キツネでなくてもわかる。

 玉藻姫から溢れ出す、濃霧のような憎悪の気配。

 護るように立つトキの背後で、コンは印を結ぶため両手を忙しなく動かしていた。


「一旦退こう。みんなもはやく正殿に戻って」

「コン、待って。その正殿の様子がおかしい」

 

 太鼓の音が消え、耳をすませば先ほどまで喧騒としていた殿内がひっそりとしている。さてはと、黒点の鼻をスンと一度、ひくつかせるとビリビリ、総毛立った。


「みんな、入ってはダメ! なかで毒の香が焚かれている……!」

「文殿は!」

「もちろん焚いているよ? 内裏の殿舎のすべてにね」


 すぐそばで耳に障る声がする。

 玉藻姫だ。

 その手に掴んでいるのは太鼓の楽師の首。玉藻姫は首を天高く放り投げると、帝を包みこむようにして立った。肩にのった朱色キツネもまた、総身で怒りに燃えたぎらせているのがわかる。

 玉藻姫は私へつま先を向けて言い放った。


「卑しいコギツネちゃん。こそこそと隠れたお仲間は、今ごろ痺れて動けないよ?」


 殿内に隠れたネズミや、膝を組み詠唱を続ける近時の姿が目に浮かぶ。玉藻姫は楽師の血に濡れた指を二本、豊満な胸もとへ差し出した。


「──さぁて、二択だ。屋根の下へ逃げこみ、ゆるやかな死を待つか。舞台の上でこのまま妾に八つ裂きにされるか」


 徐々に爪をのばしていく。


「さぁ、さぁ、お選びよ……!」


 同時に辺りに蔓延る腐臭。臭いは私にしかわからないが、みんな袖や扇で口を塞いだ。千年染みついた瘴気が爪から溢れでているのだ。

 陰陽生のひとりが、声を震わせて言う。


「これが帝と、皇后……? まるで鬼じゃないか」


 私は尻尾を振ってうなずいた。

 鬼面をかぶり、突っ立つ帝と瘴気をまとう皇后は、誰がどうみても祓うべき対象だ。

 玉藻姫の爪先が口を開いた陰陽生に定まる。


「コン!」

「うん。思ったとおり、香は焚かれていないそうだ。行くよ!」


 陰陽生の首に切っ先がかかる寸前。陰陽生は体ごと舞台へ消えた。

 消えたのは、ひとりだけではない。


「はぁ?」


 玉藻姫の青筋が頬にのびるほど深く刻まれていく。

 私がその様子を見下ろしていたのは舞台から遠く離れた正殿、大階段上。

 ──帝の御座、高御座たかみくらのなかだ。

 陰陽生たちは全員、高御座の前にせり出た庇へと、転移していた。

 今、舞台の上に立つのは帝と玉藻姫だけだ。その床下ではきっと、今朝がたコンの描いた魔法陣がところ狭しと青光りしている。


「準備していたといえど、こんな大人数の転移、前例はあるの?」

「もちろんないけど、鍛錬はした。今日は絶対に役に立ちたかったから!」


 無邪気に笑うが、とんでもない奇才の持ち主だ。コンをよしよししたいけれど、あまり猶予はない。その代わりに私はコンの袍にありったけの冬毛をまとわりつかせ、頬に口付けた。


「トキ、着付けを」

「ではこちらへ。こんな時にまでコンどのを惑わせないでください」


 そんなことしてないよね?

 人間の足で立ち上がり、改めてコンを見やると顔を真っ赤にして真っ白な両袖をひろげていた。


「コンどうしたの、ツクモみたいだよ」

「だって、みんないるのに! 近時どの、見ないでくださいよ?」


 うなずく近時の耳も赤い。

 近時とつかわしめの転移は居場所を特定できぬようにと、私たちが出てすぐに済ませている。帝の玉座である高御座には香は焚かれないだろうと、先んじて指定したのはコン自身だ。


「ほんとうに、目閉じてます?」


 そんな機転の利くコンが、薄目を開けて覗いているのではと、今はおかしな方向に気をやっている。ちがうよ、コン。近時はトキの気配に胸を躍らせているんだよ。

 そのトキが手の動きをはやめる。


「外が騒がしくなってきましたね」

「そうね」

 

 血祭りの舞台が目に浮かぶ。

 玉藻姫の相手は我々ではない。内裏の外に控えていた各国の兵士が舞台へなだれこんで来ている。おそらく命じたのは西と北の城主。娘の玄冬殿と白秋殿の女御が忽然と姿を消し、その衣裳の下に血溜まりがあるのだから、灼然たる命といえる。

 そして正殿からは、香の毒に打ち勝った強者たちが猛然と姿を現し始めていた。

 取り囲まれた玉藻姫は鬱憤をはらすように殺戮に徹しているようだ。


「犠牲者が出てしまいましたね」

「全員は、護れない。最初から覚悟していたことだわ」


 しかし、耳に伝わる玉藻姫の動きは──。

 高御座の御簾の隙間から外を垣間見る。

 思った以上に玉藻姫の動きが鈍い。爪の行き届く範囲でしか動いていないようだ。痛ぶらず、一撃で胴から首を切り離していく。それはまるで帝に刃が向かぬよう、護っているように見えた。御都の内情を貴賓にひろめ、毒をまいたあとでは、帝の首に価値などないのに。

 玉藻姫が金切り声を天へと刺す。


「おのれぇ、こそこそとどこへ消えおった……! こうなったら、引きずり出してくれようぞ!」


 間合いにいるすべての人間を斬り捨てると、いつの間にか懐に姫君を引き寄せ、首筋に爪を立てた。


「いやぁああ……っ!」


 朱夏殿の女御だ。

 爪を滑らせるだけで、白磁の肌に鮮血が滴り落ちた。


「おい、おきつねさまとやらよ。貴様、雷鳴の中宮なのだろう? 愛しい愛しい朱夏の首を切り離してしまうぞ。南の国の城主も、几帳の奥で毒に侵されながら見ているだろうねぇ。黙って見過ごすつもりかい?」


 外はしん、と静まり、高御座へ視線が集められた。


「わざわざこちらに注意を向けてくれるなんて。愚かだこと」

 

 私はコンの手を握り、堂々と高御座を飛び降りた。


「ひぃい……っ、ち、中宮だ!」


 波が引くように、周りの陰陽生たちが間合いをひろげる。舞台上の兵士たちも、病を恐れてか口を塞ぎだした。

 そうね。私は、未曾有の怨霊。

 雷鳴の中宮──。

 コンが優しく手を引くが。


「ユキ、大丈夫?」

「うん。変なの、私、なんとも思わないわ」


 だって、今はおきつねさまだもの。

 雷鳴の中宮は私にとって、まるで脱皮したあとの抜け殻のよう。抜け殻を演じるくらいなら、もっと華やかに、今の私を表現したい。

 目を瞑り、息を吸う。


「かけまくも畏き、御都の大神よ──」


 腹から出す大声ではない。

 自身がもっとも美しいと思う声音で、鬼やらいの祓い詞を唱えた。

 もっとも美しい角度へ顎を上げ、華のように衣裳をひろげ、生きとし生きるものの視線を奪うように。

 近くにいた陰陽生が地に膝を落とす。


「てん、にょ……?」


 私は喜びを頬に添え、壮美たる笑みでもてなした。まだ呪いを吐いていないのに、続々と跪いていく。

 いちばん近しい存在であるはずのコンは、ひと筋の涙を流し、囁いた。

 

「綺麗だ」


 大舞台なのだから、当然のことなのに。

 それでもコンに言われると、つくりこんだ表情が壊れてしまいそうで、慌てて前を向いた。

 もてなし顔に、色香を重ねてしまったと思う。先ほどまで目を血走らせていた兵士たちは、刀を落として私を見上げた。

 呪い言を吐くなら、今だ。


 ──平伏して聞き入れよ。

 

 舞台に居た三百余りの人間が、その場にひとり残らず平伏した。頭をさげさせたのは、呪い言が効かなかった人間を見極めるためと、二度目の呪いを受けさせないためだ。

 今立っているのは辺りを警戒していた玉藻姫と腕のなかの姫君、それから帝だけ。耳の弱い帝へ私の声は届かなかったのかもしれない。表情は鬼面のなか。弥勒、あなたはどんな顔をして私を見上げているの。


「皇后玉藻姫よ。望みどおりに姿を見せたが──」


 私は桜の唇に袖を添え、怖しい声を演じてみせた。


「どうぞ。その首斬り捨ててやって? さぁ、今すぐに」


 玉藻姫の爪が戦慄く。

 片頬をひきつらせながら、必死に笑みを作った。


「あ、はは! ほぉら、皆のものよく見てみよ! 雷鳴の中宮が、本性を現したぞ! 女御ひとりの犠牲など取るに足らんのだ、なんと無慈悲な!」

「無慈悲?」


 私は顎をひき、首を傾けてみせた。

 空いた左肩に並んだのは四皇子弥勒と、


 朱夏殿の女御。


「はぁあ……!? なぜ、そこに! 日暮れにはまだ朱夏殿に居たはず!」

「愚かしいこと。愛しい愛しい朱夏を、私の側から離す譯がないでしょう」

 

 弥勒と朱夏は、私たちが舞台へ上がってすぐに、近時と共に転移させている。喜んで身代わりとなった侍従と女房が心配だが──。

 支えなくひとりで立つ弥勒のとなりで、朱夏はあどけなく笑ってみせた。ほら、本物の朱夏の肌をみてよ。快活なことに、日焼けてるんだから。


「さぁ、手のなかのものをはやく始末なさって? おあいにく様、私の愛しい朝顔は、いやぁあ! だなんて可愛らしい叫び声はあげないの」


 玉藻姫が人質にしている朱夏は、襟巻きにしていた朱色キツネだ。コンに恋心を芽生えさせたことで、人間に化けられるようになっているだろうと、推測はしていたが。

 化ける人間を間違えている。玉藻姫の采配? だとしたら頭が悪すぎる。

 

「しれじれしい。実に、愚かなり。なにゆえ朱夏殿の女御をすぐったのか。私に化け、未曾有の怨霊を演じてみせるべきだったのに」


 私が着付けてもらうあいだに、兵士たちへ怨霊っぷりを見せつけてやればよかったのだ。遠目に立つ私より、現実味があっただろう。後から姿を現した私に罪をなすりつけたら、少しは有利になれたかもしれないのに。


「ああ、──そうか。朱夏にしか、化けられないのか」


 朱色キツネはきっと、コンが愛しいと思う人間に化けた。私が誤解したように、朱色キツネもまた、コンの想いびとが朱夏だと思いこんだのだ。


「おのれぇ……っ、雷鳴の中宮めぇ!」


 怒髪天を衝いただろうか。朱色キツネは罵り声をあげると、玉藻姫の腕からすり抜け、朱夏の衣裳のなかへ消えた。

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