フォルテ#1
「はあ? 名前が分からない? 記憶喪失ってやつか?」
面倒くさそうな顔をしている白い犬――リル。
厄介事を抱え込んでしまったと思っているのが態度で分かった。
そりゃ俺だって、面倒で厄介な状況だと思う。
「多分、そうだ。名前どころか、自分がさっきまでいた場所の名前も分からない……」
しかも大切な仲間の顔も名前も思い出せない。
一緒に切磋琢磨してきた、オケのみんなだ。
何か大事なものがぽっかりと失われた感覚がする。
「仕方ねえな。とりあえず森を出ようぜ。じっちゃんに相談すりゃなんとかなるだろ」
リルはしっぽを二回横に振って、森の出口へと歩き始める。
俺は「てっきり山かと思ったけど」と置いて行かれないように後に続く。
「近くに人……がいるのか?」
「あん? まあな。魔族だけじゃない。ちゃんと人もいるぜ」
「魔族……さっきの奴もか?」
リルは不愉快そうに「あんた本当に記憶失くしているのな」と言う。
何か悪いことでも言ったのだろうか?
「あれは魔物だ。魔族とは違う。俺は事情知っているからいいけど、他の魔族にそんなこと言うなよ」
「ち、違うのか……でも言っちゃいけないって?」
「あんただって猿とかと間違えられたら、気分悪いだろうが」
魔族と魔物は人と猿と同じくらい違うのか……
あまり不用意なことは言えないなと俺は気を引き締めた。
「あ。忘れるところだった。そこの焼き豚、担げよ」
「……えっ? 担ぐ? こんな大きいのを?」
「できなくねえだろ? 人間なんだから」
俺は首をぶんぶん横に振って「できるわけねえだろ!」と叫んだ。
「何キロあると思ってんだよ! 持てるわけねえ!」
「魔法使えばいいだろうが。手に持っているの杖じゃねえのか?」
はっとして右手を見る。
てっきり逃げたときに手放してしまったと思った指揮棒が、しっかりと握られていた。
「これは指揮棒だ。杖じゃない」
「指揮棒? なんだそりゃ。聞いたことねえ」
「指揮棒は演奏を指揮するための道具だ」
「……なんで音も鳴りそうにないもんで指揮するんだよ」
目に見えて馬鹿にした顔になるリルに、俺は説明をしようとしたが、奴の「仕方ない、ここに置いていくか」という声で結局できなかった。
「元々、狩りをしに来たわけじゃねえし」
「じゃあなんで森の中にいるんだよ」
「じっちゃんの腰に効く薬草を見つけに来たんだ。そいつはもう手に入れたから、後は帰るだけだった。なのにどうして、あんたを見つけちまったんだろうなあ」
心から後悔している言い方に「だったら見捨てればいいだろう」と強がりを言う。
ここで見捨てられたら、どうしたらいいのか分からないのに。
「あほか。見捨てたら『人魔協約』に違反すんだろ」
「……人魔協約?」
「本当に面倒くせえな! 世界の常識だろが!」
リルは早足になって森を移動する。
俺は「早いって!」と言いつつ追いかけた。
◆◇◆◇
数時間後、森を抜けると、のどかな農村らしき集落が見えた。
海外留学で見たヨーロッパの田舎のような光景。
でも決定的に違うのは、住民が人と魔族が入り混じっていることだった。
「安いよ安いよー! ボロンガが一匹、百ブロンズだよー!」
「そこの兄ちゃん。山菜欲しくないかい? さっき採ったばかりの新鮮な山菜だよ」
村の中に入ると、活気のある声がそこら中に響く。
しかしその声の主は鳥人間だったり、鬼そのものだったりする。
中には人間もいるけど、俺みたいに動揺していない。
「…………」
「何ぼうっとしてんだよ。別に珍しくねえだろ」
「ここは、本当に日本なのか……?」
つい独り言を呟いてしまう。
リルは「ニホン?」と不思議そうに首を傾げた。
「さっさと行くぞ。じっちゃんの――」
「おう! リルちゃんじゃねえか!」
市場の真ん中で俺たち――いやリルだ――は声をかけられた。
かなり意地悪そうな声だった。
振り返ると、悪そうな顔をした豚の化け物が三人いた。
多分、魔族なんだろう。
「けっ。スピーネか。何の用だ?」
「冷たいねえ。せっかく仲良くしてやろうって思ったのに」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべるスピーネと呼ばれた魔族。
まるでいじめっ子だなとなんとなく思った。
スピーネは黒い服に身を包んでいて、後ろの二人も同じ格好をしている。
しかし二人と違って、スピーネは赤いハチマキをしていた。
「俺は忙しいんだ。くだらねえ用なら後にしてくれ」
「大事な用さ。俺たち『シールド』の元メンバーのリルちゃんよ……って誰だお前?」
そこまで言った後、ようやく俺に気づいたらしいスピーネ。
俺は「名乗りたいのは山々なんだが」と答えた。
「生憎、名前を忘れてしまったんだ」
「ああん? 俺に名乗る名はねえって意味か?」
「違う。本当に忘れちまったんだ――」
そう言った瞬間、スピーネが俺の頬を叩いた。
平手で軽くだが、たたらを踏んでしまう。
「軟弱な人間だな。引っ込んでろ」
「てめえ……なにすんだゴラァア!」
臨戦態勢になるリルに対し「そう来なくっちゃな」と笑うスピーネ。
後ろの二人も首や指を鳴らし始めた。
「お前はまだ、抜けたケジメを取ってねえ。それにリーダーも許可してくれたぜ」
「許可? 何の許可だ?」
スピーネは笑みを消して――
「お前をぶっ殺す許可だ――クソ犬が!」
一斉にリルに襲い掛かった!
「ちっ――あんた、どっかに逃げてろ!」
殴りかかってくるスピーネたち。
自分が一番危ないはずなのに、リルは俺のことを慮ってくれる。
「おいおい! シールドの幹部になった俺相手に、よそ見する暇あるのかよ!」
リルは防戦一方だった。口から火の玉を出そうとしても、三人で襲い掛かってきたら打つ隙がない。
一対一だったらなんとかなるかもしれない。
一対二なら上手く対処できたかもしれない。
でも流石に三対一は――
このとき、ポケットに入れていた指揮棒が赤く光った。
取り出して右手で構える。
指揮者になってから、ずっと持っていた愛用の指揮棒。
「なんだ……振れって言っているのか?」
もちろん、声が聞こえたわけじゃない。
指揮棒は何も言わないし語らない。
それでも心に訴える何かを感じた。
まるで音楽のように――
「分かったよ……振ってやるさ!」
俺は指揮棒を構えて。
リルに向けて振った。
まるでオーケストラの指揮を執るように――
「――あ? なんだこれ?」
リル自身、自分の変化に気づいたようだった。
動きが目に見えて――速くなる。
そして――
「なっ!? こいつ急に――」
スピーネの驚愕する顔。
他の二人も同様だった。
「喰らいな――スピーネ!」
本来の力が何十倍に引き上げられた、横殴りの爪の一撃が、三人の魔族を吹っ飛ばす!
「ぐええええ!?」
その勢いは凄まじく、三人を吹き飛ばしただけではなく、地面を抉るように、爪の痕跡が残された。
「はあ、はあ、なんだってんだ……」
息を切らしながらリルはゆっくりと俺に近づいた。
「ぜえ、ぜえ、つ、疲れた……」
俺も肩で息をするほど、疲労していた。
まるで長時間の曲の指揮をしたような感覚……
「あんたが今のやったのか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……息が……」
リルはなんとも言えない顔をしていた。
俺も同じ気持ちだったから分かる。
なんなんだ、この力は……これが魔法なのか……?
ただの日本人の俺が、魔法を使えるなんて……
「落ち着け。まずは……」
「こ、この野郎……!」
リルの言葉を遮って、スピーネが怒声を放った。
身体中に切り傷があってボロボロだが、大怪我は負っていないようだ。
他の二人は気絶しているのに、タフな奴だった。
「その面、覚えたからな! 今日からてめえもリルと同じ、シールドの敵と見なす! せいぜい後悔することだ!」
捨て台詞を吐いて、気絶している二人を引きずってどこかへ逃げていくスピーネ。
周りにいる人や魔族はひそひそと俺たちを見ながら話している。
「おいあんた。ここから逃げるぞ。走れるか?」
「い、いや。ちょっと無理……」
弱音が出たとき、リルの背後に「ちょっと話を聞かせてもらおうか」と一人の大男が立っていた。
どことなくゴリラっぽい、筋肉質の男だった。茶色の鎧を着ていて、手には槍を携えている。年齢は四十代くらいだろう。やたらと物騒な雰囲気がある。
「あ。マゴール……」
「さんを付けろや! この駄犬が!」
まるで釣鐘を突いたような鈍い音の拳骨。
リルはその場で悶絶する。
「うぐぐぐ……痛てえよ……」
「シールドを抜けたと思ったら、問題を起こしやがって。そんで、そちらは見ない顔だな」
ぎろりと睨まれたので「あの……実は、記憶を失くしていまして」と正直に答えた。
「そこのリルに助けてもらったんです」
「ふん。人魔協約ぐらいは守れるのか。それは褒めてやる。さて。お前らを連行する」
ゴリラ――マゴールは獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「こってり絞ってやる。衛兵詰め所に来い!」
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