終幕 空蝉のエレジィ

 あれから六年の月日が経った。


 ソーマ・リュシテン……こっちでならリュシテン・ソーマになるんだろうけど、そこはどうでもいいか。


 ともかくあの日、私たちはリュシテン邸から解放された。白の洞窟へ飛び込んでからの記憶がなく、気付いたら私たちは瑠璃島の病院にいた。私たちの目が覚めるのを待っていた警察の人から聞いたところによると、満君からの連絡を受けた事務員の小宮五月さんが通報してくれたみたいで、泉屋人兵衛の元住居で倒れていた私たちを見つけてくれたらしい。


 驚いたことに、私たちがリュシテン邸で過ごした三日は現実だと一日しか経っていなかったようで、改めてあの狭間が私たちの生きる世界から切り離されていた場所だということを証明していた。


 私たちの尋問を担当していた警察の人たちは意外にも優しくて、怪我と精神的な疲労を考慮してからそれぞれの事情聴取が始まった。だけど、何も知らない人から見れば、劇団の売名に等しい壮大なやらせにしか見えなかったと思う。


 警察にはありのままを伝えたけど、案の定というか当然というか、信じてはもらえなかった。だけど、神隠しに関しては地元警察の理解を得られたから、私たちが劇団員を殺して口裏を合わせている、というような疑惑は向けられなかった。それでもマスコミとか無関係の人たちは私たちへ疑惑を向けて連日病院とかにも押し掛けて来た。


 何しろ人形峠に四人の遺体は無く、焼け焦げたような柱はあってもリュシテン邸の存在を匂わせるものは何一つ見つかっていないのだから。


 長い尋問の結果、生還した私たちに殺害を臭わせる証拠は見つからず、遭難として処理されることになった。そうしてマスコミの執拗な報道もようやく終息した。こうして報道される側になって実感したのは、ありもしないことを無責任に騒ぎ立てるマスコミへの辟易と憎悪だ。


「あれから六年……か」


 今も人形峠は存在し、泉屋人兵衛の元住居も存在している。私の足下にいる人形も、リュシテン邸から逃げ出して来たと思われる人形もまだここにいる。きっと……彼らもあそこにいるんだろう。


 あの狭間の中で、私は置いてきてしまった自分の心を取り戻した。だから、今は死への恐怖がある。だから、今の私なら充分に理解出来る。京堂さんが渇望したどうにもならない未来への絶望と拒絶の気持ちが……。


「佳奈、一人で先に行かないでよ」


 後ろから追い付いて来た瑠偉――本名は鹿島瑠偉かしまるいという。彼女は怒っているかのように私の腕を掴んだ。


「また唄声が聞こえると言われても困りますからね。しっかり掴んでおいてください」


 瑠偉の後ろに続いて、満君――本名は赤城満あかぎみちるという。彼も私の横へ並ぶと、白の水面から突き出た黒い柱へ片手を置いた。


「大丈夫だよ。もう私には唄声なんて聞こえないだろうし……諦観なんて抱いていないから」

 

 顔に浮かんでいたかもしれない愁いを振り払うみたいに、私は瑠偉に向かって微笑んでみせた。


「それならいいけど……」


「大丈夫。過ぎた六年が証明してるよ」


 六年の間に私たちの環境は目まぐるしく変化した。


 機巧人形劇団は、主宰の京堂明夫の死によって、たった六年の歴史に幕を下ろした。スポンサーやお客さんからは延命の懇願があったけど、不吉な噂に翻弄されたうえに四人の役者の遺族や世間がそれを許さなかった。その結果、残された私たち五人はそれぞれの道を歩むことになった。


 西条真耶さんは劇団の終焉と一緒に私たちの前から姿を消し、今でも彼女がどうしているのかはわからない。彼女が仕掛けた盗聴器はそのままリュシテン邸に置いてきてしまったけど、受信は出来るんだろうか……。


 綾香さん――本名、伊集院彩峯いじゅういんあやねさんは、演劇から身を引き、持病と闘いながら占い師として活動している。


 満君は演劇をやめて、今は赤城家と交流があった老舗の有名旅館で働いている。


 瑠偉は演劇をしつつタレントとしても活動していて、最近はテレビでも引っ張りだこだ。


 私は……今は女優兼歌手として活動している。事件後、別の劇団から誘いがきたんだけど、しばらくはどれも断っていた。あまりにも悲しいことが多過ぎたし、取り戻した心と記憶を整理する時間も大学を卒業する時間も必要だった。


 好奇心と野次馬根性を剥き出しにする同級生たちからの詮索を無視して躱してどうにか大学を卒業した私は、京堂さんと親しくしていたとある演出家さんの誘いを受けて女優としての活動を再開した。加えて京堂さんが個人的に援助していたヴィジュアル系バンドの熱心な勧誘を受けてヴォーカルとしても活動している。


「届くかわからないけど……佳奈もこれを」


 瑠偉から渡された花束を胸元に握り締め、私は東雲の遥かに浮かぶ旭日へ手を伸ばす崖の先端に立った。


 ここは命あるモノたちの世界だけど、彼らの世界は背中合わせのように、確かに、存在している。だから、そこへ届くように祈りながら花束を放った。命あるモノだと証明する輝きを放ちながら花束は崖下へふわり、と舞い散り、瑠偉と満君の花束も共に寄り添い、白の海へ消えていった。


「毎年迷うけど……手を合わせるべきなのかな」


「ここで消えていった人たちへの弔いもあるよ。合わせよう」


 私に続き、満君も手を合わせた。


 葵さんも螢さんもシナリオに抗うことは簡単じゃないと言っていた。訪れる人や人数で内容は変わるんだろうから、私たちからすればどこまでが演技でどこまでがアドリブなのか一つもわからなかった。それでも、自分の躰を犠牲にしてでも私たちを助けようとしてくれたのは事実だし、相澤さんは幽霊になっても私のことを助けてくれた。彼らには感謝してもしきれない。


 満君と西条さんの証言からして、相澤さんは今も私を捜しながら……迷い込んだ人を助けているんだろうか……。


「佳奈、みんなもあの人たちも……まだあそこにいるのかな」


「……そうだろうね」


「あそこにいるのなら……連れ戻すことは出来るのかな?」


 瑠偉の言いたいことはわかる。私もそれは何度も考えた。だけど、


「葵さんや螢さんが出口を知っているのに出れないのはそれだよ……。生きた命しか出れないの……」


 彼ら人形たちがあの狭間から出るには、迷い込んだ人間を殺して役を押し付けるしかない。


「じゃあ、あの屋敷も役者も……?」


「うん。永遠にあそこに存在しているんだと思う。六年経った今も……ね」


「どうすることも出来ないんでしょうか……僕らの力じゃ……」


「冷たい言い方かもしれないけど……線を引かれたんだよ。もう……私たちにはどうすることも出来ない……」


 この現実という世界は、定められた結末へ向かう。それから逃れる術を人は持たないけど、彼らはその術を持ってしまった。望む、望まないに関わらず……。


「……眩しくなってきましたね」


 目を庇いながらの言葉通り、私たちを取り囲む人形峠は白銀の輝きを発し始めた。急かすようなその眩しさは、『お前たちは住む世界が違うのだから、早くお帰り』と、山そのものが命あるモノを歓迎していないような気さえする。


「帰ろう」


「佳奈さん……?」


「山に歓迎されていない気は感じるでしょ? この山に住めるのは人形たちだけ……去年もそんな感じだったからね」


「これ……勝手な想像なんですけど、車さんたちが警告してくれているのかなって……」


「また迷い込む前に……って? そうなのかな……」


 その真偽は永遠にわからないだろうけど、永遠を望んだ人が最期を迎えて、破滅を望んじゃいなかった大淀さん――本名は天海車あまうみくるまさんだ。鈴谷愛里ー―紫藤茜しとうあかね。天龍拓真さん――須田賢人すだけんとさんたちに齎された残酷な結末は……今でも考えると胸が痛くなる。


 永遠の代わりに与えられたのは有限の身体。有限の代わりに与えられたのは永遠の躰。どちらが限りある命あるモノたちの幸せなのかは私にはわからない。だけど、私個人としては、限りある命だからこそ、自分を大切にして、愛した人たちを大切にして生きていきたい。


 内心で永遠を拒んだ私は、いずれ朽ち果てる有限の身体を自分の力で振り返らせ、足下の機巧人形を一瞥して歩き出した。



 永遠は……優しくなんてないの……。



「……ん?」


 忽然と、誰かに囁かれた気がして、私は立ち止まった。その身体を風が撫で抜けるけど、耳をすませて待ってみても誰かの囁きはもう聞こえてこなかった。


「佳奈、どうしたの? 帰るんでしょう?」


「……うん。今行く」


 現実の呼び声に従い、私は振り返らずにその場を後にした。


 思い出す葵さんの寂しげな唄声。今思えば、あの唄声はセイレーンなんかじゃなく、山を覆う命なきモノ――空蝉たちが奏でる哀歌エレジィそのものだったんだ。



 お姉さん……悲しそう……。


 父様と母様が……いつか帰って来てくれると……信じて唄っているの。


 それじゃあ……私のお母さんが教えてくれた唄を教えるね。



 私が教えたそれは、子が遠い国の母に呼びかける唄。


 葵さんは自らの創造主――ソーマという人に呼びかけ続けるんだろう。永遠に……あの狭間の屋敷の中で……。


 瑠偉の車に乗り込んだ私は、金色に染まる機巧山を見つめながら、見知らぬ家人に怯える自分を慰める葵さんの姿を思い浮かべた。母のように優しい笑みを浮かべながら唄う彼女の姿を思いながら。


 私たちを乗せた車は機巧山を遥か彼方へと誘う。その先には地平の岩戸よりいずる旭日の天照が、全てを金色に染めあげていった。
















 


 荒れ狂う吹雪と白い霧に支配された機巧山。雪は凶器となって乱れ舞い、濁流のような白霧は命あるモノの視界と体力を容易く奪う。


「ねぇ……本当に道はあってるの……!?」


 かまくらのような分厚いコートで身体を固めた七人の男女が、機巧山を歩いていた。その様子はさながら死の雪中行軍のようで、足下は降り積もった雪で満足に動かせず、僅かに露出した肌を雪たちが斬り付けている。


「こっちに民家みたいな明かりが見えたんだよ……!」


「だからぁ……その明かりが見間違いじゃないかって言ってるの……!」


 吹雪の中で言い争いになる二人の男女。その男女を尻目に、一人の少女が七人の列から離れた。


「あっ……ちょっと、どこ行くの?!」


「唄声……」


「はぁ?」


「唄声が聞こえる……こっちから……」


 自分たちには聞こえない、と訴える六人の声を無視し、少女は白霧の中を突き進む。


「追いかけろ……!」


 六人は少女を先頭にして進む。視界も雪もさらに酷くなるが、不意に少女が立ち止まったと同時に雪の勢いが弱まり――蜃気楼のように揺らめく建物が七人の前に姿を現した。


 助かった……その安堵を連れて、七人は屋敷の裏口に押し寄せた。


「ごめんください……誰かいらっしゃいませんか……?」


 ドアを叩いて家の人を呼んだ。すると、


「こんな夜更けに……何のご用でしょうか」


 眼帯を付けた愛想のない執事の指示で、玄関にまで向かわされた七人は、人形の仮面を付けた少女の口添えで屋敷の中へ入って行った。




                      了

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空蝉のエレジィ かごめ @reizensan

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