第3話

 それから三ヶ月を経て。

「ミカン」は順調に稼働していた。

 土井は本格稼働後も、トラブル対応のために役所に詰めていたが、その仕事は今のところない。手空きのときはデータ収集や後回しになっていた事務仕事をしていた。

 点けっぱなしだったケーブルテレビでは、国会の中継放送が行われていた。

 集中審議の中で、首相への問責決議案が提出され、採決の真っ最中だ。ハイテクは今や社会の隅々まで浸透しているが、社会のそもそもの舵取りは、結局旧態依然とした審議と投票で行わざるを得ない。

 国政も混乱していた。与野党は伯仲し、重要法案の審議は停滞が続いた。かと言えば批判の多い法案が与野党の裏取引で通ったりもする。

 野党議員は投票へ向かうときに札をわざとらしく落としたり、足踏みをしたり、終いには座り込んだりしている。国会名物の牛歩戦術だ。

 かつてトーマス・エジソンが押しボタン式の投票機を発明し、議会に売り込んだとき、「牛歩戦術が出来なくなる」と断ったという伝説が残っている。

 非効率に見えても、それは文化と叡智の反映なのか。だが、液晶画面に映っている光景は、愕然とするような醜悪さだ。

 ネットで流れる外信ニュースは、翌年に開催される予定だったオリンピックの中止を報せていた。

 会場整備に経費がかかりすぎたことと招致運動で不正が発覚したため、次期大会の開催地が返上を決定し、代替地に立候補するところもなかったからだった。

 十九世紀末に始まり、二十世紀を通して二十一世紀まで引き継がれた近代オリンピックの歴史が、ここに途切れることになる。

 ごおおおおお……

 遠くから、地鳴りのような音が聞こえた。

「なんだ」

 そのとき、揺れを感じた。突き上げるようだ。

 ポケットの情報端末から独特の警報音が発せられる。緊急地震速報が発報された。しかし、揺れのほうが速いとは、震源は裏伊豆のほぼ直下に違いない。

 縦揺れに横揺れが加わった。土井はあわてて机の下に潜るが、前後左右に激しく揺すられる。まるで、シェーカーの中の氷だ。

 灯りが消えた。

 バリバリバリとガラスの割れる音。机の上からはドカン、ドカンと落下物が当たる音が間断なく響く。それに建物がきしむ音が加わる。耳に飛び込む破壊音のアンサンブルに生きた心地がしない。

「建物ごと潰れたりしないか」

「耐震補強は、してあるはずだ」

 怒鳴り合うように会話を交わしても、建物がきしむミシミシという音が、騒音の中でひときわ大きく耳に飛び込んでくる。

 今にもこの建物が崩れ、床ごと地上に叩きつけられ、壁や天井が瓦礫となって降り注ぎ、下敷きになってしまうというイメージが、土井の頭から離れない。

 揺れは恐ろしく長かった。

「収まったようだな」

 おそるおそる這い出し、室内を見渡す。

 めちゃくちゃだ。壁の書類棚はすべて倒れ、棚のものが飛び散り、足の踏み場もない。窓ガラスはすべて割れ、廊下は天井のパネルがあちこちに落ちている。

 しかし、建物そのものは、持ちこたえたようだ。

「速報が入りました。裏伊豆市の最大震度は、7と推定されます」

「なに!」

「震源は駿河湾中央部、震源の深さは一〇キロ。マグニチュードの暫定値は七.八」

「駿河トラフ……東海地震か!」

 松崎は叫んだ。

 推定された震源域はかつて想定された「東海地震」のそれとほぼ一致している。

 南海トラフの東端であるこの地域は、直近の東南海、南海地震でもひずみが解放されていないと思われ、大地震が差し迫っていると指摘された。前兆現象の精密な観測による「予知」が期待され、観測網が整備された。やがて南海トラフの他の地域と連動する可能性が指摘され、より大きな被害をもたらすそちらの対策に重心が移っていった。

 紀伊半島や四国沖の南海トラフまで連動する超巨大地震ではないにせよ、この地震で遠州灘や愛知県沖までの南海トラフが動いている可能性がある。まもなく沿岸には大津波が押し寄せるだろう。

 外に出ると、建物の中と同じようだった。

 町並みを見渡しても、まともな家は一軒もなかった。この家は潰れて屋根だけになっている。あのビルは手前に傾いている。角に建っていたマンションは、ひしゃげて原形を留めていない。

 町はその様相を変えてしまった。

「駿河湾沿岸に大津波警報が発令されました! みなさんにお伝えします! 今すぐ海岸から離れて、高台へ避難してください!」

 緊迫した声が響く。

 この震源地の近さでは、津波はほぼ即時に到達するに違いない。

 それに、余震ではない、もっと大きい「本震」が来る可能性がある。

 それは杞憂ではなかった。南海トラフを震源とする巨大地震には、はっきりとした傾向がある。

 幕末に発生した安政東海地震は、その三二時間後、紀伊半島沖を震源とする安政南海地震が発生している。また、直近の南海トラフ地震は太平洋戦争中の一九四四年には紀伊半島の東側沖を震源とする昭和の東南海地震が発生し、終戦をまたいだ一九四六年に、今度は紀伊半島の西側沖で南海地震が発生している。

 南海トラフの東側で巨大地震が発生すると、しばらくあとに、西側が揺れる可能性が高いのだ。

 その場合、さらに高い津波が襲来する可能性がある。

「避難を!」

「大津波が来ます! 直ちに高台へ避難してください!」

 防災放送はさらに切迫度を増して呼びかけつづける。

 高台に作られた避難所や、逃げられなかったものは高層建築の上階、または海沿いの「津波タワー」に駆け込んでいる。


 モニターにカメラの画像が映った。高台の公園から町を見下ろしたものだ。

「ああっ!」

 眼下の港を指さした。

「潮が異常に引いている。海底が露出している」

 港は茶色い土が露出していた

「大津波が来るぞ!」

「みんな逃げろ!」

 裏山に向かって一目散に走った。

 振り返ると、漁港の沖合にある防波堤が、完全に水没している。

 石段を登っているとき、津波が防潮堤を越えて、町に侵入していった。

 盛り上がった海は、ついに防潮堤を越えた。

「ああ……」

 黒い大波の先端が、漁港の施設や魚市場を押し流していく。

 真っ黒な濁流が市街地に流れ込み、自動車や住宅の屋根を巻き込みながら、内陸へと押し寄せていった。

 バリバリバリとすさまじい音が響き渡る。

 木造の家屋はひとたまりもなく破壊され、屋根だけが波の勢いで流されていった。破壊に伴って埃が舞い上がり、あたりがかすんで見える。

 事前に算出された南海トラフ地震の被害想定では、港に押し寄せる津波は五メートルから六メートルと推測された。想定される最悪のものよりも低かったが、それでも市街地がすべて水没してしまうほどの高さだった。

 地元の放送局が今回の地震の速報を流している。東京は震度五強。被害が大きいのは、神奈川県の相模川より西側と静岡県の東半分と推測された。

 津波は駿河湾沿岸でとくに高く、静岡市や焼津市、富士市、沼津市などに甚大な被害が出ている可能性がある。いや、裏伊豆がこの有様なら、沿岸一帯は大津波で壊滅しているだろう。

「東北の震災のときは先代の市長で、国の指示でいろいろ整備はしたはずですが……滞っているところが結構あるようなんです。それどころじゃありませんでしたからね」

 ふと、気にとまったことを口に出してみた。

「浜岡は?」

「とりあえず、被害が出たという情報は入っていないよ」

 対策は取られているとされていた。

「それは一安心だな」

 駿河湾の向こうにある原子力発電所は、停止され、現在では廃炉作業が進められている。

 市庁舎のある一角が見えてきたとき、ふたりは絶句した。

「……大変だ!」

「市庁舎が!」

「ああ、潰れてる!」

 市長や市議が議事を行っている市議会議事堂が、倒壊していたのだ。

 あったはずの一階が、ない。先ほどの激しい縦揺れで、重ねたパンケーキのように潰れてしまった。

 しかも、瓦礫と化した一階の隙間からは幾筋も煙が上がっているのだ。

「助けなきゃ……」

 しかし、どうにもならない。

 合併前から使われていた市庁舎や議事堂は築年数が経ち、老朽化や自然災害にたいする対策の不備が指摘されていたのだが、スタンドプレー好きの先代や「とにかく緊縮」の現市長のもとではなおざりにされ続け、後回しにされていたのだ。

 そのとき、また足下に振動を感じた。P波の縦揺れだ。

 余震か。いや、しばらくすると大地は大きく横に揺れ始めた。

恐れていたものがやってきた。

「さっきより大きい……!」

 あちらこちらに土埃が立っている。地面がひび割れ、それが怪物の顎のように揺れに合わせて開閉するのだ。

立っていられないほどの横揺れは長く、長く続いた。それが終わったとき、松崎が議事堂に向かって、駆けていった。

「津波が来る。みんなを、助けに行かないと」

「松崎さん

 また海が干上がっていく。

誰かが言った。

「また、津波が来るぞ!」

さっきよりも大規模だ。港は完全に干上がった。

 あれ以上の大津波が来るのか?

松崎は瓦礫の中に入っていった。そのとき、4WD車がやってきた。運転席には、近所の親父がいた。古い手動運転のガソリン車を趣味で持っていたらしい。

「逃げるからあんたらも乗ってくれ」

「乗ってください!」

「松崎さん、逃げろ!」

「あんたは先に行ってくれ。おれは、ひとりでも助ける」

「おい!」

 4WD車は土井だけを乗せて発車し、高台へ向かった。

 ほどなくして水平線の向こうが盛り上がってきた。津波の第二波がやってくる。

 港内で渦を巻き、第一波をしのいだ漁船が巻き込まれていく。いったんは下がっていた市街地の水位はみるみるうちに上がり、倒壊した市庁舎の残骸に迫ってくる。

 瓦礫をどかすと、背広の男の背中が見えた。

「頑張れ!」

腕を取って、強引に引っ張り出す。下半身に乗っていた瓦礫が緩んで、するっと身体が外に出た。

「松崎、ありがとう」

 救出された同僚が手を握った。しかしそのとき、津波の舌先が庁舎の残骸を舐めはじめた。

 松崎たちは屋根の上に登った。

 ほかにも何人かが登ることに成功したが、もう屋根ギリギリまで水位は上がっているのだ。

「逃げられないよ」

 漂流している瓦礫はぶつかり合い、流れているすべてのものを破壊していく。

「もうダメだ……」

 あっという間に屋上まで浸かってしまった。何人かが這い上がって助けを求めているが、この状況ではどうにもならない。

 やがて屋上も、黒い水に隠された。

 水の流れは止まり、逆方向に動き出した。引き波がすべてを沖に持っていこうとしている。

 屋上が建物から外れ、沖に向かってゆっくり沈みながら流れ始めた。

 石油とドブと腐った魚の合わさったようなすさまじい異臭。海底に沈殿していたヘドロが掻き回され、漏れた油や瓦礫のかけらが混ざった黒い海水が迫ってくる。

 浮かんでいる瓦礫は、あちこち炎を上げている。

 松崎は覚悟を決めた。

 自分は、公僕なのだ。市民を守るためにこの命を投げ出すことになるならば、本懐なのではないか……。


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