指揮者は異世界でタクトを振るう

橋本洋一

前奏

 俺は今、人生の絶頂に立っていた。


 目の前に広がる一流の演奏者と高級な楽器。

 一糸乱れない、息の合った演奏。音同士が見事に調和を取れている。

 それらの指揮を執るのは指揮者である俺だ。このオーケストラは俺の指揮棒タクトに従って演奏している。


 ここまで来るのは、並大抵の努力では足らなかった。小さな頃からピアノやバイオリンに触れ、指揮者になるために音大に入学し、そこで首席を目指し毎日音楽のことだけ考えていた。だから弱冠二十五にして、日本で最高峰の舞台に立てた。


 色々と犠牲にしたものは多かった。音楽以外の時間など俺には無かった。

 だけど目の前には仲間がいる。オーケストラを構成する演奏者たち。自惚れでなければ、みんな俺を信頼してくれていると思う。そして俺も仲間のことを信頼している。そうでなければこんな大舞台には立てやしない。


 楽器は一人でも演奏できる。

 でも調和を生み出すには仲間が必要だ。

 そのことに気づかせてくれたコンミスの彼女には、感謝しても足らないくらいだ。それまでの俺は傲慢な男だったから。


 もうすぐ素晴らしい音楽の時間が終わる。

 指揮棒を振るう手に力が入る。

 今までミスは無かった。練習を積み重ねてきたこともそうだが、信頼している仲間がいるから、安心ができる。


 俺の持てる全ての力を注ぎこんだ一曲。

 そして俺たちの全てを出し切った演奏。

 涙をこらえるために、目を閉じた。

 最後のシンバルが鳴る――


「…………?」


 うん? シンバルが鳴らない?

 まさか、ミスをしたのか?

 そう思って目を開けた――


 俺の目の前にはオケの仲間たちの姿は無く。

 それどころかコンサートホールですら無く。

 見知らぬ山の中に、俺はいた。



◆◇◆◇



「……あ? ここ、どこだ?」


 開いた口が塞がらないとはまさにこのことで、開けた目をもう一度閉じて開いても、俺が山の中にいる事実は変わらない。

 いきなりの展開でどうしていいのか……夢でも見ているのかもしれないと頬をつねる。痛かった。夢でも痛覚があるのか、それとも夢じゃないのか……


「……おい! 誰かいないのか!」


 大声で呼びかけるけど、返事は返ってこない。

 山の中で反響するだけだった。


「くそ! なんだってんだ!」


 しょうがないから俺はその場で状況を確認することにした。

 正直混乱していて、まともに整理できるか不安だが、知らない山の中を歩き回るのは危険だと思えた。


 まず今は昼だ。太陽が頭上に見えている。次に俺は木々に囲まれた山の中の広い場所にいる。地面は斜面ではなく平らで、下には短い草が生えている。そして手には指揮棒がある。俺がいつも使っているものだ。最後に服装は燕尾服だった。だから演奏の途中で俺は山の中に移動したことになる……


「おいおい、テレポートでもしたのかよ……いや、ありえねえか」


 状況整理しても、分からないことが多すぎて、事態が好転しない……というより、飲み込めていなかった。

 混乱しつつ、一番の気がかりはオケの仲間のことだった。俺一人がこんな場所に移動しているのなら良いが――いや良くないが――他のみんなも同じ状況だったらと思うと焦りが生まれる。


 それにコンサートもどうなったのだろう。指揮者の俺がいきなりいなくなったら、俺以上に混乱してしまうのではないだろうか。観客は八百人くらいいて、映像も記録されていた……


「……って、なんで俺はここに留まっているんだ。山を下りて、とにかく会場に行かないと」


 ようやくその考えに思い至った。混乱しているとはいえ、今までごちゃごちゃと考えていたのは愚かしい行為だった。

 急いで山を下りよう。もし日が暮れたらますます難しくなる。今が昼で良かった――


 そのとき後ろから、ガサガサと、音がした。

 もしや人か――


「――ぐるるるる」


 振り返らなければ良かった。

 後悔しても遅いけど、そう思わざるを得なかった。


 大きな大きな猪が、俺を睨みつけている。

 明らかに捕食しようと狙っている……!


「う、うお……うおおおお!?」


 こういうとき、目を逸らさずに後ろに下がるのは最適解らしいけど、パニックになった人間はそういう理屈を思い出せないし実行できない。

 だから――猛ダッシュした!

 運動は苦手だけど、必死になって足を動かす!


「ぐるがああああ!」


 猪とは思えない獰猛な怒声が辺り一面に響く。

 ていうか猪なのか!? 猪ってあんなに大きくて、牙も大きかったか!?

 まるで化け物じゃないか!


「ひ、いいい、ああああ!」


 口から声にならない悲鳴が上がる。

 木の密集しているところに走り込んだ。

 くそ、燕尾服とサイレントシューズじゃ走りにくい……!


 後ろからバキバキと木をへし折る音がする。

 まさか、あの化け物が!? そうとしか考えられない!

 運動不足の若者である俺だったら全身骨折してしまう!


「う、おっと――」


 やはりと言うべきか、当然、木の根に引っ掛かって転んでしまった。

 強かに打ってしまったが、何とか立ち上がろうとして――


「ぐるふふふ……」


 あ、駄目だ。俺は死ぬ。

 だって目の前に化け物が舌なめずりしているんだから。


「くそ、来るな……来るなあ!」


 手当たり次第に石や木の枝を投げつけるが悪あがきだった。

 突進しようと後ろ脚で地面をこする化け物。


「い、嫌だ、死にたくない……」


 こんな意味が分からないことで死にたくない。

 こんなどこか知らないところで死にたくない。

 だ、誰か、誰か――


「誰か助けて――」


 化け物が、俺を殺そうと、突進してきた――


「なぁにしてんだあああああ!」


 唐突に響き渡る大声。

 恐怖のあまり目を閉じることを忘れていた俺には、一部始終が見えていた。

 猪の化け物の真横に大きな火の玉がぶつかった。

 そのせいで化け物はバランスを崩し倒れてしまう。しかし突進の勢いのせいで、横になった後もずずずと動く。


「あんたよう。無抵抗でやられようとするなんておかしくねえか? 自殺なら余所でやってくれ」


 何度目かの驚愕か忘れたが、いきなり山の中にいたことや巨大な猪よりも衝撃的だった。

 俺を助けてくれて、声をかけたのは――


「あ、ああああ……」

「あん? なんだその顔」


 ――喋る犬だった。


「まるで初めて『魔族』を見る顔だな。かはは、そんなわけねえか」

「ま、魔族……?」

「なんだその反応。まあいいや。助けてやるよ。その代わり、こいつは俺の獲物だ」


 真っ白の体毛に覆われた、大型犬ぐらいの喋る犬は、笑いながら自分よりも大きな化け物に挑むようだった。

 勝てるのかと思っていると、犬の口元が赤く光る――


「焼き豚にしてやるよ――喰らいな!」


 先ほどよりも大きい火の玉。離れているのに熱を感じる。

 ゆっくりと起き上がろうとした猪――その前に火の玉が直撃する!


「ぎゃあああああ!」


 断末魔の声をあげて猪は火に包まれた。

 じたばたしているが、あれでは助からないだろう。

 しばらくして動きが止まって――死んだ。


「かはは。ざっとこんなもんだ……そんで、あんた大丈夫か?」

「え、あ、ああ。大丈夫だ……」


 満足そうに笑う犬に、何とか返答する。

 犬って喋れるのか。そして口から火を噴きだすのか……


「そんなわけねえだろ! なんなんだこれ!」

「うおっと!? なんだよいきなり怒鳴って。変な人間だな」


 頭を抱えてじたばたしている俺に呆れた声をかける犬。


「ここはどこだ! なんで俺はこんなところにいるんだ!」

「なんだそりゃ。最近流行っている哲学ってやつか?」

「そうじゃない! ……なあ、ここはどこなんだ?」


 俺のことを奇妙だと思っている白い犬は、少し逡巡して答えた。


「ここは『フォルテの森』だよ」

「フォルテの森……?」

「そんでさ、あんた変な奴だけど、変な恰好しているよな。見たことねえや」


 じろじろと眺める犬だったが、思い出したように「そういや名乗ってなかったな」と言う。


「じっちゃんから初対面の相手には自己紹介しろって言われてんだ」

「は、はあ……」

「俺の名前はリルだ。あんたは?」


 名前を訊ねられているのだろう。

 俺は答えようとして――気づいた。

 俺の名前って、なんだっけ?

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