルメットをかぶって、手には木刀や鉄パイプを携えている。

 ボランティアにしては、剣呑な雰囲気だ。

「どちらからいらっしゃいました?」

「あっちのものだ」

 少し離れた、海に面していない市の名前を挙げた。

「この街が孤立していると聞いてね。少しだけど食料を持ってきた」

「ありがとうございます。あそこが受付です」

 礼を言ったとき、ふと後部座席に視線を移すと、剥き出しの猟銃が置かれているのが見えた。

「あれはなんですか」

「有害鳥獣駆除に使うんだよ。地震で、熊や猪が里に下りてきてる」

 見え透いた言い訳をする。

「いずれにせよ、銃刀法違反だ。すぐに分解して、トランクにしまいなさい」

「そんなものにかかずらっている余裕はない。非常事態なんだ」

「非常事態?」

「火事場泥棒が出ているそうじゃないか。もっとたちの悪いやつらも徘徊してるって、聞いたぞ」

「そういうのは、警察に任せてください」

 あからさまに不機嫌な表情になった。

「どこにいるんだよ、警官が。みんな津波に呑まれちまったんじゃないか。放っておくと、えらいことになるぞ」

 ふたたびバンに乗り込み、去って行った。

「おい!」

 声をかけたが、反応は返ってこなかった。

 放っておくとえらいことになるのは、あんたらの方じゃないのか……。

 構っている暇はなかったのだが、嫌な予感は引っかかり続けた。

 その予感は当たってしまった。

「自警団」が押しかけてきた。

「そいつを切れ」

 土井は否定する。

「ダメです。今や裏伊豆の生命線です」

「外国からハッキングされているに違いない」

「そんなことはないですよ」

 繋いでいるのは専用線だ。

「分かるもんか。バックドアが仕込まれてるんだよ」

 バックドアなんて言葉をよく知っていたな。まあ、どこかで聞きかじったものだろうけど。

「緊急事態なんだ」

「緊急事態にこと寄せて、かねてからの計画を実行しようとしたんじゃないか。南海トラフ巨大地震は、以前から警告されていた。つまり、お前はスパイだ」

「……!」

 いったん思い込んだら、それを覆すのは困難だ。

 誰かが叫んだ。

「この、人でなしがぁ!」

「長岡さん……!」

 その叫び声は長岡のものだった。自警団の中には、他にも見知った顔が何人もいる。いままで見たこともない形相だ。

「みんな、落ち着いてくれ」

「どけよ」

 軽く突き飛ばした。

「土井さん、邪魔立てするとあんたでも承知しないよ」

 恐ろしいほどドスの利いた声で脅される。

 土井は男に乱暴に引き剥がされた。

「やめるんだ」

 立ち上がって、押しとどめようとする土井の腹に蹴りが入った。

膝をついてくずおれる。頭部へ一撃。

 男たちは口々に罵声を浴びせる。

「この売国奴が!」

「ちぇすとぉーっ!」

 頭部を角材で一撃される。

 倒れたところを、鉄板の入った安全靴で蹴りつけられる。頭や胸、腹。何本もの足が容赦なく土井の肉体を嬲る。

 骨が砕け、組織が破壊される音が耳の奥で響いた。苦痛に応じて過剰に分泌された脳内麻薬が、脳を麻痺させる。今の土井には、現実は関係ない。

 朦朧とする意識の中で、土井は思考し続ける。

――「政治の本質とはなにか。それは『あいつは敵だ。敵を殺せ』ということだ」と、ある作家が書いていた。

 政治とは権力であり、それを手中にするための闘争だ。自らの力を敵のそれより上回らせるために、暴力で頭数を物理的に減らすか、票でバーチャルに減らすか、の違いでしかない。

 しかし、人工知能が行政に携わり、人間が「政治」から解放されるなら、その名の下に人が人を殺すこともなくなるはずだ。

 人類史上数十億の命を奪ってきた「政治」という悪夢から、われわれは目覚めるのだ。

 政治に伴う暴力も奸計も忖度も過去のものになる。万人の万人に対する闘争は、人工知能というリヴァイアサンによって、ついに終結する。

 人工知能に権力欲がないとするなら、「戦争のない世界」。歴史のなかでわれわれが希求してやまなかった世界が、現実のものになるのか。

 ならば人類はついに、血塗られた歴史にピリオドを打ち、次の階梯に上がるのだ。憎しみも争いも知らない、無垢(イノセント)な新世界へ……。

 土井の頭脳は思考を続けたが、肉体としての土井はもはや、びくびくと痙攣するだけの肉の塊になった。

「せめてもの慈悲だ、楽にしてやろう」

 長岡が日本刀を構える。次の瞬間、白刃が土井の頸部に向かって振り下ろされた。胴体と離断された頭部が、どの時点まで思考を続けられたかは定かではない。


 全身を乱打された、首なしの肉塊になった土井が転がるところに、迷彩服の一団がやってきた。

 自衛隊だ。ようやくここまで救助の手が回るようになったのだ。

「……!」

 長岡はさきほど土井の首を切断した白刃を地に放った。

 自警団の皆は、携えていた棍棒や猟銃を手放した。隊員に向き直り、背筋を伸ばして敬礼した。

「お疲れ様でした!」

 そしておとなしく武装解除された。

 まつろわない「個人」には攻撃的でも、国家権力や、その組織の構成員には従順なのが、この種の人物の特徴だ。

 さらなる虐殺は防止できた。

 裏伊豆市には自衛隊と米軍が展開した。治安は回復し、避難所に物資が配給された。一時「無政府状態」だった裏伊豆は、急速に安定していった。


 裏伊豆市の行政システム「ミカン」は、余震の発生および大規模余震の可能性が減少したこと、行政の整備が整ったのを確認して、緊急時特例として担っていた、行政についての全権委任状態を解除する提案を行った。

 憲法に、国家の「緊急事態」において権限を内閣に委任し、国民の権利を制限できる条項を付け加えるかどうか、議論になったことがある。

 この際問題になったのは、「緊急事態」がなにかと言うより、それを解除する条件だ。緊急事態は、解除する方が難しいのだ。

 地下鉄車内に毒ガスを撒いた事件が発生したとき、地下鉄以外の駅構内からもすべてのゴミ箱や空き缶入れが撤去された。犯人一味が逮捕されても、何年も元に戻らなかった。

 事件を起こしたテロリストが国外逃亡した場合、緊急事態は去ったと言えるのか。大地震の余震の危険性がある場合はどうなるのか。継続する理由はおよそ無限に思いつくが、解除するには思い切った「決断」が必要だ。

 つまり、権力を持っている側が「今は緊急事態」と言い張れば、いつまでも「平常時」に復帰することは出来ないのだ。結果として、「独裁」がいつまでも続くことになってしまう危険性が排除できない。

 しかし権力欲のない人工知能は、条件が整いさえすれば、粛々と自らの権限を縮小する状態に復帰する。

 人工知能の提案を再招集された議会は承認し、市は「平時」に戻った。


 駿河湾で発生したマグニチュード七、九の地震、そしてその三時間後に遠州灘で発生したマグニチュード八、八の地震。

 のちに「東海道大震災」と名付けられた二一世紀の南海トラフ巨大地震は、関東、東海から四国、九州に至る地域に甚大な被害をもたらした。

 その中でも裏伊豆市は最初の地震の震源近くに位置し、市庁舎と市議会が倒壊して津波で流失、行政機能が一時喪失するという大被害を出した。しかし、試験的に整備されていた統合行政システム「ミカン」が活用され、適切な指示でそれ以外の市民の被害は比較的軽微にとどまり、災害後の混乱も――ある悲劇的な事象を除いて――いち早く沈静化した。それは「裏伊豆の悲劇」あるいは「裏伊豆の奇跡」と呼ばれ、「ミカン」の有用性を広く知らしめることになった。

 そして、津波で流された市庁舎の跡地には、記念碑が建てられた。

 震災によって非業の死を遂げた裏伊豆市民の。審議中に地震で倒壊した議事堂に閉じ込まれ、津波で全滅した市長と市議たち。そして「ミカン」の導入に尽力し、殉職した2名をひとびとの記憶に留めるための。

 人間は忘れるが、機械は忘れない。忘れることが出来ない。

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