肆
「どこへ消えた……?」
妖狐の足ははやく、特に朱色キツネは人間の目では追えない。特に舞台の上では平伏した人間が障害となり、途中で見失ってしまった。
「さっそく、問題ありました?」
呑気に階段を上ってきたのはキツネではなく近衛大将だ。
「今、毒の香とやらを消して、内裏のなかを換気させてるからな。ネズミちゃんたちの無事も確認した。元気満々でしたぜ」
私たちつかわしめは毒の香のもとである薬草を毎日少しずつ、お茶に煎じて飲んできた。香への耐性がついているかはわからず不安ではあったが、そうか。
「よかった」
「トキちゃんには、これな」
鞘ごと刀を投げる。
女房姿で受け取ったトキは嬉しそうに刀を抱きしめた。前世で常に帯刀していたトキの愛刀だ。大将へお願いごとってこのことだったのか。
「ああ……っ、ありがとうございます!」
トキは刀を抜かずにすぐさま腰にさすと、真っ白な手のひらをコンへ差し出した。
同時に空にいたツクモが急降下し、となりにならぶ。
「小亀に占がおりました。今です」
舞台を見やる。
玉藻姫が、頭から水晶のはめこまれたかんざしを抜き、美しいまとめ髪を乱雑にほどいていた。
「承知しました」
コンが袖のなかで忙しなく指を組む。足もとの魔法陣からイタチ三匹が飛び出すと、ツクモは翼をしまい、イタチたちへ優しく語りかけた。
「ユミガラ、ゲン、ユカゲ。お前たちに命じるのは、これが最後だ。いいね」
「はい」
「ではトキちゃんを弓士とし、神器へとお変わりなさい」
「仰せのとおりに」
二匹はコンの上背ほどあるおおきな弓に、ユカゲはトキの右手を包みこむように変化した。
「方角は南」
トキが矢を構える、その方角は舞台の中心点──玉藻姫だ。
小亀の占は、厄災の刻と方角を示す。
トキは、イタチの弓矢は、厄神を封じるため今ここに在る。
舞台を見やれば、御髪を乱したまま、玉藻姫が媚びるように話し始めた。
「ごめんなさいねぇ? 私ったら千年生きても頭足らずで」
帝の足もとで震えていたウサギの首をひっつかむと、
「愚か愚かって、うるっさいわねぇ。圧倒的な力をもつものに、頭なんざいらないんだよ……っ!」
水晶のかんざしをウサギの腹へとつきたてる。
それから打毬のときのように腕をふりかざし、高御座の建つ台座の上まで投げこんだ。
「白拓……!」
前世で主人であったヤバネがウサギのもとへ飛び立つ。
痛みに耐えながらも起き上がったウサギは紅い瞳をうるおわせ、泣いていた。その瞳に狂気は映らない。
「はやく、逃げて」
皮肉にもその一瞬、白拓の意識は甦ったようだった。だが腹に刺さったかんざしがひとりでに抜けると、地に落ちた衝撃で破裂した。
厄災──、桜疱瘡だ。
玉藻姫は大口を開けて笑った。
「キャ────ハハハハハ! 目に見えぬ厄災には手も足も出まい! その美しい顔を醜いあばたで埋めてやるわ!」
「あら、私のことを美しいと認めてくれたわ」
となりでコンがうっとりと言う。
「それ以外に表現しようがないからね、ユキは」
「はぁ?」
玉藻姫は血が滲まんばかりに歯噛みした。
近時が結界を張っているかぎり、桜疱瘡は誰にもかからないし、内裏の外へ漏れることもない。
玉藻姫は目をどんぐりにして、滑稽にも訊ねてきた。
「な、どうして……! なぜ倒れない!」
「皇后様のあやつる厄神を、存じ上げておりますゆえ。水晶が依代であり、また水晶に封じられることも」
コンは悠然としながらも、指を忙しなく動かした。今までもずっと背中に納めていたように、肩から一本の矢を抜く。
「マサル、お願い」
「かしこまりました」
マサルさんが水晶の矢尻に浄火を灯す。
「ヤバネ」
「はい」
「今まで、ありがとう。楽しかったよ」
「……私もですよ」
ヤバネが尾に巻きつく。
矢に吸いこまれるように形をなくしていくヤバネに、涙がこぼれた。
矢に厄神を封じるため、ヤバネはもう現世へ戻れない。
謝ろうとする舌を必死に操って、私は叫んだ。
「私も、ありがとう! 栗も、お餅も美味しかった……!」
「うわ、最後の言葉がそれ? 意地汚い」
──でも、嬉しい。
ヤバネは確かにそう呟き、矢羽となった羽を振った。磁石のように、トキの手のなかのユカゲに吸いつく。
マサルさんもまた、涙声に唱えた。
「神器破魔矢、
雷解きの閃耀──?
「まさか、雷鳴の中宮とかけたとか言わない?」
ボソリと、コンに囁く。
「たまたまだよ。鬼やらいは麒麟の落雷で閉幕させていた。憶えてない?」
「側室たちは帝の神楽が終わると同時に退がっていたから。……待って、そういえば」
神楽のあとに息を切らしていた帝を気遣い、宴の席へ戻ったあのとき──。帝に見初められたあの日、雷が落ち、動けなかったのは立春前の、鬼やらいではなかったか。
奇しくも、雷ではじまった帝との宿縁が、雷で終わろうとしているとは。
「では、麒麟に伝わっているのね」
「玉藻姫に勘づかれぬよう、直前になってしまったけれど、ほら」
玉藻の大殿の方角から馬具を取り払った真っ白な白馬が、颯爽と姿を現した。
「雷は厄神に落ちる」
トキの細腕がユカゲに導かれるように矢をつがわせ、ゲンをひいた。
白夜のような空が暗闇に戻ったかと思うと、ひと筋の閃光が舞台へ走った。
「キュャァアアア──────ッ」
女の呻き声ではない、キツネの断末魔が雷鳴と共に耳をつん裂く。
なんとも呆気のない最後だ。
コンとマサルさんは両手を拳にして喜んだが、
「やった! 成功だ」
「待って。まだ安心できない」
落雷は玉藻姫へ直撃した?
さすがに直視はできなかったが、雷電はからだではなく、つま先へ少しそれていなかっただろうか。それに、破魔矢の落雷に爆風は起きなかったのに、玉藻姫に近い兵士たちが側撃を受けたのか意識を失っている。
なにより、玉藻姫が立ったまま床に崩れていない。肩から蒸気を排出するも、その瞳は濁っておらず、怒りの炎をたぎらせ私を見据えている。次には、煙を吐いて言葉を紡いだ。
「ふ、……ははっ、妾に、雷は通じぬと言ったはずだ」
玉藻姫に致命傷を与えられなかったということだ。これでは果たしてほんとうに厄神を封じられたのかわからない。確かな手ごたえがなく、一抹の不安が胸にくすぶる。
電撃により、すぐには動けないだろうが念には念を、呪い言を吐いた。
──玉藻姫は、その場から一歩も動けない。
雷の後遺症もあるのだ、これでしばらくは目を離せるだろう。私は突っ立ったままの玉藻姫へ背を向け、高御座を見上げた。
台座ではツクモがウサギを安心させるように、やわらかく語りかけていた。
「今、私の主人が傷を癒やしてくれるからね」
「でも、厄病は……?」
「大丈夫。近時どのの結界がある限り、厄病はひろがらない」
「近時──? 中宮の専従であった、藤森近時どののこと?」
「そう。それに、厄神は破魔矢で封じた。白拓、お前はもう自由だよ」
「じ、ゆう?」
ウサギは首をフクロウのように反転させ、ニタリと笑った。
「どこが」
ふたたび涙をこぼした瞳の色が、毛にうずもれ白い。
「ご丁寧に、教えてくれてありがとう」
「白拓、お前──」
白拓はからだを直線にして高御座のなかへと入っていった。御簾をすり抜ける際に、金属のような質感に変わっていたように思う。まるで、帝のもつ槍のような──。
「まずい! ……近時が危ない!」
「近時どのが?」
トキがいちはやく階段を駆けのぼり、正面の御簾をバッサリと斬り落とした。せきとめるものを失い、鮮血が階段へ滴り落ちる。
近時の腹には槍が貫通し、外から見える肌は桜模様の湿疹が花咲いていた。
近時のからだを足蹴にして槍を引き抜いたのは、
舞台に立っていたはずの、弥嵩帝だ。
「ミ、カサ……」
見通しの良くなった高御座で、ミカサは顔を隠すことなく立っていた。人間とは思えぬほど深く怒りに皺を刻んでいるが、紛うことないミカサ本人だ。
背後の舞台を見下ろす。
舞台に立つ鬼面のものは、尻から生えた二本の尻尾を、嘲笑うかのように振った。
朱色キツネは姿をくらませるふりをして、すぐそばの帝と入れ替わっていたのだ。帝そのままに化けずとも、鬼面と羽織りさえあればごまかせる。朱色キツネはやおらに鬼面をはずすと、朱夏の顔で卑しく笑った。
「私の策だよ」
ミカサの平坦な声に、再び高御座を見上げる。
「あの紅いキツネが向こう見ずに真正面から攻めこもうとするから、面を授けて私の身代わりにさせた。木偶の朕を視界に入れている人間など、あの場に居なかったからね。舞台下を通り抜ければ幸い、雷も避けられた。目耳にうるさい落雷のおかげで容易く入りこめたよ。入りこめた? ここは、朕の玉座だ……!」
容赦なく、近時の腹に二度、三度と繰り返し槍を突き通す。膝から落ちた小亀がキュウキュウと、か細い鳴き声をあげた。
「近時……! 貴様だけは決して、決して踏み入れてはならなかった……っ!」
「ミカサ……、お願いよ、もうやめてっ!」
「朕の槍を受け、未だ生きていたとは……、これほどまでに醜くなってもまだ、雷花と通じあっていたとは……!」
槍……?
つかわしめが変化したその槍は、厄神の力を宿したもの。
ミカサは厄災の槍を、自身のものだと、そう言ったの?
「そ、んな……、ミカサが、厄神の契約者」
前世で、私の御座に厄病を振りまいたのは、ミカサだった──。私や近時だけでなく、罪のない女房たちまでも。
玉藻姫ではなかった。彼女では。
「つまりは、厄神は封じられなかった?」
破魔矢が放たれ雷が落ちるとき、ミカサは舞台下にいた。雷は帝を狙ったが、玉藻姫のからだと床が邪魔をして、届かなかったのだ。
「コン、……矢は、矢は、もうないの!?」
「ない」
コンは空を仰ぎ、涙を溢れ出させていた。
「近時どのが張っていた結界が、解けていく」
白夜の空が闇に染まっていく。夜のはじまりだ。それは近時の絶命を意味していた。
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