悪役令嬢に私の体をのっとってほしいと召喚されてしまったけれど、普通の人間なのでもちろんできない。(短編)

雨傘ヒョウゴ

悪役令嬢に私の体をのっとってほしいと召喚されてしまったけれど、普通の人間なのでもちろんできない。

 

 ふらふらの足取りで、毎日を生きてきた。真っ暗闇の帰り道はいつものことで、肩にかける鞄がとにかく重い。


(今日は、帰ることができて……よか、った)


 足を引きずりながら夜空を見上げて、ため息が出た。家に帰っても誰もいない。せめておかえりなさいの言葉があればいいのに、と思っても天涯孤独の身の上では過ぎた望みだ。それじゃあせめて人間以外の何かでも、たとえばペットとかとも考えたけれど、私に万一のことがあったときを考えると、中々踏み出すこともできずにいる。そんな余裕もないということもあるけれど。


 今も鞄の中にはずっしりと本日の業務の残りが詰まっている。ここ数日、会社に泊まりがけだったのだ。せめて家に帰らねばと大量のファイルをしまい込んだという悲しさである。顧客情報が詰め込まれたこのファイル、本来なら持ち出しなんて禁止だし、持ち帰るのならば上司に報告、さらにその上のお偉方に確認と、承認のための大量の印鑑が必要であるはずなのに、私の記憶では口頭で確認したのみで止まっている。


 一応、勝手に持ち帰るのはよくない、けれども帰りたいと葛藤し、印鑑を片手に上司に報告したところ、『いやいいよ、別に。逆に持ち帰って、家でもちゃんと仕事して』との一言だった。つまりはブラックである。帰っても仕事である。ホワイトな牛乳を見習え。


(転職……)


 ふと考えることはあるけれど、日々の擦り切れるような思考の中で、勝手に消えていってしまう。新しいことをする余裕がないのだ。だから毎日会社に向かうしかない。



(小説、読みたい)


 けれどそんな生活の中にも癒やしがほしい、と暇さえあれば小説を読んだ。中でもネット小説は手軽だし、移動時間にさくさく読めるのも大きな強みだ。今日も読めるだろうか、いや多分無理。せめてスマホに防水カバーをしてお風呂の中で、なんてしたら死んじゃうので問題外。


「死んじゃったら異世界転生しちゃうよ」


 はは、と目の下に不健康なクマを大量に作りながら笑ってしまった。そのときだ。パッパー、パッパー!! 激しいクラクションが鳴り響いた。


 私は信号を渡っていた。大きなトラックがこちらに突撃している。ぎらぎらと光るヘッドライトに照らされて、ぱかっと私は大きな口を開いた。トラックのクラクションと、私の悲鳴と周囲の悲鳴が合わさる。いやうそじゃん。



 人生に疲れたOL、天涯孤独で、ブラック企業勤めの帰宅途中のトラック事故。


 こんなのって。

 こんなのって。







「トラック転生しちゃうじゃぁあん!!!」


 私は勢いよく地面を殴りつけた。しかし地面はふかっとしていて、そもそも地面ではなくカーペットである。ふかふかですばらしい、としばらくぼんやりしてさわり心地を確かめていたとき、いやなんで私、座り込んでいるの? と考えた。さっきまでトラックが眼前に迫り込んでいたはずなのだけれど、驚きすぎてへたりこんでしまったのだろうか。そんなわけない、ここにはトラックもなく信号もなく、間違いなくただの室内である。


 ここはどこ? と周囲を見回そうとしたとき、「ほ、ほんとに、召喚された……」 可愛らしい女の子の声が聞こえた。


 見上げると、なんとも素敵なドレスを着た可愛らしいお嬢さんがいらっしゃった。ふるふるしていて、クリーム色の髪はふわふわと柔らかそうで、目の色は真っ青な、着ている服も相まって、まるでフランス人形である。歳は高校生一年生くらいだろうか。中学を卒業したくらいの、ぴかぴかな輝きがある若さを感じ取った。いや私だって高校を卒業してすぐに働き出したから、まだ二十歳の前半なんだけど。


「召喚?」


 聞き間違いだろうか。フランス人形が、何か不思議な言葉を言った。女の子は大きな太い本を持っていて、じっと涙目で私を見下ろしている。


「……召喚?」


 言葉を咀嚼して、二度目をつぶやき、そして再度あたりを見回す。アンティークなお部屋だ。繊細な猫脚の家具や、天井にはきらきらとお花のようなランプが吊り下げられ、カーテンすらも可愛らしい。しかしおかしなものがある。私を中心として設置された五芒星は、絨毯に何らかの方法を用いて、しっかりがっつり書き込まれていた。そして端っこにはロウソクをたてられ、今もとろとろと火がゆれている。さらに五芒星の中にも奇妙な文字がぎちぎちに書かれている。


「ひ、ひいっ!」


 普通に怖い。思わずお尻を絨毯につけたまま背後に逃げようとしても、どこもかしこも大量のおどろおどろしい文字である。逃げ場がない。そんな中、フランス人形は立派な革の装丁らしき本をだきしめながら、ぽろぽろと涙をこぼした。


「ど、どど、どうしたの!?」

「う、うぐっ……ふ、うえ……」


 謎の紋様、可愛らしいフランス人形の滂沱。もう私は何をどうしたらいいかもわからないまま、困惑の渦の中である。とりあえずといかけてみると、フランス人形はびくりと肩を揺らした。そしてまるでおそろしいものを見るかのように私を見た。いや怖いのはこっちだ、なんてことは空気を読まずに静かにしておく。彼女は細い指先でゆっくりと涙をぬぐいながら、何かの覚悟を決めらしい。あいかわらず眉毛は八の字だったけれど、口元をきりっと引き結んだ。なんだなんだ。


「悪魔さん、どうか、私の体を、のっとってください……!!」

「えっ、無理ですけど」


 思わず迷うことなく否定してしまうと、フランス人形はぱちぱち、と瞬きを繰り返した。想像と違う言葉の前に、思わず涙も引っ込んだように見えるけれど、そもそも今、私のこと悪魔って言いました?



  ***



 前提として、「私は人間です」という説明から入ることになったのだけれど、人類である以上こんな説明をすることになろうとはかつて思わず。「え、ええ!!?」と驚くフランス人形を前にして自分の体を確認してしまった。えっ、私人間だよね?


 私の不安をよそにして、とりあえずは互いに現状を確認することにした。彼女の名前はフローラ。フローラ・ロレンスと言う名前らしく、伯爵家のご長女であらせられる。年齢は想像の通り、十五歳だった。いやでも伯爵家って。


「私の名前は、松下、あかり。二十三歳」

「それは悪魔年齢で、ということでしょうか。私の年齢に換算すると二百三十歳程度とご想像しても問題ございませんか……?」

「問題しかございません」


 否定すると、フローラはそのときやっと嬉しげに笑った。「お年が上の方には敬意を持って対応するようにと心がけておりますが、百を越える場合、どの程度の敬意を持てばいいのか想像すらできずに困っていました、よかったです」と彼女は革の本を大事に抱きしめたまま、ころりと笑う。いやだから私は悪魔ではないよ。


 と、いうことを、懇切丁寧に説明して、やっとフローラは私を悪魔ではなく、別の時空にいる人間だと認めてくれた。いや、私自身も未だに半信半疑だけれど、迫りくるトラックを前にして瞬間移動してしまった事実は消えない。でもまさかの異世界転生だ。あの瞬間、意識を昏倒させた私を誰かが死ぬ気で頑張って運んだという線の方が可能性としては高いのでは、と思いつつ、とりあえずここはフローラに話を合わせておこうと思った。


 フローラは小さな口元を必死で動かし、「異世界の方は、悪魔ではない……」と呟いてとにかく眉毛を八の字にしていた。見る人が見れば、ぎゅっと抱きしめたくなる光景だろう。私はどちらかと言えば背が高い方なので、羨ましいを通り越して抱きしめる側に回りたくなる心情である。


 部屋の五芒星は怖すぎるので二人で掃除をして綺麗にした部屋の中では頭の上でふらふらとお花のシャンデリアが揺れている。


 そもそもなぜフローラが『私の体をのっとって』と言ったのか。話の焦点はそこである。フローラはひっこんでいた涙をまたぽろりと流そうとして、必死に押し留めたようだった。そして、ゆっくりと教えてくれた。はっきりとした言葉では言われなかったものの、現状を把握し理解したところ、彼女はいじめられているらしい。


 フローラは貴族学校に通っている。そしてこの国はどうやら剣と魔法のファンタジー世界であるようだった。彼女の趣味はただの読書で、伯爵家でありながらも魔法をほとんど使うことのできない落ちこぼれ。学校では陰で同級生達に嘲笑される日々だがそれでもなんとか耐えてきたものの、最近は男爵家のご令嬢であるマーガレットをフローラがいじめたとしておかしな噂までもが流れ始めた。


 もちろんフローラにとってはなんの事実も覚えのないことのはずなのに、した覚えのない罪はちくちくと針のようにフローラを痛めつけた。その上、マーガレットはフローラの婚約者である第二王子と急接近している様子で、婚約の破棄は秒読みであるとフローラは感じていた。


「いやそれどこの悪役令嬢?」

「あくやく? そう、私は知らないうちに悪役になっていたの……」


 思わず呟いてしまった言葉を、フローラは親切に理解して、肯定してくれた。なにか申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。異世界に悪役令嬢などという言葉があるわけない。

 と、いうことまで私が彼女からの説明で理解したところで、フローラは喉から嗚咽をこぼした。肩身が狭い思いを感じている、という説明以上に、王子とマーガレットの仲を呟いたとき、フローラはとにかく痛い尖った何かを飲み込んだかのように震えて、必死に小さな唇を噛んでいた。


 その様子を見て、何かを感じ取れない私ではない。つまり、彼女はこの小さな体で、第二王子に――恋をしている。

 幼い頃からの仲で、ただの政略結婚であるはずなのに、好きな男の子を純粋に慕っているのだ。


「……つまり、悪魔を召喚して、体を乗っ取らせて、マーガレットさんをボコボコにしたい、ということ?」


 そこまで説明したとき、すっと自分の口調が冷えていくのを感じた。召喚されたことは別にもういい。未だに混乱する気持ちはあるけれど、フローラは私がトラックにひかれて死にそうだったところを助けてくれた恩人とも言える。


 けれども復讐のため自分の手を汚さず、他人の力を借りるというのは、少なくとも私自身が甘受できるものではなかった。それを否定することはないけれど、復讐を任される側と扱われるのならたまったものではない。……あとは、個人的に私の好みではない、という話だ。


 鋭い視線を投げかけてしかったのかもしれない。フローラは、震え上がった。そして、すぐさま首を振った。


「違います! それに私、マーガレットさんを恨んでいるわけじゃないもの! 殿下が彼女に恋をしたというのなら、それは仕方のない話で、私が何でマーガレットさんをいじめたことになっているのかもわからないし。た、ただ私は……」

「う、うん」

「殿下に、直接、婚約の破棄を告げられることが、怖くて……」


 政略結婚とわかっている。けれども、好きな人から、お前よりも彼女を選ぶ、と言われることがなにより辛い、そういうことだろう。


 先程まで震えていたはずの彼女が、強い声で否定をする姿を見て、少しばかり後悔した。


「ご、ごめんなさい。こういうのって、お約束だから、思わず」

「お約束……?」

「違うの、私、変なことを言ってるよね、お約束なんて、現実には、ない……」


 ネットで悪役令嬢小説を読み漁っている私である。うがった見方をしすぎてしまったように思う。だいたいこういうのは男爵令嬢が悪役令嬢を陥れようとする策略なのだ。聞いてみたところ、そのマーガレットという男爵家令嬢が中心になって、フローラのよくない噂を流しているように感じるけれど、実際にそうなのかは話を聞いてふんふん頷いているだけの私にわかるわけがない。


「とにかく、フローラは婚約破棄を第二王子から告げられることが怖くて、私を呼んだのね? それで、私に体をのっとってもらって……いやそれどういうこと?」

「……本当は、この世から消えてしまおうと思ったの。でも、そんなことをするのは怖いし、両親も悲しませてしまうし」


 つまり彼女は悪魔に魂をうって、そのまま消えてしまう予定だったということだ。なんという。「お、追い詰められているね!?」 ほとんど自殺行為のようなものである。どこにこんな小さな体にそんな勇気があるというのか。


「そもそも、私が王子の婚約者だなんて、身に余りすぎる話なの……。私はただの伯爵家だし、それほど有力な貴族筋でもないし、いつもうじうじしているし、貴族の中で、うまく、立ち回ることもできないし!」


 積もり積もった感情があるのだろう。語尾がどんどん強くなる。涙だって溢れている。

 うんうんと私は静かに頷く。彼女は生まれ持っての貴族だから私と同じように考えるのは間違っているかもしれないけれど、ちょっとくらいなら気持ちはわかる。貴族社会なんて、私だってどうしたらいいかわからない。十五の少女だ。たくさんの重たいものを背負っているに決まっている。


「趣味は読書と黒魔術なんて、こんな暗い女! リッジ様に似合わないわ!」

「いや最後」


 リッジ様が第二王子の名前ということは理解したけれど、そういうことではなく。

 フローラはきょとんとした顔をしているけれど、この世界ではご令嬢が黒魔術を使うのは一般的なのだろうか。そして私はもしかしなくとも黒魔術で呼ばれたのか。


 なるほど、だいたい話がのみこめてきた。

 ――つまり私は、悪役令嬢のっとりとして、この世界にやってきたわけだ。


 しかし悲しいかな。やって来たのは生身だった。なぜならトラック転生だから。


「テンプレを、混ぜるなァ……!!」


 何もかもが中途半端である。混ぜるな危険。いやトラック転生からの乗っ取りものもあるかもしれないけど、主流なのは生身のままこんにちは、もしくは生まれ変わったら前世の記憶があったヴァージョンである。むしろこれってトラック転生ではなくトラック転移? とスーツ姿で腕を組んでうなりつつ、テンプレがどうのと考えるべきじゃないとさっき思ったばっかりなのに、私ってやつはよお、とギリギリ歯ぎしりモードである。


「あ、あの、あかり様、ごめんなさい、私……」

「え? いいよいいよ。たしかにフローラさんが私をここに呼んだみたいだけど、むしろトラック転生しそうなところをトラック転移に押し留めた恩人というか。あのままトラックにぶち当たっていたら大変なことになっていた」

「え……」

「あと、様じゃなくてあかりでいいよ。私もフローラって呼んでいいかな」

「え、あの……はい、もちろん」


 フローラはくりくりした瞳をぱちぱちと瞬いた。それだけで可愛らしいから、よっこいしょと床に座り込んで、思わずふふりと笑ってしまった。フローラの手により、五芒星と気持ち悪すぎる文字が書かれた絨毯は端っこにまるめて置いている。


 フローラはじっと私と目を合わせた。それから、八の字眉毛をそのままに、困ったように笑った。


「……あかり、は。とっても優しいんですね」


 美少女に言われると照れてしまう。いや多分美少女じゃなくても面と向かってそんなことを言われるなんて久しぶりだから、とにかく照れた。


「鬼畜だと思っていましたが、全然、違います……」

「いやなんつった今」


 二十数年生きていて初めてすぎる何かを言われた。ちょっと待て、すでに何度目かのツッコミを繰り返したのかわからない。フローラは、「えっ」と小さく声を出して、「鬼畜では、ないのですか……!!?」 そんなこと初めて聞かれたわ。


「……なんでどうして、私が鬼畜だと……?」

「で、ですが、この本には、鬼畜の呼び出し方だと、たしかに……!!」


 フローラが随分大事に抱きしめていた本である。表紙を見ると、見たことのない文字だった。なのにするりと頭に入る。


『●畜の呼び方』


 まさかの伏せ字方式。


「まだ解読が進んでいないんです。けれどもわかる箇所のみを考えると、鬼畜のような悪魔が現れ、助けてくれる、といったような」

「……とても、多分の話なんだけど」

「はい」

「これは鬼畜ではなく」

「鬼畜ではなくて?」



 いや本当に多分なんだけど、と前置きをして、じっとその本を見つめた。


「社畜の呼び方なんじゃないの……」


 自分で言ってて、心底虚しくなってきた。


 ***


 社畜とは一体何か、というものを虚しくなる程度にフローラに説明し、賢い子なのだろう。知らない文化や世界に関わらず、彼女は正しく言葉の意味を理解してしまった。そしてハッとしたように本を見て、幾度も文字を指でさすっている。ところでその本、妙にデザインセンス悪くない? おどろおどろとしすぎているんですけども。


「あかり! おっしゃるとおりです! これは社畜の呼び方という題名に間違い有りません!」

「間違いであってほしかった」


 異世界にすら認められる社畜ってなによ。

 もう一度表紙を見ると、歯抜けで読めていたはずの題名なのに、しっかりと『社畜の呼び方』と読めてしまった。これはおかしい、と感じてフローラに問いかけると、どうやらこの本は古代文字で書かれていて、彼女も解読を進めている最中らしい。そして、彼女が読めている箇所と、私が読めている箇所が一致していることから、フローラの文字の知識を私が譲り受けているようだった。イッツイリュージョン。書けないけれども読めるというような、まるで難読漢字を見ているような気持ちだ。


 私とフローラの会話が成立しているのもそういう理由なのだろうか、と思いつつ、「ブラック企業、というものは大変でいらっしゃいますのね……」と心底同情したような表情で見られて、何か胸が辛くなってくる。「大丈夫、貴族社会だってとてもブラックだよ!」と、言い返している場合ではない。


「……何にせよ、フローラ。私はあなたが望むことはできないけれど」

「……はい」


 のっとったりとか、そういう悪魔的なことはどう考えても無理だけど。


「フローラを、応援することは、できる!」

「はい……!!」


 拳を握って突き出した。


「私も、逃げてしまおう、とずっと思っていましたが、なぜでしょう。あかりと話しているうちに、胸の内がすっきり致しました!」

「そりゃ、誰にも言えず苦しんでいたなら、そうなるよ。ガス抜きは必要だよ」


 彼女はプライベートだって仕事中のようなもので、誰にも弱音を吐くわけにはいかなかったのだろう。高校生くらいの子なのに、大変だと頷くしかない。


「わ、私も、あかりをもとの世界に戻すように、がんばります! 本の解読はまだ全て終わっていないので、最後まで解読してみせます! そうすればきっと方法が見つかるはずです!」

「わかった、まかせた!」

「それまで、ぜひともこの家でおくつろぎくださいな!」

「やったあ!」


 とりあえず飛び跳ねて喜んでみる。あっちとこっちの時間の流れがどうかはわからないが、万一無断欠勤のクビとなることがあれば、個人の感情とするならよろしくはないが、否応なくなら仕方ない。いっそのこと転職を前向きに検討し、この世界で英気を養ったらどうだろう。前向きに考えねば、と思っていたはずが、気づいたら体がでろでろに溶けてきた。今日の仕事をしなくてもいいと思うとハッピーすぎて踊りそう。


「ごめん、フローラ、ちょっと踊っていい?」

「えっ。あの、えっ、ど、どうぞ、あの、えっと、私もご一緒しますわ!」

「うおう、うおう、うおう!」

「い、いえいいえい、いえい!」


「お嬢様、先程から一体何を騒いでいらっしゃるのですか」


 開けられた扉からは、これまた可愛らしい女の子がいらっしゃった。互いにしゃかしゃかダンスを繰り返していたポーズで停止し、私よりも少し年下であろうひっつめ髪のメイドさんを無言で見つめた。私よりも早くフローラはするりと居住まいを正して、私は間抜けなポーズのまま残された。


「あっ、えっ、こほん。セシル、こちら、その、なんと説明していいのかしら」


 実のところ、現在の時間は深夜である。窓の外はとっぷり日が暮れている。しかし入り口すらも通らずいきなり部屋の中にいる私は不審者一直線であり、説明するにはあまりにも苦しく、フローラの気持ちはとてもよく理解ができた。


「なんというか、その、怪しい、方では……そう、ただの……社畜……?」


 間違いはない。


 悲しく涙を拭っている間に、セシルと呼ばれたメイドさんの不審な表情がどんどん深くなっていく。せめてダンスなんてしてなけりゃよかった、と喜び溢れる気持ちをごまかすことができない自分を嘆いた。そしてこんなことをしている場合ではないとも気づいた。


「セシルさん、驚かせてすみません、私、松下あかりと申します。あの、ええっと、その」

「お嬢様」


 まさかの全力スルーだったと目玉を飛び出し、握手のための右手を前に差し出したまま、あまりの切なさに唇をかみつつセシルさんの背中を視線で追った。


「せ、セシル、あのあのあの、あの」


 セシルさんは部屋の端っこに丸められた絨毯を見て、これまた重たいため息をついた。おそらくフローラの犯行を理解しているのだろう。


「……今日はもう他のメイド達は眠っておりますから、明日、片付けさせていただきます」

「は、はい……」


 口が堅い者たちで処理しなければ、と呟くセシルさんの苦労が垣間見える。


「フローラお嬢様。ダンスをなさるのは、ご健康にもよろしいことですが、こんな深夜にお一人でされるのではなく、ダンスの教師をお呼びいたしますので、日が昇ってからになさってください」


 それだけ言って、セシルさんは消えていった。私を残して。


「……一人で?」


 どちらともなく、私達は呟いた。セシルさんは、たしかにそう言っていた。無視をしていた、ということはないだろう。なぜって大事なお嬢様の周りに、こんなに変なやつがいるのだ。本来ならすぐさま衛兵コースではないだろうか。


「見えて、なかっ……た?」


 思わず自分を人差し指でさしながらフローラにといかけると、彼女はこくこくこくっ! と勢いよく頷いた。びっくりした。わあ! と二人で不思議な声を合わせたあとに、口元を押さえた。ドアを見て、誰もこないことを確認して、もう一回、小さな声で、わ、わあ! と驚いた。



 ***



 結論からいうと、私の姿はフローラ以外の誰にも見えていないようだった。かと言って、やっぱり幽体のような状態なのかと思えば違う。すり抜けることはできないし、物だって持てる。ご飯もおいしい。フローラ以外からは見えない、“透明人間”になってしまった、と思う方が正しい。俄然、異世界味がましてきた。


 朝になってフローラと一緒に部屋を出ると、大勢のメイドさん達がぺこぺこと頭を下げて、まるで高級旅館のようである。しかしこれはフローラにとっての日常だ。


「う、うわ……」


 ご飯は部屋に持っていくようにさせておくし、屋敷の中で自由にしていい。どこに行かなくてもフローラの部屋でごろごろしていてもいいと言われたけれど、やっぱり外を見たいと思うのは仕方のないことだ。なんせ最近会社と家の往復ばかりで、いや往復するどころか延々会社、たまに行く先は食料調達のコンビニだ。旅行気分で庭の緑があふれる空気がとにかくおいしい。


 立派な庭園はどこまでも広がっていて、探索するだけで日が暮れてしまいそうだ。人から見えないことをいいことに、わあ、わあ、と驚く私に、フローラはくすりと大人びた顔をした。恥ずかしくなんてあったので、照れ笑いをして今度は熱心に、けれども口を閉ざして観察することにした。


 色とりどりで季節すらも入り乱れた庭園だった。立派な彫刻のお口からは水がざあざあと流れていて、個人宅だというのに噴水まで設置されている。これはもう家ではない。城である。パスポートも持ってないのに海外にやってきてしまったような気分で胸をドキドキさせていると、私の隣で一緒に散歩をしてくれていたフローラが、随分硬い顔をしていることに気がついた。もともと白い肌が、血の気が失せてしまって真っ青だった。


「……フローラ、どうしたの?」

「ご、ごめんなさい。あかり。朝はいつもこうなの。学院に行くことが、とても……怖くて」


 その顔は見たことがある。私が新人だった頃の顔と同じか、それ以上に悪い。行きたくない。けれども、行かなければもっとひどくなるような気がする、と感情が揺れている。今思うと、逃げてもいいよと鏡向こうの自分に言ってやればよかった。フローラにもそうだ。別に、貴族だからって無理に嫌な場所に行かなくたっていい。


「言わないで」


 私の言葉を察したのか、フローラは首を振った。


「私は、一度はあなたにお願いをして、逃げようとしたわ。でも今はもうそんな気はないの。たとえ、リッジ様に婚約を破棄されようとも、堂々としていればいい」


 フローラは、本質的な死を選ぼうとした。ひとつ、ひとつ、本の文字を解読して、準備をして。その間に、幾度葛藤したことだろう。書き込まれた絨毯の上の文字は細かくて、一文字書くごとにペンを握りしめすぎた手のひらは真っ白にさせていたのだろう。けれども、彼女は全てを書ききった。


 きっと大変だったに違いない。そしてやってきた人間を見て、拍子抜けして。


「……私は、一度、死んでしまったようなものだわ。死ぬより怖いことなんてないんだもの。きっともう大丈夫。……でも」


 やっぱり顔は真っ青だ。指先だって震えている。


「あかり、あなたには、自由にしてもらって構わない、といったあとで、本当に申し訳ないのだけれど……どうか、私を、応援……して、くれるかしら……」


 伸ばされたのは、小さな手だった。小柄な彼女だ。手のひらだってそうだった。頼りない、女の子の手だ。「……!」 勢いよく掴んでいた。何を言えばいいのかわからないけど、前のめりになるくらいに、勝手に口から出てきた言葉は力いっぱいの肯定だ。


「もちろんだよ!」


 助けてと言われて手を伸ばされた。だったら、掴むしかない。フローラは、ぱち、ぱち、とゆっくり瞳を瞬いた。長いまつげだ、とフランス人形のような顔を見つめたとき、唐突に、人形は人になった。泣き出しそうなくせに、ほっぺは真っ赤に笑って、八の字眉毛が可愛らしい。思わず、こっちが赤面してしまいそうになった。


 私は、彼女を応援する。誰からも見えない、ただの透明人間だけど。

 力いっぱい、彼女を応援すると決めた。



 ***


 馬車に揺られて何千里、というわけではもちろんないけれど、初めての馬車はお尻にくる。しかしそんなことは言っていられない。フローラのためなら尻などいくらでも犠牲にしてみせる。



 花が散りばめられた美しいアーチをくぐり抜け、私は見事貴族学校にたどり着いた。お付きの従者は誰もいない。それが学校のスタンスだ。アーチをくぐり抜けたら、誰も彼もが個人となる。勉学の前には全ての人間は平等である、というのはあくまでも建前らしいけれど、少なくとも表向きはそうなっている。とはいえ、明らかに目立つ生徒もいる。黒髪クールビューティーの周りには取り巻きらしき少女達が和気あいあいとしているし、誰しもが小さな島を作っていた。フローラ以外は。


 フローラが教室に入ると、ぴたりと空気が静まり返った。一歩進めば誰かが下がる。まるでフローラの周囲にだけぽっかり穴があいているようだ。けれど、それもいつものことなのだろう。この空気は中々辛い。変わり者の令嬢、黒魔術の女と囁かれている声が聞こえた。


 大きな教室の中にはぐるんと階段状にテーブルが配置されていて、誰でも自由な席に座ってもいいらしい。私はとりあえずフローラの隣に着席することにした。誰もがフローラから距離を置いているので、選び放題である。


 ところで、制服らしき紺のワンピースに身を包んでいる少女達の中で一人スーツの女はどうにも居心地が悪い。周りからは見えていない、と思いつつも自分の気持ちの問題である。けれども仕方ない。替えの服はもちろんフローラが貸してくれると言っていたけれど、あるのはふりふりのドレスばかりだ。さすがに私の心が死んでしまう。


 なので比較的問題ないかと思われるブラウスだけお借りした。そのためスーツの内側は宝塚ばりにふりふりしている。当初は違和感があったものの段々どんと胸をはりたくなってきた。フリルとともに溢れてくるのは気合である。フローラ一人応援隊隊長としての役目を今こそ果たすべきかもしれない。


「フローラ! 私になにかできることはあるかな!?」

「うふふ」


 私の姿も声もフローラ以外には見えないし聞こえない。というわけで返事をするフローラの声は控えめである。


「大丈夫よ。あなたがいてくれるだけで嬉しいし、力がわいてくる。だから、あかりはいてくれるだけでいいの。ごめんなさいね、私の都合で呼び出してしまったのに。かならずもとの世界に戻すからね」


 フローラの机の上にはあいかわらずの『社畜の呼び方』が置かれている。彼女はわずかな時間でも本の解読に努めてくれるようで、美少女の柔らかい笑顔にきゅんとした。しかし机に置かれた本の表紙があまりにもおどろおどろしく、さらに周囲は距離をあけてじわじわと遠くなっていく。涙が出そう。


 そっと本に手をかざして人の視線から避けるようにとしてみたものの、もちろん私は透明人間なので意味はない。


「あの、フローラ、帰りたくはあるけど、そこまで急いでるわけじゃないし、まったりでいいからね、ほんとまったりで……」

「そんなわけにはいかないわ。あかりを召喚したからには帰す義務が私にはあるもの」


 真面目である。本の表紙とギャップがすごい。

 しかしそんなおどろおどろしさを意に介さず、のしのしとフローラに近づく姿がいた。つり上がった瞳は勝ち気な表情をしていて、髪は綺麗に水平にカットしている。一瞬座敷わらしを思い出した。


「フローラ様、いい加減になさってください……!」

「えっ……? あの、ジャスミン様……?」


 どなたですかね、と首を傾げる気持ちとともに、本のことかなとちょっと不安になってしまったのだが、きつくフローラを睨むジャスミンという少女の背後には、ツインテールの少しタレ目な女の子がいる。ジャスミンの服の裾を掴んで隠れているように見えるけれど、実際ちらちらと高頻度でフローラを見ていた。


「やめて、ジャスミン、私はいいから」「でもマーガレット!」と互いに話し合っている姿は、まるでこっちに見せつけているようだ。なるほど、彼女が噂のマーガレット。フローラがなぜかいじめているということになってしまっている少女である。また何かのやっかみをつけてきたのだろう。ジャスミンはマーガレットの友人なのだろう。


 フローラはとにかく恐れたように二人を座ったまま見上げた。これではどちらがいじめているのかわからない。そもそもフローラは陰湿な陰口に心が参ってしまったとき、反撃するよりも自分が消えてしまうことを選ぶ子だ。他人を攻撃なんてできないし、心当たりもない出来事にただ表情を震わせることしかできない。視線をそらさないように、必死に見上げているのはせめてものフローラの抵抗なのだろう。でも、心の底ではやっぱり自分が悪いと思っている。


 魔法をまともに使うこともできない落ちぶれものの自分が馬鹿にされるのは仕方のないことだし、第二王子の婚約者なんて身分も分不相応なことだと呪いのような言葉を何度も自分に刻んでいた。けれど、それは違う。即刻、彼女はもっと自分に自信を持つべきだ。なんて言ったって彼女は笑顔が可愛い。あとは責任感も強い。異世界から呼んでしまったものは仕方ないから、あなたのことなんてしーらない! とほっぽりだしてもいいだろうに今も必死に本を解読してくれようとしている。


(そうか、責任感が強いから、現状が許せなかったってこともあるのかも)


 第二王子とマーガレット某の恋路の行方を見届けたくないということ以外にも、伯爵家の長女として至らない自分が悔しくて、自分自身を変えてほしかったのかもしれない。


(……ミスをするととにかく自分自身のあら捜しをしてしまう。社畜あるある)


 自分の能力が足りないことが辛くて、それ以外の解決方法が見えてこなくなるのだ。自分の力が及ばないのなら他人に助けを求めればいいのに視界が真っ黒に塗りつぶされてしまう感覚には覚えがある。


 と、腕を組んで私が考えている間に、話は盛り上がっているようでさらにジャスミンはフローラに噛み付いていた。フローラが、いかに第二王子の婚約者として不適切か周囲にも聞こえるように説明している。どんな嫌がらせをフローラが、マーガレットにしたのか、とても詳しく。


「フローラ様はマーガレットの鞄の中にイモリを入れたのよ! ひどいでしょう!?」

「イモリ……」


 遠巻きに見ている周囲と一緒に、思わず呟いてしまった。古典的にもほどがある。そして鞄の中にイモリが入っていたということは入れた犯人がいるということで。考えた。瞳を閉じて、すぐさまカッと見開いた。


「そんなもん貴族のご令嬢であるフローラが入れることができるわけがないでしょーーー!!?」

「余裕で問題ないわ……黒魔術にも使うし……」

「そしてできるんかい!」


 私の叫びにぼぞっと返答したフローラに突っ込んだ。黒魔術に使うんかい。もちろん彼女たちに私の声は聞こえてはいないのだけれど、フローラは叫ぶ私を可愛らしいくりくりの目で見ていた。そして力いっぱい吹き出した。「う、うぐっ、うふっ、あはっ、う、うふふっ」 必死に笑い声を抑えるように我慢しようとしているらしい。「あ、ははは!」 しかしダメだった。私の叫びがよっぽど面白かったのか、フローラは涙をぬぐいながらも笑っている。なんだよ照れるな。ではなく、周囲がどんびきした顔をして見守っている。衆人の中大爆笑する美少女である。ちょっとした狂気。


「だ、だめ、おかしい……! う、うふふ!」


 フローラはどんな嫌味を言われたところで、曖昧に笑ってごまかして、必死にその場に立っていた。それがどうだろう。何があったんだと生徒達はざわついて驚きと困惑に互いに顔を見合わせている。


(そうか)


 今こそだ。「ちょっとまってね!」 私の出番である。誰も私のことを見えないし、聞こえない。でも、フローラだけは違う。慌てて走ってジャスミン&マーガレットのお花コンビの背後にずんと仁王立ちで立って、大声を出す。


「フローラ、がんばれ……っ!」


 私に返事をするように、ふんわりとフローラは笑った。ジャスミン達はきっと自分達に向けられた笑みだと思っただろう。眉をひそめて後ずさりする。なのでどんっと彼女達の背中と私の胸が当たったとき、ジャスミンとマーガレットはぎょっとして振り返った。「え、なに? 何かあるの?」「何もないけど、あれ?」 混乱しているようだが、フローラはゆっくりと立ち上がった。


「ジャスミン様、マーガレット様」


 静かな、まっすぐした瞳である。それから、はっきりとした声だ。


「私は、マーガレット様の鞄にイモリなんて入れておりませんし、嫌がらせを行う理由もございません。……きっと、勘違いですわ」


 やってきたのは不思議な静寂だった。それからやっと遅れてごくんと唾を飲む音が聞こえる。言葉もなく驚く彼らの中で、「いよっしゃあ!」と私は一人拳を握った。その場には不似合いなほどに眼鏡のイケメンの教師が教室の中にやって来るまで、奇妙な沈黙は続いた。教師は室内を一瞥して、まっすぐに立っているフローラを確認すると、教卓をぱしりと軽く叩いて自身に注目を集めた。


「さて授業を始めよう」となんてこともなく授業を始めた。


 教師は魔力の使い方について優しく丁寧に解説をしてくれたが、生徒達はそれどころではない。あの、気弱なフローラ・ロレンスが言い返した! 彼らの頭の中はその言葉でいっぱいのようで、教室の中ではこっそり書いた手紙がそこら中に飛び交った。貴族とは言っても少年少女、やっていることは子供と同じだ。「手紙を回しているそこの人達。おしゃべりをしたいのなら出ていってもらっても構わないよ」と教師に叱責されて、それもすぐに下火になってしまったけれど。


 私とフローラは静かな勝利に互いの手を握りあった。屋敷に戻ってジュースを盃に互いに乾杯をした。


「あかりがいてくれたから、がんばれたの」

「関係ないよ。違うことは違うと、フローラがはっきり言えたからだよ」


 大勢の中で、自分の言葉を伝えるということは、とても勇気がいることだ。


「小さな頃は、もっとたくさんのことを言えたはずなんだけど、いつの間にか苦手になっちゃったのね」

「そんなものだよ」


 誰でもきっとそんなものだ。冷たい言葉を向けられると、伝えることが怖くなる。それなら口を閉ざしていたほうが、ずっとましのように感じてしまう。


「……なんだか、私あかりのことずっと前から知っているみたい。懐かしくって、ほっとするわ」


 そんなことを言われると、こっちだって嬉しくなる。妹がいたらこんな感じかな、とか思ってしまうけれど、こんなに美少女の妹がいることを想像してしまうと思い上がりのような気がするのでそっと胸にしまっておく。




 ***



「この本は、社畜を救うために、私が様々な世界にこっそりと隠しているものなのです。社畜を呼び出す才能があるものにしか使うことはできませんが、私は一人でも多くの社畜を救いたいのです」


 と、女神様はのたまった。

 なるほど、フローラは鬼畜が召喚主を救ってくれる本だと翻訳していたが、実際は社畜である私を救う本だったか。たしかにこっちの世界に来てから気分転換ばりばりで心も体もしゅるりと軽い。なるほどなるほど。


「なんて思うかアホーーーーッ!」

「オウマイゴッド!」


 神がゴッドとか言い出すなんて一体どこの世界線? という疑問はさておき、地面に投げつけたのは抱きしめながら寝たはずの枕である。枕は頭の下に置くよりも、抱っこする派なのである。つまりはこれは夢であり、私が目の前できらっきらに光る桃色ウェーブ髪の女性を何の抵抗もなく神様だと思うのは夢だからなのである。神は言った。


「私は社畜の女神です。社畜を救うために存在しているのです」


 そんなもんいてたまるか。


「社畜を見つけたらとにかく異世界に飛ばしたくなります。疲れた魂は洗濯です。異界の海に投げ込んで、じゃぶじゃぶとリフレッシュ」

「様々な小説や漫画で社畜が異世界転移しがちなのはこの女神のせいなのかと思ったり思わなかったり。とりあえず家に帰してください」

「エッ……!!? だいたいの社畜達はそのまま異世界に埋もれたいというのに、あなたの頭は一体どんな構造をしているのですか……!!?」

「至極まっとうな頭だよ! このまま透明人間で生きていけるか!」


 フローラにおんぶに抱っこで生きていくなど冗談ではない。女神は長い杖で焦ったようにこつこつと地面を叩いて、「透明人間なのは私のせいなのではなく、あなたが隠し持っていた才能が異界の地で花開いただけであってごにょごにょごにょにょん」と海外に行って才能が花開いた的なニュアンスで言われてもなんとも微妙である。


「わかりました。あなたをきちんと元の世界に戻すように、最善を尽くしますとも。あなたが一番心の底で望む形になるように社畜の神はがんばります。それまでどうか、お心のリフレッシュを!」

「……お気遣いどうも」

「それじゃあ、フローラさんにさらなるやる気が満ち溢れるように注入しておきます!」


 フローラさん、がんばって本を翻訳してくださいね! と叫ぶ女神の声が、ぐんぐんと遠くなる。いやフローラまかせかい! 女神さんが頑張るんじゃないんかい! と叫んで右手を伸ばしても真っ暗なトンネルに吸い込まれて届かない。ぎゅんぎゅんと女神の声すら豆粒になって遥か彼方に消えていく。そして起きた。目が覚めた。


「あかり、おはよう! いい朝ね」


 部屋のカーテンを開けて、にっこりとフローラは笑っていた。あまりの頭の痛さに二日酔いを思い出す。あさりの味噌汁を飲みたい所存。


「今日も私がんばるから! この本の中にあかりが元の世界に戻る方法が書いているはずだもの! もっともっと、がんばるわ!」


 両手でおどろおどろしい本を掲げてくるくる回る可愛子ちゃんに、胸が辛くなってきた。「フローラ、がんばらないで……がんばらなくてもいいことだって、この世にはあるんだよ……」「あかり、一体どうしたの? え、え? え???」







 戻る方法は間違いなくある。と思うと心が軽くなるのは仕方のない話で、仕事のことは考えたくはないけれど、私が今まで生きてきた世界はあっちなのだから戻らねばならないと思うのは自然なことだ。ところで私が持っていた会社鞄は一体どこに行ったのか。


 フローラは時間の許す限りに本の解読を行ってくれた。私が地球の日本に戻ることができる日はおそらく遠くはないだろう。となると心配になるのは彼女のことだ。マーガレットの鞄にイモリを入れた容疑は晴れたものの、彼女は相変わらず学校では肩身が狭く、魔法の授業で炎を出せと言われればなぜだか出てくるのは炭ばかり。きっと彼女の才能は黒魔術に全振りされているのだろう。なんたって女神曰く、社畜を呼び出す才能があるのだから。


(フローラは強い子だ。人前では小さくなっていても、譲れないものがあるのならまっすぐに進むことができる)


 そのことをフローラの黒魔術の痕跡を日夜消してくれるメイドのセシルさんや、フローラの両親だって知っている。毎日彼女の隣で彼らの様子を見ていればわかってしまう。でもそれでもやっぱり心配の気持ちばかりがむずむずする。


 一緒にいる時間が長くなれば身の上話をすることも多くなった。


「リッジ様ときちんとお話ししたのは、たったの一度だけなのよ」


 フローラはそのときのことを思い出して、恥ずかしそうにしていた。


「私は小さな頃はお転婆で、何を考えるのも単純だったけれど、リッジ様は違った。そのときは彼が殿下であることは知らなかったけれど、この方と一緒にいたいと泥だらけで思ったの」


 泥だらけってどういうことだ。おそらく、彼女はイモリか何かを追いかけていたのだろう。深く尋ねることはやめておいた。


 たったの一度の思い出を大切に抱きしめるフローラは健気だった。リッジもフローラと同い年、ということは十五歳。王子も平等な教育をという理念の中、第二王子も貴族学校に通っている。けれども一度も見かけたことはない、ということは、彼はフローラを避けているのだ。なのにマーガレット某嬢と恋仲であるという噂があるということは、他の女ならデートをするのか。なんだとこら。


 マーガレットと第二王子の恋仲話は、リッジがフローラを避けている、というところから起因してどんどん話が大きくなってしまったようで、自分が消えた後、フローラは一体どうなってしまうのかと考えると、心配で心配でたまらない。



 と、いうわけで私はお城に潜入することにした。透明人間バンザイ。

 フローラの屋敷を抜けて、街を通り過ぎて、するする王宮の警備を突破する。そして見つけた第二王子。



「俺の婚約者はとにかくかわいい!!! フローラ最高!!」


 いやそういうのはいいから。

 ツンデレ王子とか誰得だよ。



 ***



「いやそういうのはいいから」


 唐突に聞こえた声に、私の言葉を誰かが代弁してくれたと思わず焦って口をぱくぱくさせてしまった。好きすぎるあまりに話すことができない、なんてものは物語の中で十分である。こっちは実害を被ってるんだぞコノヤロウ、という感情が燃え上がっていたのだ。


 けれども聞こえた声は男性であり、もちろん私の声ではない。扉の隙間からそうっと部屋の中を見ると、ちょっと身長が低い少年の隣に、少年とよく似た背の高い眼鏡の青年が立っていた。「あれ?」 見覚えがあるぞと考えると貴族学校のイケメンすぎる教師である。私があれ、と言った瞬間、先生はきょろりと周囲を見回した。まるでこっちの声が聞こえているみたいな仕草だったけれど、周りに誰もいないことを確認したのだろう。


「リッジ、お前がフローラを愛していることは理解しているが、お前のせいで彼女が苦しんでいることは理解しているのか? かわいい好きだ愛しているなんて言葉は口だけならいくらでも言えることだが行動が伴っていなければ何の意味もないだろう」


 ぐうのねも出ない。

 さらに先生は私が考えた以上のことをつらつらとリッジに告げ続けて、そのたびにリッジ王子は、「ぐう! ぐう、ぐぐう!」と叫んで体をひねって、言葉の矢に貫かれていた。ぐうのねは一応出ていた。


「でも兄さん!」


 リッジはたまらず声を上げた。そして私は一拍遅れて、今兄さんって言った? と首をひねった。リッジが第二王子ならば、第一はどこかにいるのだろうけど、彼が兄さん?


「俺の力のことは知ってるだろ……!? 興奮したら自分でもわけがわからなくなるんだよ。今でさえ抑えるのが大変なのに、フローラと、は、話でもしたら」


 リッジははあはあと息を荒くした。なんだどうした大丈夫か、とこっちもそわそわなってくる。あまりにも辛い様子で、「ん、ぐ、う……」と次第に息すらもできない状況に変わっていく。お医者様でも呼んだ方がいいのでは。


 リッジはテーブルに置かれたグラスを片手で持ち、勢いよく水を流し込んだ。真っ赤な顔色がやっと落ち着いたらしく、よかったと思ったら、ばりん! と音が響いた。リッジに握りしめられたグラスの破片が粉々に砕けて足元に散らばっていた。嘘じゃん。


「俺の馬鹿力が炸裂するに決まってる……!」


 馬鹿力というレベルなのか。

 ちくしょうとリッジが両手でテーブルを叩いた瞬間、テーブルは真っ二つに砕けてずずんと崩れ落ちた。いやだから嘘じゃん。


 その様子を、第一王子はため息をついて腕を組みながら見下ろしていた。平然としているところを見ると、彼にとってはいつもの光景なのだろうか。


「……リッジ。私達王家に特殊な“血”が流れていることは、もちろん僕にだってわかっている。けれどもお前ももう十五だ。いつまでも逃げている場合じゃない」

「わかってる……それにマーガレットだったっけ。あの子をあしらっただけなのに、デートをしたとかよくわからないことになってるし。俺だって、わけがわからない」

「それはお前のあしらい方が下手なんだ。お前は僕と違って常時発動する力じゃない、抑えがきくはずだ。心を強く持て」

「……うん、わかってる。誓うよ。これからは、もうこんなに取り乱したりはしない。絶対だ。フローラに迷惑なんてかけたくない」

「マーガレットといえば、この間自分の舎弟をけしかけてフローラにあらぬ罪を着せようとしていたが、すげなくやり返されていたな。中々珍しい光景だった。教師役じゃなければ拍手の一つでもしたかったよ」

「あああああ俺の婚約者かわいいだけでは飽き足らず強くてかわいい!」


 リッジは暴れる心を鎮めることができずに、折れたテーブルを持ち上げてそのまま壁に投げつけた。壁には見事な穴があいた。あまりの絶対の言葉の軽さにリッジ自身も落ち込みそのまま床の上で丸まった。その様子を第一王子はため息を吐きながら見下ろしていた。



 ***



 ――フローラ・ロレンス殺人事件



 第二王子の婚約者が何者かに殺された。それは新聞の紙面を賑わせ、犯人は一体誰なんだと様々な憶測が飛び交ったが、まさかその犯人が婚約者の王子が馬鹿力で抱きしめたせいだなんて、誰が想像しただろう。できない。そしてそんな状況になってほしくはない。今のはただの妄想である。


「あかり、どうしたの? あ、お腹へった? もう少しお夕食をもらってこようかしら」


 まさかフローラの命までがかかっているとはつゆ知らず。にこにこ笑う彼女を見つめて唸った。


「うふふ、この頃あなたと一緒に部屋で食べるでしょう。二人分のご飯をお願いしてしまうから、セシルにお嬢様、太りますよと怒られてしまって」


 平和な顔をしている彼女に命の危機が迫っているとは、まさか本人も知るまい。知らなくてよし。あのあとやってられっかこのヘタレという気持ちで私は第二王子のケツを蹴り飛ばして逃亡した。リッジ王子はヒギャッと猫のような声を出して、何があったと周囲を見回していたが、事態は想像よりも深刻だった。


「うふふ、私が全部食べてることになってるの、うふっ、食べられるわけがないのに、うふ、ぶふっ、ふふー!!」


 あと最近気づいたことなのだけれどフローラは笑いの沸点がどこかおかしい。お嬢様なのにイモリを持てるんかい、と叫んだ私のつっこみに腹がよじれるほどに笑う奇行で実はちょっと気づいていたけれど気づかない方がいいかなと思っていた。


「フローラ……」

「どうしたの?」


 彼女に伝えてみたらどうだろう。第二王子は――思春期なのだと。


「リッジ王子のこと、どう思う?」

「どうって……優しい方だと思うわ」

「ちびなのに?」

「人は身長じゃないわ。それにリッジ様は成長期だもの……あら、あかり、リッジ様のことご存知なの?」


 口をつぐむしか無い。人の気持ちを盗み聞いて勝手に伝えるなんて、さすがに野暮がすぎる。顔をそらしてひゅうひゅう音もない口笛をふいていると、写生に必死なフローラはくすりと笑って手元に集中する。真面目な彼女の背中を見つつ、ついでとばかりに問いかけた。


「それじゃあ、第一王子のことは? 知っているの?」

「知っているもなにも、あかりも何度も会っているわよ。魔法使いとしても一流でいらっしゃるから、学校の臨時講師としてご指導に来られているの」


 そうして少し考えたあとに、ごめんなさい、言っていなかったら知らないに決まっているわよね、フローラはしょんぼりと眉を八の字にしているが、周囲のものごとを全て説明するのも大変だろう。けれども彼女は誠実に、一つ一つ言葉を重ねていく。


「第一王子、トーン様は物腰も柔らかで、学校の生徒や国民から慕われているわ。けれども一方で、“何でもお見通し”の王子様として恐れられてもいるの」

「何でもお見通し?」

「王家の方々は不思議な力を持って生まれるそうよ。それがどんな力ということははっきりとはわからないけれど、いろいろな噂は少しずつ流れてくるから……」


 つまりフローラはリッジも何か不思議な力を持っているということは知っているだろうけれど、まさか自分を好きすぎて興奮のあまり馬鹿力が凶器になりそうだということを知らないのだろう。知ってたまるか。


「トーン様のお力は、正直誰もわからないの。でも、ただわかっていることは、あの方はなんでもご存知なのだということよ。よくも、悪くもね」

「なるほど……。ところでフローラ」

「なあに?」

「一心不乱になんで絨毯に写経を行っているの?」


 どこからか取り出したのか、フローラの右手には筆が握りしめられていて、『社畜を呼ぶ本』の中身を書き写しているらしい。可愛らしいほっぺは墨で汚れていて、絨毯の惨状から想像すると、明日はセシルさんの頭からぶちぶち血管がちぎれる音が盛大に聞こえるだろう。しかしフローラはぱあっと花が咲いたような笑顔で私を見た。


「どうやらこの本は、呼び出した召喚主を救うためのものではなくって、社畜であるあかりを救うものらしいの。その中の方法には熱い湯船につかる、素敵な匂いをかぐ、マッサージをする、無心になって文を書く、といろいろな方法が書いてあったわ。もしかすると、これはあなたが元の世界に戻るための儀式なのではないかなと思って!」

「う~~~~んそれは疲れたOLへの癒やしのストレス解消方法が書かれたページじゃないかなっていうかその中でなぜ一番方向性が違うものを選んだかな!?」


 窓の外ではぴかぴかのお月さまが夜空の中に浮かんでいるが、なぜだか星空の中でピースをしている女神の姿が思い浮かんだ。地に落ちろ。翌日、フローラの部屋にやってきたセシルは自分のメイド服を引きちぎらんばかりに血管をビキビキにして、ひっそりと人気のない部屋の中で大きなぬいぐるみの腹に力の限り拳をねじ込んでいた。人によってストレス発散方法はきっと様々なのだろう。




 ***




 イケメンすぎる眼鏡教師が第一王子と知ってしまうと見える世界が変わってくるというか、なんというか。

 きらきら金髪、通り過ぎるだけでお星さまがこぼれて散りばめられていくようである。せめて眼鏡をつけてくれていてよかった。なければ何人かが失神している。

 トーン様のご年齢は二十歳半ば程度だろうか。私よりも若干年上か、同い年程度に見えるなと思ってフローラに確認したところ間違いないとのことだった。


 声色も優しく、うっとりしてしまうようだから、すっかりとろけた瞳でトーンを見る女性は教師や生徒と少なくない。けれどどこか恐ろしさも感じた。彼に見惚れてぼんやりしている間に後ろから首をもぎ取られてしまうような、ときおりそんな恐怖を感じる。トーンは教室に入ると、いつもゆっくり、ゆっくりと室内を見回す癖があった。私の姿はフローラ以外の誰にも見えないはずなのに、まるでこっちの姿が見えているみたいだが、おそらくこれはお見通しの王子の由来だろう。


 しかしそんな謎の王子の存在はとりあえず頭の隅においておくことにして、私の頭の中心はいつだってフローラだ。彼女はとにかく危なっかしくて、見ているこっちがひやひやする。今日も魔法の授業で失敗して、顔を煤だらけにしていた。


 マーガレットとジャスミンは、そんな彼女を笑った。「伯爵家のご令嬢様ともあろうお方が、お顔が真っ黒。大丈夫ですか?」「しっ! 私達よりも位が高いお方ですもの。失敗したなんてことはあるわけがないから、わざとでいらっしゃるのよ。ほら、そうした方が真っ白なお顔にお化粧のようでとっても素敵」「あらほんとね!」 といった具合で。


 ちなみに直接つっかかってきたのがジャスミンで、フォローをしているふりをして馬鹿にしているのがマーガレットである。後者の方がよりたちが悪いように感じるのは気の所為だろうか。


 フローラは二人の言葉にきょとんとして自分のほっぺをゆっくり拭い、状態を確認した。教室には下位貴族の方が圧倒的に数が多い。上位の貴族はつんと顔をそらして涼しい顔をしている。面倒事には関わるまいというスタンスだろう。


 くすくすと笑う声の一つひとつが小さかったとしても、重なってくるとこのやろうと叫びたくなってくる。「このやろう!」 そして実際私は叫んだ。「お花コンビめ! お、お花……コンビめ! お花ァ!」 罵倒のボキャブラリーが口から出てこないことが中々に悔しい。もっと舌を磨いて生きてくればよかった。


 けれどもフローラは騒ぐ私をよそにほっぺを拭って真っ黒になった手を見て、くすりと笑った。


「違うわ、ジャスミン様、マーガレット様。炎を出そうとして、失敗してしまったの。わざとじゃないわ」


 照れたような彼女の笑い顔は可愛らしかった。なりゆきを見ていた生徒達は、フローラの笑顔にほうっと息を落としている。


「どうしてかしら。私、なんでも魔法が黒くなってしまうのよね、お恥ずかしいわ。できればお二人からコツをお窺いたいくらい」

「う、うぐ」

「うぐぐ」


 フローラは知らないのだろうが、私は知っている。彼女達の方がまともな魔法を使えずに、手の中でぽすんとオナラのような音を出していただけのことに。


 フローラは自分よりもさぞ立派な魔法を使うことができるのだと純粋にきらきらした瞳をしている。お花コンビはぎりぎりと歯ぎしりをした。そして、「体調がよろしくないので、失礼しますわ」「私も失礼しますわ!」 ばびゅんと消えた。まあ人前でオナラ魔法を見せるわけにはいかなかったのだろう。不思議そうにするフローラを見て、くすっと笑ったのは我関せずとつんと顔をそむけていた黒髪クールビューティーである。


 公爵家ご令嬢、アリエル様。教室の中で一番の高位貴族だ。


「面白いわね、あなた」


 お前おもしれー女だな、のまさかの女性ヴァージョンである。



 ***




 アリエル様はイケメンなご令嬢だった。おもしれー女だなから恋に落ちるのがお約束とするのならば、私は心配でそわそわしてしまったのだがもちろんそんなこともなく、フローラはアリエル様と親交を結んだ。本来ならアリエル様の方がフローラよりも高位であり、リッジとの婚約も彼女の方がよっぽど似合っているとフローラは落ち込むことも多かったらしいが、なんてこともない。アリエル様はリッジと幼馴染らしく、「あんな思春期男、こっちの方がお断りよ」とイケメンにかっこよく吐き捨てていた。事情はすでにご存知の様子。


「けれども一国の王子が殺人者にはなってほしくないので、さっさとがんばってほしいところなのよ。ところでこの部屋、もう一人だれかいない?」


 アリエル様とフローラ、二人っきりのティータイムにあまりの勘の鋭さにちょっとちびってしまいそうだ。まさか気配を察していらっしゃる?




 少しずつ、フローラに対する不安は消えていく。寂しいけれど、喜ばしいことだ。アリエル様がいれば、きっとフローラは大丈夫。あまりにも勘がするどすぎるアリエル様と一緒にいるのは私の心の安定が保てないため、そいじゃあねとフローラに片手を振って学校を散歩しているときだった。第一王子、トーンと遭遇した。しゃらんら、と歩くだけで風が流れる青年である。「ははっ、イケメン眼鏡」 失笑のように呟くと、「ありがとう」とお礼を言われたので、「どういたしまして」と返答した。


 そのまま頭を下げてスキップで消えていこうとしたとき、いやちょっと待てと振り返った。トーン王子はやっぱりこっちを見ている。嘘じゃん。


「やっぱり、誰かいるよね。ところで君、うちの弟の尻を蹴って逃亡しなかった?」



 ***




 それは私が王城にこっそり侵入した日のことである。可愛すぎて殺してしまいそうとのたまうリッジ王子にふざけんなという思いを乗せて渾身のケツキックをして逃亡した。「ウンギャッ!?」と猫のような悲鳴をあげる王子にざまあみろと大人気なく疾走したわけだけれど、そのときたしかにトーンはリッジと話をしていた最中だった。


 誰にも見られないのだから、とすっかり気が大きくなっていた。私は一国の王子のケツを蹴り飛ばしたのだ。笑い話にもならない。


 ――第一王子、トーン様は物腰も柔らかで、学校の生徒や国民から慕われているわ。けれども一方で、“何でもお見通し”の王子様として恐れられてもいるの


 フローラの言葉を思い出す。

 つまり、誰にも見えることができないのに、私を見ることができる。それは、“何でもお見通し”の王子の力なのではないだろうか。考えてみれば、幾度も視線が合ったような気もする。


 ごくん、と唾を飲み込んで荒くなる息を抑えようとした。トーンはきょろきょろと周りを見て「それで、どこにいるの? ……ああ、そこか」 私が一歩後ずさるとぴたりと顔を向けてくる。


「そんなに怖がらないでくれ。ずっと姿が見えない誰かいるなと思っていたんだ。僕は人よりもちょっと耳がいいだけだ。君の姿は見えないよ」


 姿は見えない。なんだそれ、とこっちは瞬くしか無い。トーンはにっこりと笑った。そして説明してくれた。彼はとにかく耳の良い王子様なのだと。



 ***



 葉っぱの音がさわさわしている。場所を変えてゆっくり話をすることにして、学校の裏庭の大きな木の下で「大丈夫、誰もいない」とはっきり言い切るトーンのなんと心強いことか。


 王族は誰しも特殊な能力を持って生まれる。リッジは馬鹿力。トーンは人よりもとにかくいい耳。お見通しの王子様とは、実はものすごく地獄耳の青年だった。彼はフローラ以外には誰も見えない、聞こえないはずの私の声を彼だけは拾い上げて。きちんと返事を返してくれる。なんとも不思議な気分である。


「あかりは異世界から来たんだね」


 トーンは不思議な青年だった。私と同じような年のくせに落ち着いていて、なんでもわかったような顔をする。一国の王子なのだから当たり前かもしれないけど。ただの社畜とは人生の経験が違うだろう。


 私とフローラが不思議な会話をしていたことをトーンは知っていたから、しょうがないと私は全てを白状することにした。隠したところでこの地獄耳な王子は、これからも私達の会話を勝手に耳が拾ってしまうんだろう。一体どれほどの音が聞こえるのか。


「そうだね本気を出したら学校中の音くらいは拾えるかな」

「聞いてないのに答えを返してくるところがこれまた怖い!」


 トーンは地獄耳なのだとしても、それとは関係なく頭もいいのだろう。そうじゃなければ勝手に拾ってしまう音を自分の中で処理することなんてできないし、何でもお見通しの王子様だなんて他者から評価されることはない。そして、私が異世界から来たということを告げても彼はとっても冷静だった。木の幹に背中を持たれかけて、「あまり例のないことだけれど、過去にも異世界から来た人間の記録は残っているよ」と教えてくれた。


「……その人は、元の世界に帰ったの?」

「いいや。帰る方法は知っていたけど、帰らなかった」

「方法はあったんだ」


 その人も社畜だったのだろうか。心の中で女神がピースを決めてウェイウェイしている。


「……私を、どうにかする?」

「どうにもしない」


 意外な返答だった。不審者が学校の中に忍び込んでいるのだ。しょっぴいてどこかに突き出すくらいのことはすると思っていた。トーンは眼鏡の向こうの長いまつげを伏せて、「だって君は誰にも見えないんだ。透明な人間なんだから、いないものと同じだろう」 なんとも悲しいことを言われた。


 私はいる。間違いなくここに存在している。そのことについて堂々と胸を張ることができるのはフローラのおかげだ。彼女がいつも笑って、喜んで、相手をして、私を元の世界に返そうと必死に努力をしてくれているから、私はここにいると思うことができる。


「……私はここにいるよ」

「そうだね。わかってる。いないものなんて嘘だよ、私は君が思う以上に君のことを知っている。たくさんの言葉を拾ってきたから。フローラは大切な義妹だからね。君がいて彼女に笑顔が増えたことは朗報だ。彼女の周囲に心無いご令嬢がいたことは知っていたけど」

「それなら助けてあげればよかったのに」

「これでだめになるのなら、そうなってしまった方がいいと思ったんだよ。弟と彼女の婚約は、リッジが一方的にフローラに惚れ込んでしまったことにも原因があるから。もちろんそれだけじゃないけどね」


 伯爵令嬢なのに第二王子とはいえ、王族との婚約なんて不思議だと思っていたのだ。フローラはそのことにも重荷に感じていたから、トーンの言いたいこともわかる。


「……それでもだよ。大切な義妹なんでしょう」


 いや、フローラは自分自身で立ち向かうことができた。私が彼に告げている言葉は、ただ自分自身が満足するためだけのどうしようもない感情だ。息を飲み込んだ。吐き出して首を振る。「ごめんなさい、あなたにも立場があるのに」 ぺこり、と私が頭を下げたことは、彼にはわからない。彼には私の声しか聞こえないのだから。


 トーンは何かを言おうとして口元を小さく開けた。けれどもすぐに閉じてしまった。王子様には、王子様の葛藤があるんだろう。なんにしろ、私をどうにかしないということは見逃してくれるということだ。ありがたいと再度頭を下げて、その場から立ち去ろうと思った。長居はごめんだ。


「……ところで」


 けれども、よせばいいのに問いかけてしまう自分がいた。「……まだ何か?」「そうそう何か。私がリッジ王子のお尻を蹴飛ばしたことも、見逃してくれる?」 吹き出したように、トーンは笑った。くつくつと小さく声を出して、「ああそうだね」


「君はどこにもいないんだから、罪になんて問えないよ」


 なるほど、と彼の人間性を見たような気がした。






 トーンはなんでも悪役ぶる。にっこり笑ってまるで悪事を働いていますと主張してくる。フローラが悪役令嬢だなんて最初に思ったことはまるで冗談のようで彼こそが影のボスだ。そしてそう見せかけたいだけだった。


 耳がよすぎるトーンは、聞きたくないものをたくさん拾って人の裏表の言葉を知ってしまう。どんな人間だってときには汚い言葉を吐くし、そのことを人に知られないようにとひっそりと努力しても、否応なくトーンの耳はみんなの言葉を拾ってしまう。


 いつの間にか、私はトーンと裏庭でぼんやりと話をするようになった。フローラには友人ができた。私がいなくても大丈夫だ。互いに時間が必要なときはあるのだから。


「貴族学校の教師をしているのは、ちょっとした気分転換でもあるんだ」


 そう教えてくれたとき、彼の顔はどこかぼんやりしていて、もこもこと綿あめみたいな雲を見上げていた。


「何でも知っている王子と言われることはあんまり好きじゃない。別に何も知っていないんだから。ただ聞こえるだけだ。城は色んな声が聞こえてくるよ。でも、これは正直便利な力だと思っている。リッジなんかよりもよっぽど扱いやすいからね。でもたまには可愛らしい声を聞きたくなる。ここの生徒達は幼稚な悪巧みもするけど、まだまだ子供で可愛らしい。いっそ微笑ましくもなる」


 マーガレットとジャスミンのことを思い出した。彼女達は未だにフローラに辛く当たろうとして、ごにょごにょ相談しているが、その相談を私が真ん中に入って聞いているとは知りもしないだろう。あいつらまた悪巧みしてんなと思うと、よっこらせと移動して把握する。まるで三人で話し合っているような気分になり、奇妙な一体感を最近感じる。彼女たちが私の存在を認識していないことが残念だ。


 お花コンビはアリエル様がいることで手を出しづらくなったと嘆いていて、ついでに嫌がらせの失敗率に話し合っていた。それらが全て私が邪魔していることを彼女たちは知らない。計画をきいて、邪魔をする。最高の作戦である。


「ここって不思議な学校だね。みんな言いたいことをして、したいようにしてる。あとたまに避難訓練の授業もあるし」

「外と内が、奇妙に混ざりあっている場所だからね。子供でも貴族だ。でも貴族だって子供だから。可愛いもんだ。王宮よりも楽しいよ」

「王子様も大変だね」

「そうでもないさ」


 陳腐な慰めには適当な返答が返ってくるものである。トーンからすれば、見えない穴に言葉を投げ込んでいるような感覚なのかもしれない。王様の耳はロバの耳だ。私は彼の世界に存在しない。だって透明なのだから。


「それよりリッジだ。あいつもいい加減フローラと向き合わなくちゃいけないよ。学校じゃクラスが違うことを理由にフローラを避けてばかりだ」

「なんとか力を使いこなしてくれたらいいのにね」

「婚約者のエスコートくらいできるようになってもらわなくちゃな」


 リッジと一度しか話したことがないというフローラがなんとも気の毒だ。そんな風に会話をしていたとき、ふと気づいた。第二王子であるリッジにフローラという婚約者がいるのに、第一王子のトーンにはいないのだろうか。


 すでに会話を気遣い合う仲ではないので、疑問は素直に聞いてみることにした。「いないよ、さすがにそろそろ逃げ切ることは難しそうだけど」とのことである。


「好きな子がいるんだ。悲しいことに結構長い」

「それは両想いではなく?」

「そうだね、相手は結構年上だから、諦めてはいた」


 王子が諦める女性とはいかに。頭の中ではアダルティーな魅力が光る美魔女が怪しくポーズをつけている。その後ろでは女神様がピースピースと楽しそうに踊っていた。だから定期的に私の思考に出張してくるのはやめなさいよ。




 裏庭の木の葉っぱが少しずつ色が変わって時間が過ぎていくほどに、私とトーンはたくさんの言葉を重ねた。だいたいどうでもいい話ばかりで、格好つけの王子様が声を上げて笑う程度には少しずつ近づいたような気もする。フローラにはもちろん内緒だ。一体どこにいっているの、と不思議そうな顔を彼女はしていたけれど、ひみつひみつ、と口元に指をちょんちょんくっつけて笑った。



 さて、そんなこんなで平和に話が終わると思いきや、お花コンビはさらなる悪事を働こうとしていた。ただの伯爵家のフローラが第二王子と婚約ができるというのなら、男爵家である自分達にだってチャンスがあるのではないかということである。黒いお顔で互いに話し合っているところを、私はそっと間に入って聞いてみた。なるほどなるほど。ところで二人いるけどリッジはどっちが手に入れるの? 作戦会議に他人が入っててごめんなさいね。


 マーガレットが正妻、ジャスミンが側室を目指しているらしいと別に知りたくない情報まで把握して、第一王子であるトーンよりも第二王子を狙っているのは、そっちの方が御しやすそうだからと悲しい理由まで理解した。毎度のことながら彼女達の悪事を私はひっそり阻止しようとしたが、今回の二人はひと味違った。体当たり作戦である。


「どうにも綿密な計画をねっても失敗してばかりだわ。それなら互いにいきあたりばったりの方がいいんじゃない?」

「そうねその通りだわ。マーガレット、あなたはどうにかしてフローラに罪をなすりつけるのよ! そして婚約者の座から引きずろ下ろすわ!」

「ええ、まかせてちょうだい!」


 いや力いっぱいに答えるのはやめよう。


 フローラには気をつけるようにと伝えても、何を気をつけたらいいのかわからない。どうしたものか、とフローラとアリエル様と一緒にひっそりくっついて教室の移動をしていたとき、マーガレットが階段前で何やらもじもじしていることに気がついた。今か、今かとフローラを待ち構えている様子である。まさかそんな。あまりにベタだ。私は動いた。多分、そのとき誰よりも早く。


 マーガレットは、フローラが廊下を通り過ぎようとした瞬間、力いっぱいに階段から飛び降りた。「キャーーーーッ!」 立派な悲鳴つきである。階段から転がり落ちたマーガレットは主張する、フローラに突き落とされたのだと!


「ウンギャーーーー!!!!!」


 そして彼女は叫んだ。さっきとは別の意味で。「う、う、う、私、浮いてるゥーーーー!!!」 落ちようとしたマーガレットを飛び越し滑り込んで、渾身の力で胴体を掴んだ。透明人間、土台になる。


 なんて冗談を言っている場合ではなく、もちろんのこと、私とマーガレットはもみくちゃになって踊り場に突撃した。せめてもの救いは日和ったマーガレットが落ちたときのことを考えて低い階段を選んでいたことだろうか。死にそう。「い、いたい……」 小さく呟いて泣きたくなる。けれども私はやりきった。


 階段の上から、下から生徒達が集まって現状に驚いていた。その中にはフローラもいて、「あかり!?」と驚きの声を上げているけれども、周囲のざわつきに吸い込まれた。そしてこの瞬間をマーガレットは逃さなかった。当初とは計画が違うだろうが、混乱しつつも本懐を遂げようとする彼女はプロフェッショナルな女といえる。


「みなさん、見ていましたか! 今私は突き落とされました! 第二王子の婚約者、フローラ様に……!」


 さらにざわつきが大きくなる。マーガレットは、誰からにも注目されるように大声を上げて階段を転がり落ちようとしたのだから。そう、彼らは見ていた。


 マーガレットが、一人で両手を広げて階段上で浮遊し叫んでいる瞬間を。


 痛みと引き換えにしても余りあるほどのいい仕事をしてしまった。「フローラ様が突き落としたというか、あなたさっき一瞬一人で飛んでなかった……?」 と名もなき令嬢に問いかけられ、マーガレットは顔を真っ赤にした。「とっ、とん……飛んでた、けど……っ!」 そして認めるのか。意外な素直さだった。


「一体何があったんですか」


 いち早くやって来たのはトーンだった。マーガレットの悲鳴を耳にしたのだろう。いつもしている眼鏡をずらしてきょろきょろと視線をさまよわせていた。もしかして、と自意識過剰に、「私は大丈夫」と呟くと、彼はほっとしたような顔をした。そういや痛い、とちょっと言ってしまったから、遠い場所からでもトーンには聞こえていたんだろう。


 さらにやってきたのはリッジだ。それほどマーガレットの悲鳴は大きかった。学校中に響き渡るくらいだった。以前見たときは小さな男の子だなと思ったリッジだけれど、ちょっと背が伸びたような気もする。さすが思春期だけど、成長期でもあるのだろう。


「リッジ様ァ! 私、フローラ様に階段の上から背中を押されたんです、すごく、すごく怖かった……!」

「ひ……っ!」


 すかさずマーガレットはぴょんと元気にリッジに飛びついた。思春期の男子らしく、女子との接触を恐れている様子があるリッジだけれど、マーガレットの言葉も言葉だ。すぐに眉間にシワをよせて眉をひきしめ、状況を把握する。階段の上からは、フローラが呆然としてリッジに飛びつくマーガレットを見下ろしている。


 明らかにマーガレットの言葉が狂言であることは、その場にいる誰もが理解していたけれど、そんなものは状況を飛び越えていた。不仲と噂されている第二王子とその婚約者。お互いに接触しないようにと避けていることは周知の事実だが、あくまでもそれはただの“噂”だ。事実がなければ、少年少女にとってのただの楽しいゴシップだが、今がその“事実”になってしまう。なんていったって、噂の二人が現在顔を合わせてしまっているのだから。


 これで第二王子がフローラをないがしろにすれば、内外ともにフローラへの当たりは厳しくなるのだろう。この世界に召喚されて色んなところの噂を透明な人間として渡り歩いてきたから、それくらいの想像はできるようになってしまった。フローラの表情はリッジを見て、ただ驚きに染まっていた。彼女は第二王子の婚約者であるはずなのに、会話をしたのはたったの一度。顔を見た数もきっと少ないはずだ。それから。


 リッジ様、と声も聞こえないくらいに小さくフローラの口元が呟いていた。


 フローラは、怖がっていた。驚いた顔の裏側で、ひどく怯えてもいた。魔法をまともに使うこともできないから肩身が狭い。嫌味を言われるのも辛い。けれどももっと怖いのは、リッジから、婚約の破棄を告げられること。


 それが怖くて、悪魔を呼ぶ方法だと思い込み、フローラは私をこの世界に召喚した。


 ただでさえ白い彼女の顔から、するすると色が抜けていく。そのことにきっとリッジだって気がついた。階段の上と下で互いに顔を見合わせて、周囲のざわつく声も互いの耳には聞こえていない様子だ。マーガレットは、リッジにすがりついたまま、誰にも見えないはずの角度で、にまりと口元を緩ませている。しかし残念なことに私にはものすごく見えている。


 ――何もできないけど、応援することはできるよ


 フローラに、私はそう言った。きっと、今がそのときだった。ふれ、ふれ、フローラ!

 いじめっこを撃退したときみたいにまっすぐに前を見て。思いっきり拳を握るんだ。


 なんて、思っていたとき、何かが違うような気がした。

 トーンは、静かに彼らを見守っていた。視線の先はリッジの拳だ。震えるような手でマーガレットの肩を押して、距離を置いた。見ようによっては、大切なものを壊れないようにと考慮された動きにも見えて、マーガレットもそう感じたのだろう。脈アリだ、とばかりに彼女の瞳の中に、きらりと嬉しげな光が灯る。


 実際は制御不能な彼の馬鹿力で殺人事件が起きないようにと集中に集中を重ねているだけなのだろうけれど、マーガレットとリッジがいい仲であるという噂が流れた原因の一つも、彼のこの態度なのだろう。ちょっとこれには同情する。


 リッジはするりとフローラから視線を逃した。何事もなかったかのように逃げようとしている。そのまま背中を向けて、今日のことは何もなかったという顔をして。


(……そんなわけない)


 婚約者が逃げた。それはフローラの中でどんな不名誉で傷つく出来事になるんだろう。


(がんばるのは、フローラじゃない)


 私はいるけれど、いないみたいなものだから、何もできない。だからできることは応援だけだ。でも、フローラを応援するのはきっと違う。だって、フローラは、もう十分にがんばっている!


「だから、頑張るのはお前だリッジ!!!」

「ウンギャッ!!!?」


 逃げようとするリッジのお尻を思いっきり蹴り上げた。


 リッジはまるで猫のように跳ね上がった。二度目の王子様へのキックである。唐突に叫んで何があったとマーガレットも、周囲の生徒も驚いていて、よく見ればこっそり顔を出していたジャスミンまでもがぽかんと口を開けて瞳を大きくさせていた。お前もいたのかジャスミンよ!


 そして、見えて、もしくは聞こえていたトーンも同じような反応だった。私だって、今何でお尻をキックしたのかわからない。「ぼ、暴力はよくない、ごめん!!」 勢い余って行動しすぎた。しかし謝られている相手であるリッジは状況がわからないし聞こえないし、頭の上ではクエスチョンマークが踊っている。それから、しばらくたって、「うふっ」 フローラが笑った。


「うふっ、う、うぐっ、うふっ、うふっ、うふふふっ」


 ちょっと笑い方が怖いけれど、ほっぺを真っ赤にして顔をそむけて拳を口に当てながら必死で笑いを我慢している。フローラは笑いのツボがちょっと変で、笑い出すと止まらないのだ。「うふ、あは、あははは!」 なので彼女はお腹を抱えてとうとう大爆笑した。淑女にあるまじき姿だった。リッジに向かっていた視線はフローラに。一体どうなっているのとばかりにみんなの視線がぐるぐるしている。


 みんなの中にはもちろんリッジも含まれている。大笑いするフローラをぼんやり見上げていたリッジは、口元を引き結んだ。そしてリッジから距離を置いて立ち尽くしていたマーガレットを、力いっぱいに睨んだ。


「誰が、誰の背中を押したというんだ」

「そ、それはフローラ様が……」

「フローラが、そんなことするわけないだろ!」


 リッジが勢いよく叩いた壁にぴしりとヒビが入っていた。馬鹿力が爆裂している。いや今ヒビが入ったよね、と事情を知らない生徒は呟き、「す、するわけないって……」 シンプルすぎる否定にマーガレットは右に、左にと目をきょろつかせている。ここまで簡素に否定されると、どう答えていいかわからないのだろう。しかしマーガレットは頑張った。


「でも、事実です! リッジ様、あんな笑い方がおそろしいフローラ様より私の方がよっぽどあなたにふさわしいと思います!」


 ビキビキとリッジの頭の血管がちぎれていく音がする。リッジはがすがす壁を叩いて、さらに壁のヒビが広がっていく。段々円形に広がっていく。バトル漫画の一シーンを思い出した。「フローラの笑い方が、恐ろしいだって……」 たしかにちょっと変わってはいるけどね、と思いつつ私は静かに後ずさった。生徒達も悲鳴を上げて退避する。フローラはリッジの力を知っているアリエル様がいち早くつれて行って、マーガレットはジャスミンが抱えた。仲間思いのお花コンビであった。


「あれは、可愛いというんだァーーーーー!!!!!!」


 その日、学校は崩れ落ちた。



 ***



 リッジが貴族学校を破壊したとき、裏庭に避難した生徒達は崩れ行く校舎と思春期男子の「あれは、可愛いというんだァーーーーー!!!!!!」という叫び声を耳にした。どこからか取り出したのか口元に笛をぴっぴと吹いて生徒達を誘導していたトーンは中々のものだった。むしろ彼はこの日のために教師になった可能性すらも浮上してきた。見事に避難しきった生徒と他の教師達は毎日の訓練の大切さを身にしみていた。避難訓練、とても大切。なぜかたまにある避難訓練は、きっとこの日のためのものだった。


 崩れ落ちたはずの魔法学校は、建築魔法であっという間に復旧し平和な世界が戻ってきたのだが、私達の目の前では顔を真っ赤にした思春期男子がフローラから10メートルほどの距離をとって椅子に座りながら頭を抱えて唸っている。


「リッジ様、私もリッジ様をお慕いしています」

「うう……」

「リッジ様の力がきちんと制御できるように、どんなことでもがんばります」

「うう……うう……」

「まずは呪いの藁人形から! 髪の毛を一本いただけますか、この中に埋め込めると、リッジ様の体を自在に動かすことができますから……!」

「うう、うう、どうぞ……」

「いや最後わたすんかい」


 私のつっこみはリッジには聞こえていないので、トーンを介して髪を一本渡していた。フローラそんなことができたのというか、普通に魔法を使うよりもすごいのではというか。そういえば私を召喚するには才能がいると女神様がいっていたから、彼女は炎を出したり、風を出したりというような普通の魔法ではなく、一般的には魔法とは分類されないような黒魔術に才能が全振りしてしまったのかもしれない。


「もうこれで逃げることはできないな。怖がっているのはお前だけだよリッジ。フローラには才能がある。自分の婚約者を信じてみろ」

「少しずつといったところね。逃げて彼女を守ろうとするのではなく、向き合って守りなさい。男でしょう? しばらくあなた達の面会には私やトーン様が立ち会えば不安も少なくなるんじゃない? これでも魔法の技は一流よ。防御結界くらい張ってあげるわ」


 バサッと扇を広げるアリエル様が男前である。

 こじれまくった初恋がばれたリッジとそれを見守る兄と、幼馴染のアリエル様。王宮の一室をお借りして、私達は話し合いをした。まあ私はただいるだけなのだけれど。部屋に用意された椅子が一つ多いものだから、アリエル様はきょとんとしていたけれど、「見えない私のお友達がいるんです」とフローラに説明されて、「いるのなら仕方ないわね」と納得していた。男前すぎる。


 トーンが私の声を聞くことができる、ということにフローラは驚いていたけれど、本題はそれではない。リッジが自分の力でフローラを傷つけるのではないかと恐れてずっと彼女を避けていたと知ってから、ずっと嬉しそうに可愛らしい笑みを浮かべていて、うなだれているリッジと対照的な姿だった。


「ねえフローラ、もっと怒ってもいいんじゃない? 理由くらい教えてくれたらフローラは悩まなくても済んだわけだし」

「だって、リッジ様の力は目に見えてわかりやすいものだったけれど、王家の皆様の力は本来秘めるべきものなのよ。王家に縁のあるアリエル様や、トーン様がご存知だったことは仕方ないけれど、ただの伯爵家である私が、きちんとした夫婦になるまで正式に知るべきことではないわ」


 そんなものなのだろうか。そこは培った常識が違うから、何も言えない。

 私はトーンの力を知っている。秘めるべきものじゃないの? とつっこみたい。そのときトーンはぱちんと私にウィンクを送った。こっちを見えもしないくせに、と考えると、まあ私は透明人間だからいいのかと思うことにする。


「それにもし知っていたら、子供の頃の私なら無理に近づこうとしていたかもしれないわ。隠してくれていて、逆によかったと安心もしているの」


 小さな頃は今よりも元気だったというフローラなので、もしかするとこっちが本命なのかもしれない。


「リッジ様、たくさん悩んでくださったんですね、ありがとうございます」

「いや……」

「どうか、私との婚約を破棄なんてなさらないでください。あなたにお会いしたときから、こんなことを考えては失礼だと思いつつも、リッジ様と一緒にいることを夢見ていました」

「お、俺も、フローラの笑顔を見たときから、この子しかないと思っていた!」


 この会話、10メートルの距離を隔てている。

 互いに声を張り上げなければいけない現状なのにらぶらぶすぎる。


 けれども椅子から立ち上がってじわじわと距離を近づけていくものがいる。もちろんフローラである。隠さなければ無理に近づいていたかもしれないと言っていたフローラだが、すでに無理に近づいているのではという疑問があふれる。ひえっとリッジは震え上がった。けれども今はトーンとアリエル様がいる。二人は目をあわせて頷いて、静かに呪文を唱えていた。万一の際にフローラに怪我をさせないようにする結界だろう、今ならとても安心だ。


「大丈夫です、リッジ様。ご心配でしたら、この人形をあかりに渡しておきます」

「髪の毛を埋め込んだ藁人形……」


 ちょっといらない。しかし受け取る。ぶるぶると震えるリッジは人形に恐れているのではなく、フローラを傷つけたくないのだろう。結界があったとしても、万一があるのだから。けれども気にせずフローラは進んでいく。


「どうか、リッジ様、お手を。あかりに人形を渡していますから、安心してください」

「いや、でも」

「大丈夫……と、いうよりも、ちょっと違うんですが」


 一体何が違うというのか。いつの間にかリッジの前にフローラが立っていた。右手を差し出して困った様に笑っている。


「私が、あなたに触れたいんです。だから、リッジ様。……がんばってください」


 そう言われて、まさか断ることなんてできなかった。ゆっくりと、ゆっくりとリッジは手を伸ばした。それから、ちょんとフローラに指先を触れて、こわごわと握りしめた。見ているこっちだって怖くて固唾を呑み込んでしまう。ごくん、と私が喉を鳴らしたときにはリッジは顔から耳まで、そして指先までゆでダコのようになっていて、彼の手のひらを握りしめるフローラは本当に嬉しそうにほっぺたを緩ませていた。


「うう、う、う、うがあ! ンギャーーッ!」


 しかし耐えきれなくなったリッジが悲鳴を上げて怪しげな動きをしようとしたため、私は手の中にある藁人形をすぐさま大の字にさせた。リッジも藁人形と同じポーズをした。「アーーーッ!!!」




 ***




 後顧の憂いが少しずつなくなっていく。それと同時に、フローラは魔術の才能を花開かせた。やっぱり彼女は魔法を使うことができないのではなく、人とは使える力が違っているだけだったのだ。


 それは類を見ない才能で、トーンはすでにそのことを見抜いていた。伯爵家令嬢であるフローラがリッジと婚約したのは、ただのリッジの一目惚れだけが理由ではない。王家に嫁ぐものは必ず人とは違った才能を求められる。なぜなら王家の人間がそれぞれ不思議な力を持っているから、それを抑える力が必要なのだ。少しずつ成長したフローラは、リッジの力を抑えることができるようになったのだ。まだ完璧ではないけれど、近い将来、彼女はさらに強くなるに違いない。


 フローラは、あっという間に私を召喚した本を解読してみせた。もとに戻る方法もわかったという。それがどういった方法か、ということはここに書くにはちょっとおどろおどろしすぎるので伏せるとして、リッジに破壊され、けれども見事に復元した学校の裏庭で、私はトーンに元の世界に戻る旨を伝えてみた。私とトーンは相変わらず二人でときたまお話しする相手なのである。だって私は話す相手がフローラ以外にいないのだから。


 帰る、という私にそうかとトーンは頷いて、私に尋ねた。


「この世界に残るという選択肢はないの?」

「あるよ。でも、それはもとに戻れない場合はここでも幸せだな、と思うけど、戻ることができるなら別だよ。向こうでどれだけ時間が経っているのかわからないけど、ブラックな会社はきちんとやめて、しっかり転職してみせる。……私、向こうにいたままだったら、擦り切れてどうなってたかわかんない。ここに来て、本当によかったと思う」


 それこそさすが社畜を助ける女神だ。強制的な魂の洗濯、リフレッシュは完了してしまった。仕事を与えられ続けるままだったら、いつまで経ってもブラックなループから抜け出せなかっただろう。


「うん、考えたらパワハラもあったかも。ちょっと心が麻痺してたな。考えも鈍くて、視野が狭くなってたよ。でも今は元気もりもり」

「よくわからないけど、元気になったのならよかったね」

「戻ったら、ブラックな上司も会社も一言いってやろうかな」

「言ってやりなよ」

「よしがんばる」

「頑張りすぎない程度にね」


 相変わらず悪者ぶりたい青年だ。すげない態度でつんとして眼鏡の縁をいじっている。



 さて、私はフローラにたくさんのありがとうとさようならを伝えて、世界を去った。リッジやアリエル様も、私が見えないはずなのに、心のこもった別れの言葉を教えてくれた。不思議な縁を胸いっぱいにもらって、スーツ姿でぐんぐん空を上っていく。ところで私、最後までスーツだったな。



「ちょっとは着替えてもよかったんじゃないでしょうか?」と余計な言葉を言ってくるのは女神である。世にいる様々な社畜を助けるために活躍している。最初はなんだこいつと思ったけれど、悪い人というか神ではないと思うので、控えめにこれからも頑張っていただきたい所存である。


「いや、着るとしたらフローラの服だし、ひらひらドレスはちょっとなあと」

「それはそれで楽しいと思いますよ?」

「……フローラより私は背が高いし、似合わないので、現実は見たくないというか」

「なるほど現実を見ないことは大切です」


 社畜達は現実を見すぎているのです、と桃色髪の女神様は難しい顔をして頷いている。


「この世には、たくさんの神がいます。空の神、海の神。そして社畜の神」

「いきなり方向性おかしくない」

「そんなことはありません。全部同じなのです。あなた方が、私はとても大切です。……本当に、元の世界に戻ってしまっていいんですか?」

「その話はもうトーンとしましたよ」

「なるほど、決めた結果であるのなら、神はこれ以上は口には致しません……。さてさて! あの本は、社畜を救うための本です。あなたが元の世界に戻ったとしても、必ずあなたは救われる!」

「なんだか怪しさがぐっと増したぞ……?」

「怪しくなんてありません! 社畜に光を! ブラック企業には天罰を!」

「いやこわいよ」

「世界がホワイトにな~~~~あれッ!!!!」


 どんな呪文だ。




 松下あかり。がんばりすぎたあなたですから、がんばった分、あなたが求めるものを与えますよ。心の底から求めるものを。……なんてまるで本当に女神様みたいな声を残してふわりと消える。真っ暗な空間だ。『いや私本当に女神ですから!』 そしてさらに響いている。そのままフェードアウトする展開ではなかったのか。


『事後説明の役もなければ混乱するかと思いまして。アフターケアは万全にしたいタイプですので。さてさて、異世界に転移したあなたですが、もとの世界はさほど時間は経っていません。1、2秒というところでしょう』


 本当に経っていない、と驚いて瞬くと、私はトラック転移した現場に立っていた。横断歩道の真ん中で、よく見ると赤信号だ。ぼんやりしていて飛び出したのかもしれない。それから眩しくて目を眇めると、トラックの灯りがこっちをピカッと照らしている。周囲の人は驚いた顔をしていて、ぱっかり口を開けて悲鳴を上げている途中の人まで目に見えた。


『今はまだ時間は動いていません。あなたが事故に合う直前で止まっています』

「いやそれって、普通に死ぬよね! 体は口以外動かないし! 一体全体どうしろと!」

『大丈夫です、安心してください。あなたをひこうとしているトラックの運転手はドラフトテクニックに定評のあるスーパー運ちゃんです。飛び出してきたあなたをギリギリでかわす……ことはできませんでしたが、全治二ヶ月程度の怪我におさめることはできます』

「スーパー運ちゃんすごいね!?」


 それでも痛いだろうが死ぬよりマシだ。


『そしてこちらを見てください。驚いたあなたが地面に落としてしまいそうになっている鞄です』


 文字通り、落としそうになっている最中だった。なんせ黒いビジネスバッグがぴたりと宙に浮いている。見覚えがありすぎる鞄は、毎日会社に連れて行っていた相棒だった。


『この中には社外に流出厳禁な大量の顧客情報が入っています。今からあなたはスーパー運ちゃんにギリギリでひかれて、運のいいことにも素早く救急車を呼ばれ、病院に搬送されます。ちなみに呼んでくれるのはあそこで悲鳴を上げているおばちゃんです。機敏な動きでスマホを今から取り出しますので、お礼を伝えておいてもいいでしょう』

「それはありがたいしありがとうございます! じゃなく、顧客情報って!」


 持ち出し厳禁で本来ならいくつも重役の印鑑を押さなければいけない書類だ。一応上司に報告はしたものの、持ち帰って作業すればの一言で止められることはなかった。それがあの鞄の中に入っている。


『そう、顧客情報です。鞄の中身が今から飛び出してしまって、事故現場にばらまかれます。トラックにひかれたショックで、しばらくあなたの意識は目覚めませんが、事故現場の人間の中には、書類の重要性に気づくものもいました。やべーもん見たぜとSNSで拡散されるのは一瞬で、会社は世間に管理体制の甘さが問われますが、当事者は意識のない現状です。それならばと正式に会社を調べれば調べるほど出てくるブラック三昧。社員を人間と思わずこき使っていた重役たちの首がすげかわるのは遠い未来の話ではありません』


 なので安心してください、と女神は私に告げた。『あなたは意識を失っているのですから、責める人間は誰もいません。安心して、トラックにひかれるのです!』 謎のプッシュである。


『ブラック会社には、天罰をォ!!!!』


 もしかしてこの女神、実は神ではなく悪魔か何かなのではないだろうか。


 まあ安心しろもなにも、抵抗できないわけだし、赤信号にふらふら飛び出したのは自分の責任だ。こりゃ仕方ない、とため息をついて運命を受け入れることにした。その間に女神が流したであろう映像が頭の中に流れてくる。ニュース映像だったり、新聞だったり。全員がそうというわけではないけれど、私は重要な情報を持ち帰るほどに追い詰められ、そしてトラックの前に飛び出したのだと概ね同情的なコメントばかりで、記憶にある社長は汗をかいてひいひいと謝罪会見を行っていた。なるほど、これは胸がすく。


 ブラック企業と戦うとトーンに伝えたものの、結局私の気なんて小さくって、透明人間だからこそできたやりたい放題の尻キックだった。ただの松下あかりへと戻った今、女神の仕業がなければ会社に対してやり返す、なんてことはできるわけもなく、するとしても直属の上司の机に思いっきり辞表を叩きつける程度だろう。


 記憶の中に言われた嫌味や強要されたパワハラ、セクハラが蘇る。このやろうである。やってやろうじゃないか。全治二ヶ月、どんとこい! ベッドの上で高笑いしてやるぞ。



 なんて心の中でにょっきりと角が生えたとき、トラックのクラクションが響いた。時間が動き出したのだ。きゃあー! と悲鳴が響いて、ブレーキの音がする。ちかちかとライトに照らされ、顔を向けた。まるで真っ白だ。視界なんてどこにもない。なのに、ふと見えた気がした。



 私の視界に、つぶらな瞳をしたスーパー運ちゃんが。



(と、トラックのおじさん……!!)


 トラック転生じゃん、なんてフローラに会ったとき頭を抱えたけれど、これじゃあトラック転生のなりかけだ。実際はトラック転移だったけど。


 しかも今の信号は赤色で、ふらふらと飛び出したのは私である。連日の徹夜の残業、泊まり込みに頭の中がぶっ壊れていたと言い訳した。仕事に追い詰められて飛び出したとこれからネットで書かれるのならば、実はそう間違った解釈ではなかったかもしれない。


 けれども、そんなのトラックの運ちゃんには関係ない。私側の非が大きいにしても向こうは車だ。必ず人をひいた方が悪いということになってしまう。仕事中の事故って、それって、どれくらい大変なことなんだろう。仕事中の事故で、それも相手は病院に運ばれ意識もない。想像すると怖くて怖くてたまらない。もしかするとその間仕事もできなくなったり、下手をすると首になったりなんてことはあるのだろうか。なかったらいいし、情状酌量の余地しかないけど、絶対に大丈夫、なんてことは言い切れない。少なくとも、私は今から彼に多大な迷惑をかけるだろう。ポメラニアンのようなつぶらな瞳が絶望に見開かれてこっちを見ている。なんてこった!


(し、死ねない。いや、死なないって言われたけど、死ねない! 怪我もできない!)


 迫りくるトラックの中で、目まぐるしく思考が回っていく。死ねない。怪我もできない。


「トラックの運ちゃんの人生に、傷なんてつけてたまるかァーーーー!!!!」







 そのとき、大きくトラックのブレーキ音が大きく響いた。後続に続く車と、対向車がないことは幸いだった。誰もが悲惨な状況を想像し、斜めに止められた車の中からすぐさま運転手が飛び出した。「今、誰か、ここに!」 たしかに――いた。いた、はずだ。背の高い女性と、彼はしっかりと目があった。そのはずなのに、どこを探してもいない。


「人がいたと思うんです! 誰か、知りませんか……!?」


 男性は叫んだ。けれども返答ができるものは誰もいなかった。






 その日、忽然と一人の女性が姿を消した。

 歩道には、女性が残した鞄からいくつもの紙が飛び出して、散らばっていた。








 ***



「いやここどこよ?」


 立っていたのは、見晴らしがいいのどかな田園である。「いやうそ。またフローラのところに行ったんじゃないの?」 運ちゃんにごめん、怪我なんてできない、できないぞ! と心の底から叫んだとき、一緒に思い出したのはなぜだかトーンのことだ。


 悪者ぶりたいような顔をする眼鏡は、いつもどこか少し悲しそうだったくせに、私と話すと嬉しそうに笑っていた。その理由を薄々気づいていたのだ。私は誰にも見えない透明人間だから、私にだけは人よりもとても耳が良いという秘密を漏らした。


 でも私をフローラは見えるから、本当の意味での透明人間じゃない。そんなことはトーンだって知っていたに決まっていて、それでも吐き出したいくらいに苦しかったんだろう。だから、私がいなくなってしまったら、トーンはどうなるんだろう、と少しだけ心配だった。嘘だ、とても心配だった。フローラにはアリエル様という友人ができて、婚約者であるリッジとの仲もこれからきっと大丈夫だろうとホッとしたのに、今度は新しい心配事ができてしまったのだ。やってられない。


「そしてここはどこなの……」


 最初に戻る。どこまでも続く真っ青な空にはおいしそうな雲がふわふわしている。ぴーちくぱーちく小鳥の声まで聞こえてきた。よく見ればお城らしき建造物が遠くにまっすぐ建っているから、やっぱりここはフローラがいる世界なのだろう。


「……あー……よくわかんないけどいい天気だしあったかいなあ……って、ヒイィッ!?」


 足元にちっちゃい子供がこっちを見上げていた。男の子で、仕立てのいい服を着ている。そしてどこか見覚えがある。金髪で、くりくりした目をしていて、「と、トーン……?」 いやそんな。「えっ、兄さんのこと、知ってるの……?」 少年はびっくりしたような顔をした。今兄さんって言った? そして少年は私のことが見えている?


 トーンとリッジはよく似ている。たしかに、トーンというよりも、このしょんぼり顔はリッジである。あと眼鏡がない。


「いやいやそんなわけない、おかしいって……」


 今のリッジは、だいたい五歳くらいだろうか。異世界に来ている方がおかしいのだから、知り合いが縮むこともあるのだろうか。……あるのだろうか?


「あの……あなた、お名前は……?」


 聞いてみると、ぷいっと顔をそむけられた。考えてみれば第二王子がこんなところを一人でふらふらしているのもおかしい。もしかしなくとも、お城を抜け出したりしたのだろうかとか。


「ねえ、お名前はリッジで合ってる? 王子様なら、一緒にお城に帰ろうよ、危ないよ」

「い、いやだ! いやだよ、だって、俺……俺……」


 リッジはぶるぶると震えて、大粒の涙をこぼした。どうしたんだろう、と聞いてみると、彼は自分の力に戸惑っていた。さすがに彼が王族で、信じられない馬鹿力があることは秘密にしなければならないことだとわかっているらしく、曖昧にごまかしていたけれど、私は事情をしっているものだからすぐにぴんときてしまう。たくさんのものを壊して、兄に怪我をさせて、ここまで逃げ出してしまったのだ。


 フローラを前にしたとき、一方的に頑張れと伝えたけれど、リッジだって幼い頃から悩んでいた。当たり前だ。大変だったんだな、と陳腐な言葉しかでなくって、慰める言葉も、「大丈夫だよ」と薄っぺらなものしか出ない。自分の人間性が辛い。それでもできる限りの言葉を伝えようと思った。


「ねえリッジ、これから先のことだけど、君に大切な人ができるよ。そしたらその子の笑顔がみたくなって、辛かったり、嬉しかったり、色々あるよ」

「辛いのは嫌だァー!」


 慰めが下手すぎた。うえんうえんと泣いているリッジに、申し訳ないですと一緒に座って頭を下げるしかない。けれどもずっと一緒にいた。幼い彼に何かあってはたまらないし、泣いている子供を放っておけるほど強くもない。それにこの先の予定もないわけだし。


 さて、そうこうしている間に今度は可愛らしい女の子がやってきた。「カエル! カエル、カエルー!!」 なぜだか彼女は畑の中で泥だらけになってカエルを追いかけ回していた。そしてもしかしなくとも見覚えがある。ひとしきり駆け回ったあとに満足して手のひらの泥をぬぐい、しばっていたスカートの裾をくくり直して、足もタオルできれいにしている。フローラ、あなたは何をやっているの……。


 イモリを素手で捕まえることができるご令嬢、フローラは、幼い頃は更にやんちゃだったとたしかに聞いてはいたけれど、想像以上の姿である。カエルを掴んでげこげこさせて、にんまりしたあとに逃がしてやっていた。よかった。黒魔術に使うとか言い出したらどうしようかと思った。


 城からそう遠く離れてはいないということは、フローラの屋敷からもこの場所はそれほど離れていないということだ。貴族の女の子がカエルを追いかけたいと言ったところで許可をされるわけはなく、リッジと同じく抜け出してきたのかもしれない。安全管理お願いだから仕事して。


 私は半分呆れた気持ちでフローラを見ていたのだけれど、リッジはリッジでぼんやりとした顔つきで少女を見つめていた。気のせいか、ほんのちょっと耳の端が赤いような気もする。表情に出やすい子だ。


「……声をかけてきたら?」

「え、うえ、うえっ!?」


 リッジは私を見て、フローラを見て、私を見た。首が何度も動いてとにかく大変そうだった。


「い、いや、でもその、き、傷つけたら……」

「不安なら、遠くから声をかけたらいいよ。こんにちはって、ほら、行っておいで」


 リッジは少しばかり考えて、ゆっくりと一歩を踏み出した。こんにちは、と大きな声を出して、フローラは振り返った。お人形みたいな可愛らしい顔にこっちまでどきりとしてしまう。どちら様、フローラは尋ねる。でもリッジは名乗らない。ぱくぱく口を動かして、何を言えばいいのかわからなくなったのか、耳の端どころか、顔中真っ赤にしてまるで酸欠の一歩手前だ。


 ぐう、ぱあ、ぐう、ぱあ。リッジはフローラに見えないように、必死に手のひらを開いて、閉じてを繰り返していた。そんなリッジの幼い小さな指先が、少しだけ悲しかった。彼はきっと、その手のひらでたくさんの大切なものを壊してきたんだろう。怖いと震えることをごまかすように、そっと背中に隠していた。


 なのにそんなことなんて気づきもしないフローラは、「んふふっ、うふっ」とやっぱり変な笑い方をした。子供の頃から沸点がおかしなことは変わらないらしい。


「真っ赤な顔ねえ!」


 リッジはフローラに近づくこともできなかったけれど、真っ青な空の下で、ほっぺに拭いきれない泥をつけたまま、ぴかぴかの笑顔で楽しそうな声を出すフローラを、ひどく眩しいものを見るように見つめていた。


「な、名前を……!」


 名前を、教えて。少年が勇気を振り絞った声がきこえる。二人はずっと遠くで距離をあけて、大きな声で会話している。ぐんっと風景が遠くなる。真っ白に霞んで、よく見えない。彼らの声は私にはもう聞こえないけれど、きっとこのときのことは互いの記憶の中に残ったんだろう。リッジは笑顔が可愛い女の子として。フローラは、妙に真っ赤な顔をして、それでも必死に声を上げる男の子として。



 ――ああ、ちょっと時間と場所を間違えてしまいました。


 こっちでしたね、と桃色髪の女神の声が聞こえてくる。





 ぼすん、と落ちた。

 その先はトーンの膝の中だった。ちゅんちゅんと鳥がさえずる音が聞こえる。木陰の中で柔らかい葉っぱの匂いが鼻をくすぐる。覚えがありすぎる場所は、どうやら貴族学校の裏庭だった。そこで木にもたれかかって本を読んでいたらしいトーンの膝の中に、器用にももぐりこんでしまったらしい。


 本を見るには邪魔すぎる体勢である。トーンは眼鏡をずらしながら激しく眉間にシワを寄せた。本はすでに横に置かれた。


「あの、なんというか、その……ごめん……」 


 とてもコメントに困る状況だった。さようなら、と言われて堂々と帰っていったはずなのに、またこっちに来てしまった。なんでまたトーンのところに、と考えたとき、女神が言っていたことを思い出した。


 ――がんばった分、あなたが求めるものを与えますよ。心の底から求めるものを。



 トラックにひかれそうになったとき、考えたのはふらふら赤信号に飛び出した私のせいで、運転手さんに迷惑なんてかけられない、ということだった。けれども次に考えたのはトーンのことだ。

 耳が良すぎるあの王子様は、これからどうなっていくんだろう。学校に教師として務めるのは、きっとリッジがいる間くらいで、それから先、彼は王様として生きていく。そしたらきっと、跡取りだって必要で、好きな人は諦めていたと言っていたけど、幸せになれるんだろうかとか、そんなことを。


 私は気になって、気になって、仕方がなかったのだ。



「ええっと、ええっと」


 こんな透明人間に気になられたところで仕方ないでしょと思いつつも、自分の気持ちに嘘をつかせてくれなかった女神が憎い。


「あの、わ、わたし、こっちの世界にいても、いいですかねぇ、というか……」


 以前うかがった話では、過去に来た異世界人は元の世界に戻ることはできたけれど、この世界に骨をうずめたとかなんとか。それならこのままフローラにおんぶに抱っこでは申し訳ないし、そもそも今回フローラは関係ないので、なんとか生活の基盤を手助けしてもらえたら嬉しいな、仕事の斡旋とかいただけないでしょうかという黒い意味合いでトーンの膝の中で揉み手をすると、力いっぱい抱きしめられた。


 おぐ、と声がでなくてずれた眼鏡がことんと落ちる。鼻をすすっているような音が聞こえた。抱きしめられているからトーンの顔は見えない。見る勇気もない。なんせ息もできないのだ。言葉もなく、ただずっと抱きしめられた。


 この世界に残るという選択肢はないのかとトーンに聞かれた言葉が、残ってくれという意味であったことに今更気づいた。もっとはっきり止めてくれたらよかったのに、と思うことは責任転嫁だ。それは大きすぎる選択で、私が決めなければならないことだったのだから。


 でもまあもうちょっとわかりやすく言ってくれた方がよかったかもしれないけど。


「この世界にいるというんなら、わかったあかり。僕と結婚しよう」

「なるほどわかった。……ってなるわけないけど一体なんで!?」

「異世界人であることを気にしているなら問題ない。前例はある。以前君に伝えた、もとの世界に戻らなかった異世界人は、この国の王子と婚姻したんだ」


 戻る選択肢があったけど戻らなかった。彼はそう言っていた。


「その異世界人も君が透明になれるように、不思議な力を持っていたらしい。王家の嫁はフローラのように不思議な力を持っているものが選ばれるから」


 出所が不明だとしても、王子の力を抑えることができたということだろうか。「な、なるほど……ではなく!」 二回目のツッコミである。トーンの胸から勢いよく顔を引き離して、やっと息ができるようになった。


「好きな人がいるって言ってたじゃない! ずっと年上だって!」

「それは君だ」

「私が年上に見えるってかァーーーーッ!?」


 喧嘩を売られているのだろうか。どう考えてもトーンの方が年上か、同い年程度だと思うし、それほど実年齢から離れている見かけではないつもりだ。

 それとも異世界補正入ってんの? としゃくれながら睨みあげると、「あかり、君は以前この世界に来たことがあるだろう」とトーンは神妙な顔でこっちを見ている。落ちていた眼鏡は拾って、かけ直していた。


「以前って……そんなこと、一度もないけど」

「嘘だ。リッジとフローラが初めて出会ったとき、君もその場にいたはずだ」


 それはついさっきのことだ。けれども、この世界ではずっと昔のことになる。だいたい十年ほどになるのだろうか? そのときはトーンだって若者のはずで、十代の半ばくらいだったんだろう。


「それなら、ついさっき……というか、なんでトーンが知ってるの?」


 当事者のリッジとフローラが覚えていないのだ。フローラには懐かしいと感じると言われたことはあるけれど、そりゃ十年前にちらりと会っていつの間にか消えていた女だ。奇妙に感じることはあっても記憶に長々と留めてはいないだろう。


「あそこには僕もいた。リッジが暴れて怪我はしていたけど大したことはなかったし、他にも城から引き連れた兵士もいたよ。隠れてたんだ。そりゃあそうだろう? ロレンス家の領地で、比較的治安がいいとはいえ、幼い弟を一人でほっぽりだすわけがない」


 そう、記憶にとどめているわけがないのだ。……普通の人は。

 どうやらトーンは普通ではないらしく、つらつらと説明を続けている。


「リッジが傷ついていることはわかっていたからね。少しばかり形だけでも一人にさせてあげようと思ったんだ。そしたら、突如女性の姿が現れて、驚いた。僕達が見ていた場所からは、君の顔は見えなかったけれど、僕は耳がいいからね。はっきりと声が聞こえたよ。声を聞けば、年齢や人柄程度は把握できる」


 それで年上と把握した。年上というのは、そのときのトーンにとって、年上という意味だった。


「兵士達は焦っていたけれど、僕には君とリッジの会話が聞こえたから。悪意があるかどうかは、声でわかるし、問題ないと判断した。それから、君の下手くそな慰めも聞いていたよ」


 ぐっと力強く唇を噛むしかない。幼い少年と話しているつもりが、それを全て兄に聞かれていた。対象年齢が上がったとなると気恥ずかしさ以外にも情けなさや苦しさまでもが浮上してきた。そして最終的には勝手に盗み聞いてるんじゃないコノヤロウである。


「“何でもお見通しの王子様”で申し訳ない。君の声が、僕は好きだ」


 唐突だった。


「下手くそな慰めを必死でしてた。ちょっと笑いそうになって、でも大切なものができると伝えた君の言葉に、そうだったらいいと願った」


 私はリッジとフローラのことを話していた。けれど、その言葉をトーンも、ひっそりと聞いていた。


「あのときから、君のことがずっと好きだ。消えてしまった君はどこを探しても、耳をすましてもいなかったけれど、今になって、声だけ聞こえてくるものだから、とうとう僕の耳が聞こえすぎておかしくなったのかと最初は思ったよ」


 そりゃあびっくりするだろう。唐突に、授業をしていたら姿はないのに声だけ聞こえてきたのだ。


「でも、間違いない。君は僕がずっと探していた声だった」


 顔も見えないくせに、こっそりと話をした。ときおり寂しそうな顔をするから、気になって仕方がなかった。


「……透明人間だから話したって言っていたくせに」

「そりゃあ嘘だ。君が好きだからに決まってる。照れてたんだ」


 ちなみにこれは全部トーンの膝の中で行われた会話である。もはや何も言えない。


「君がもとの世界に帰るなら、引き止めることはしてはいけないと思った。でも、そうじゃないのなら、存分に伝えるよ。大丈夫、君には選択権がある」


 と、言いつつもトーンは眼鏡の向こうの瞳を優しく緩めて、「でも、実は僕はちょっと耳が悪いんだ。はい以外の言葉は聞こえなくなってしまうかもしれない」なんて、冗談めかしたことを言った。それから、うぐっと言葉につまって、それでも吐き出した私の返答はトーンの耳にしっかり聞こえたというところでわかりやすい説明になるのかもしれない。それより、トーンは一番の笑顔で、もう一回、力いっぱい私を抱きしめた。木々の合間からきらきらと光が落ちて、鮮やかなまでにひゅるりと風が吹いて消えていく。


「そういえば、君ってこんな顔をしてたんだな」


 どうやら私の透明になる力は、オンオフができるようになってしまったらしい。異世界に行って芽生えた力なので、戻って、もう一回来てレベルアップしてしまったのだろうか。

 ずっと話していたのに、トーンは私の姿を理解していなかったのだ。


「い、今更……」

「ああ、今更だ、仕方ない。僕は君がどんな顔でも姿でも、関係なく好きになったんだから」


 顎をくいっとされて説明された。大変なことにこの王子、一皮剥くとでろでろであったらしい。


「十年君を探す間に、僕は諦め上手になってたんだ。なのに戻ってきた君が悪いし、ちょっとは仕方ないと思ってほしい」



 影が少しくっついた。

 それがどういうことなのかとみなまで説明するのは、どうか勘弁してほしい。



 さて。





 物語は、まだしばらく終わらない。


「うーん、アフターフォローはしっかりする派か……」

「あかり、何を言ってるんだ?」

「いやはや、いやはや」


 社畜の証であるスーツは卒業した私だけれど、ドレスとなると少しばかり窮屈だし、やっぱり慣れない。というわけで、新しく国に流行らせたいと考えてはいるが、それはまた今度の話として、今現在、私はお城の一室でじっと新聞を読んでいた。


「……新聞、にしては文字がおかしいような」


 トーンが私の手元を覗き込んで眉を顰めているが、その通り。これは日本の新聞だ。


 枕元に届けられた、私がこちらの世界に来た後についてが書かれた内容であり、私が勤務していた会社の上の方々が、そっくり入れ替わったというような出来事と、締めくくりには昨今の労働状況を問いかけるような一文で終わっている。消えた女性社員については、年齢とともにちらりと載っているくらいだ。私がトラックにひかれそうになったときから時間が経っているだろうから仕方ないかもしれない。


 つまり、私がトラックにひかれてもひかれなくても重要事項が書かれた書類は飛び散って、女神が言った通りになった。女神の深い信念を感じてしまう。


「君の国の文字なのか?」

「そうだよ、まあ、面白くはない話です」


 すでに違う世界のことだ。

 そしてあの女神は、きっと今も社畜を探して、色んな世界に異世界転移させているに違いない。新聞は手を放すとびりびりに破れて灰になって消えてしまう。


「さよならだ」


 窓を開けると、待ってましたと言わんばかりに灰はぐんと空に吸い込まれた。風にのって、ひゅるひゅるとどこまでも遠くに消えていく。たくさんの物語がある。とにかく頑張って走り続けていたあの日のこと。関わった人達のこと。





 ――リッジは少しずつフローラと距離を縮めた。今はだいたい8メートル。それ以上近づくと、「うわあ!」と顔を真っ赤に叫んで、尻尾を巻いて逃げてしまう。


 そこをすかさずアリエル様が確保して、「いい加減にしなさいよ、前は関わったら面倒だと思っていたけど、今は関わらないと面倒だわ。見ててイライラするから次に逃げたら真っ二つに切り裂くわよ」と背後からリッジに囁いて、王子を恐怖に陥れていた。



 ――フローラの屋敷では、働き者のメイドさんがいる。


「一時期フローラ様の食欲が旺盛すぎてどうなることかと思いました。そして今はフローラ様の黒魔術は周知の事実ですので、こっそり隠す必要がなくなり、メイド達一同、仕事が減った喜びで踊りくるってしまいそうです。え、正直すぎましたか?」とセシルさん。


 ――マーガレットとジャスミンは、相変わらずの二人である。


「リッジ王子がダメなら、さらなる玉の輿を目指すわよ。私達にならできるわジャスミン」

「貪欲なあなたが好きよ。けれどもマーガレット、知っている? 最近私達お花コンビって呼ばれているのよ」

「あなたがジャスミンで、私がマーガレットの可愛らしい二人だから?」

「……あなたの魔法の音がとてもおならに似ているから、おならコンビを言い換えて、お花コンビになっているのよ」

「最悪じゃないの……」

「その通り最悪よ……もうちょっとなんとかしてよ!」

「なによ! ジャスミンあんたなんて、すかしっぺみたいな音なくせに!」

「ンキイイイッ!」

「ンギギギギッ!」




 ぐんと空を上ったさらなる先には、一人の女がゆっくりと手のひらを開いていた。さて、次は誰にしよう。あっちも、こっちも助けを求める声が聞こえる。いや、彼らは自分たちが助けを求めているなんてことにも気づかない。だから彼女が連れて行く。少しばかり無茶をしても、消えないでほしいから。どうか、誰も透明になんてならないで。助けてと声を聞かせて。色づかせて。


「世界よ、ホワイトになーあれ。……なんてね」


 小さな声が聞こえた。

 それは一つの神の祈りだ。神様だって、祈ってしまう。


 そんな世界があったって、きっといいかも、ね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪役令嬢に私の体をのっとってほしいと召喚されてしまったけれど、普通の人間なのでもちろんできない。(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ