「白拓……っ、やめて! どうしてそんなひどいことをするの!」


 西の国へ亡命していたのだろう、追いかけてきた西の従者に両手を押さえつけられながらも、ヤバネの娘──賀茂乃家の姫君は必死に舞台へ向かおうとする。いかなる理由があろうと、帝の神楽を邪魔だてすることは許されないのに。

 私はコンの袖をつかんだ。


「賀茂乃家の姫君はなにゆえ、神楽をとめようとしているの」

「白拓は、内裏に集まる鬼を祓う。つまりは紅い鬼火、東の国の御魂をすべて祓おうとしているんだ」

「黄泉へ……?」

「いや──、黄泉をとおさない」


 厄災を祓う白拓が標す御魂の行き先は、ひとつとされている。


「そのまま地獄へ堕とす気だ」


 コンは私を強く抱きとめながら言った。飛びだそうとした後ろ足が宙をかく。


「ユキ、まだ様子をみるべきだよ。ヤバネが彼女と合流したし」

「カラスの羽根では、持ち上がらないわ」

「太陽神のつかわしめであるヤバネは、浄化の教えをとくだけさ。娘である彼女だってきっと、やけになって出てきたわけじゃない」


 姫君が、カラスの囁きに合わせ輪唱するように、祝詞を唱える。

 

「ほら……っ、みて、ユキ」


 紅い鬼火が瞬く間に白く輝き、光の粒となって星空に溶けていく。

 コンは自分のことのように喜んだ。


「すごい……っ! あの数を一度に浄化するなんて!」

「では、民の御魂は」

「怨念を浄められ、黄泉へ誘われている。あとは、厄神の枷から解放するだけだ」

「まだ幼いのに、さすが賀茂乃家と言ったところでしょうか。西の国でも修行を続けていたのですね」


 近時もまた嬉しそうに顔のシワをゆるませた。


「彼女だけじゃないよ」


 私には聞こえる。正殿の奥から祝詞を唱える声が増えていく。

 かつての陰陽生たちが正殿をとびだし肩を揃え、少しずつ舞台へと歩み寄った。そのなかにはコンの兄である星明の姿もみえる。


「コンはもう、ひとりじゃない」

「ユキ……っ、うん」


 見つめ合う私たちのはざまで近時が、「私は?」と寂しげに首を傾げる。

 つかわしめのみんなといっしょになって近時をからかい、刹那に、心から笑った。

 

「あははっ、では近時どの、我々陰陽生に示しをつけていただけますか」

「君はとうに修了だろう。まぁ、背中ぐらいは預かるさ」

 

 近時は小亀をおろすと指を組み、呪文をひとつなぎにしたような長い詠唱を始めた。


 間もなくやってきた激しい耳鳴りとどよめきに御簾の外を見やれば、内裏の真上の空が白夜のように薄明るい藍色に染まっていく。陰陽生たちの祝詞で浄られた御魂は白色の光からあやふやに静かに、空に溶けた。


「鬼火が、みんなが消えた……。こんなに、あっさりと」

「近時どのとネズミが内裏に結界を張り、厄神の力を弱め鎮魂したんだ。何千という御魂を一度に。圧巻だ」


 陰陽生のなかの何人かが、辺りを見まわしながら嗚咽をこぼしている。高位の陰陽師の存在に気づいたのだろう、涙ながら陰陽博士の名を叫ぶものも居た。


「玉藻姫は東の国の御魂を痛ぶり、ユキを引きずり出そうとしたのだろうけど」

「まんまとその罠にはまりそうだったけど?」

「お目付け役が居てよかったでしょう? でも──」


 机を爪で叩くような、苛立った太鼓の縁の音が鳴る。

 小亀のチョクが首をのばし、言った。


「寸刻後、陰陽生たちを狩りに三色キツネが現れる」


 コンが膝を立てる。


「こちらだって、出し惜しみするつもりはない。行こうか」

「うん」


 その腰には陰陽師らしからぬ太刀が納まっていた。




 静まりかえる舞台の下手に反し、騒然たる正殿。玄冬殿と白秋殿の女御が、太鼓の音に合わせゆっくりと舞台へ上がり、艶やかに帝の左右に立った。ふたりはまるでこの日を祝うように白を基調にした衣裳をまとい、玄冬殿は紅い扇を、白秋殿は朱色キツネを襟巻きのようにして肩にのせている。

 玄冬殿の女御が、扇のなかで喉を開いた。


「……帝の神楽をとめさせるとは、この内裏において大罪と心得よ」


 思わず笑ってしまった。三色キツネたちの声真似の能力は、私が呪い言で奪っている。つまり地声だ。緑キツネったら、想像どおりに酒焼けしているではないか。近くにいた北の従者もまた跪きながらも首をひねっている。それに気づいた女御が苛立ち、命じた。


「……あなたたち、まずそこの小娘を斬り捨てなさい」


 賀茂乃家の姫君に鋭い爪を向ける。従者たちはすぐさま鞘に手をかけたが、爪の先を辿ればうら若き姫君。また内裏のなかのため抜刀を躊躇ったのだろう。

 割って入ったコンに刀の抜く道を防がれてしまった。

 玄冬殿の女御が柳眉をひそめる。


「……貴様は、舎人の」

「はい。舎人であり、おきつねさまのお目付け役。小御門昏明でございます。束の間、お見知り置きを……!」


 刀の先尖を女御へ向ける。遅れて従者たちが刀を抜いたが、一歩踏みこんだ先で青白い魔法陣が地に垂直に現れた。仰け反るがふたり間に合わず、魔法陣に消えた。行き先はすぐそば、玄冬殿の几帳のなかだ。今ごろ城主が目を丸くしているだろう。ふたたび舞台を見やるころには、


「すばしっこいなぁ」


 女御が居た足もとにふたりぶんの艶やかな衣裳が平たく、広がり落ちた。

 コンから半径四尺の間合いをとり、腹に浅い切り傷を負いながらも立ち上がったのは、玄冬殿に化けていた緑キツネだ。そして同じ位置に、襟巻きだった朱色キツネが黄キツネの首をはんで立っていた。白秋殿に化けていた黄キツネの切り離された胴が、衣裳のなかでじんわりと血溜まりを作っていく。

 二百年共にした同朋を突如として失い、緑キツネはまなじりが裂けるほどコンをみつめた。


「……なぜ、なぜだ。我々妖狐の首は、大陸の豪傑でも切れなかったのに。なぜその細腕で」

「この刀は、狐狩に特別にあつらえたものだからね」


 コンの刀は鋭いが鋼色ではなく、乳白色の重たげな石でできている。指一本切れそうもないのに。

 私もまた茫然とした。


「一体、いつの間に。トキに武術を教わったのも、ひと月だけだったのに」

「無慈悲な陰陽師は嫌い?」


 正直に言うと、優しいコンは虫の一匹も殺さないと思っていた。だが壮美で残酷な太刀筋を見てしまったあとでは、叫ぶしかない。


「いと、さまよし!」


 コンは頬にとんだ返り血を袖で拭いながら、花が咲いたように笑った。

 その笑みに怒髪天をついたのは、


 ──朱色キツネだ。


「よくも、よくもよくもよくもよくも、お姉様を……!」


 いつもの猫撫で声ではない。

 黄色キツネの首を床へおろすと、腹の底から煮えたぎらせた声で、コンににじり寄った。


「小御門……、思い出した。見覚えのある顔立ちだと思っていたんだ。お前、三年前に直訴に来た陰陽頭の娘──、いや、息子だったのか」

「よくわかったね。おきつねさまにも気づかれなかったのに」


 両者ともに私へ視線をくれたので、尻尾を振ってごまかした。


「こんな、小太りのキツネの、お目付け役だと? お前のことを気に入っていたのに。子種をもらってもいいと、愛しいと、はじめて思えたのに……っ」


 朱色キツネの目から大粒の涙がこぼれおちた。

 愛する人間に裏切られ、混乱しているのだろう。私はその気持ち、よく知っているよ。

 朱色キツネは二本の尻尾を憎悪で戦慄かせ、コンへ猛進していったが。


「お待ちよ」


 キツネにしか聞こえぬ囁き声が、針金を通すように耳に突き抜けた。

 玉藻姫だ。

 その御座を見やれば、すでに姿なく。舞台へ足をかけた玉藻姫はこめかみに影を作るほど深く、青筋を立たせていた。


「吹きっさらしで寒くってねぇ。お前は妾の襟巻きになりにお戻り。おきつねさまとお目付け役とやらは私がやろう」


 玉藻姫へ駆け寄る朱色キツネの背中を追いながら、緑キツネが腹から血を滴らせ、言う。


「……では私は」

「お前はそいつらから距離を取りながら、見習い陰陽師たちを手当たり次第に殺すんだ。それくらいできるだろう? いいね」

「……仰せのままに」


 深く一度頭を下げると、緑キツネは賀茂乃家の姫君を標的に定め、前足に力を入れた。

 冗談じゃない。未来の御都を担う陰陽師たちを、ただひとりも殺させてなるものか。


「トキ、コンが危なくなったら護って」

「御意に」


 耳のなかのトキに命じると、私はほぼ同時に足を出して、緑キツネを追った。玉藻姫はまずコンの首を狙うだろう。舞台にのぼりきるまでに始末しなければならない。


「ヤバネ……っ! 私を蹴って! あの日のように!」


 娘の肩にのり、威嚇の鳴き声をあげるヤバネへ言葉をぶつける。


「はぁ!? まさかユキ、また豆に──」

「はやくして!」

「どうなっても知らんで!」

 

 ヤバネはわざと烏羽で緑キツネの視界を遮りながら、からだをすれ違わせた。

 緑キツネが腕で羽根をはらい、開けた視界の先には、季節はずれの青豆──。


「はっ、馬鹿め」


 緑キツネは目を弧にして笑い、口を裂いた。ヤバネはオオカミにしたように、目玉を狙って思いきり私を蹴ったが、緑キツネにはきっと戯れのような速さに感じたのだろう。


「噛み砕いてくれるわ」


 ヤバネが、「ほらやっぱり! 食べられたらおしまいや!」と背後で叫ぶ。

 そうね、そんなおとぎ話があったよね。

 寝入りばな、その話しを聞かされるたびに、私は思った。


 食べられる前に、化け直せばいいのにって。


 獣はちいさなものを咀嚼する前に一度、長い舌に納める。牙が邪魔をして、狙いを定めにくいからだ。キツネになった私はその一瞬を知っている。


 ──パン。


 ちいさな破裂音に、誰しもが振り向く。

 その場所には神山の沼のほとりにある腰かけ石を中心点にして、三百年生きた妖狐のはじけた贓物が花咲いていた。

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