鬼やらい
壱
御都の民にとって鬼やらいは年内最後の大祭だ。昼日中から少しずつ鳴り始めた祭囃子は、黄昏の刻には神山の邸のなかまで聞こえた。今ごろ町屋では、陰陽師に扮した男衆が矛と盾の代わりに花火をもち、行脚しているだろう。コンとふたり、手を繋いでその様子を眺める妄想にふけり、縁で最後の日暮れを楽しんだ。
庭ではマサルさんが呑気に蛍を手づかみしようと戯れている。
「暇ならもう一杯、お茶を淹れてよ。緑茶がいいな」
「残念ながら私はもう、邸にあがることができません」
「入れない……?」
マサルさんの真っ白な毛が人影で暗くなる。
「結界を張ったんだ。ユキと私以外、入ることのできない永遠の鳥籠」
「永遠……?」
振り返れば、コンは真っ白な狩衣を身にまとい、扇を携え立っていた。
「陰陽師だ!」
「まだ見習いだよ」
「馬鹿を言わないで。今のあなたは、この世の誰よりも陰陽師らしい陰陽師よ」
「つまるところ?」
「いと、さまよし!」
私は惜しみなくコンの胸へとびこみ。コンは私を両手で強く抱きとめた。頬擦りをしたら、コンもまた擦り寄ってくる。
見上げれば、昏れに浮かぶ眩い笑い顔。
大好きよ。あなたのことは、私がかならず護るんだから。
マサルさんの目が生温い。
「仲のよろしいことで」
ほかに私たちを冷やかすものはいない。マサルさん以外のつかわしめは、すでに内裏のなかへ転移し、配置についている。特に結界を司るネズミはそれぞれ孤立するため、みつかりそうもない殿舎の屋根裏や軒下を吟味させ、午前中から隠れてもらっていた。
「さあ、まずは大国の御三方へのご挨拶から始めるけど──、どこから攻めようか」
「もちろん、南! いちばんに朱夏のお父上、それからコンの兄上にご挨拶しなくちゃ!」
小御門家の嫡男、小御門星明は帝の勅令に従い、南の国の城主に付き従っている。
コンは、嬉しそうに笑った。
「仰せのままに」
鬼やらいの主役は正殿ではなく、前庭に建てられた、一夜限りの舞台にある。そのため主賓が正殿へ上がり、そのうちの四大国はそれぞれの象徴色の几帳で仕切り、最前列の広縁に並んで座す。
とうに滅亡した東の国の御座はもちろん、ただのお飾りだ。これ見よがしに護符の貼られた几帳のなかは、雷鳴殿の要領で我々の転移場所として利用させてもらった。
南の国の朱色の几帳は、西を挟んだ向こう側。コンは悪びれる様子もなく、背筋を伸ばして回廊を渡った。
几帳ごしに名乗る。
「恐れ入ります。わたくし、今は亡き陰陽頭の二男、小御門昏明と申します。そちらに我が兄、小御門星明はいらっしゃいますでしょうか」
几帳のなかが騒然とする。コンの兄上を除き、従者は角に座る四名といったところか。ほかの兵士は内裏の外で控えているにちがいない。しばらくして、南の国の城主の野太い声が、妙越しに突き抜けてきた。
「入りなさい」
「失礼を。──わぁ!」
うやうやしく几帳のなかへ入るなり、コンと同年ほどの少年に襲いかかられた。
「昏明……っ! よくぞ無事であった!」
「兄上、その……」
「ぜったいに、謝るなよ。お前ひとりを置いて逃げたのは私たちだ」
コンの右肩が濡れそぼつ。
「ああ、ほんとうに。生きていてくれて、ありがとう」
コンの兄上──星明は、一度疑った自分を戒めたいほど真っ直ぐで快活な青年だった。コンの狩衣についた涙の染みに気づき、自身の袖で慌てて拭く様を見て、まわりの従者の口もとが緩む。
なるほど、星明もまたコンに負けじと派手な顔立ちをしている。南の国ではさぞ、もてはやされたに違いない。恐るべし小御門家!
城主は顔も姿勢も崩さず、目端だけを寄せて言った。
「それで、そちらは」
私のことだ。
前足を揃え、はっきりと申し出た。
「申し遅れました。私は黄泉神の御子、ユキと申します。御都を護るため、この現世に馳せ参じました」
「ほう? ようやく御都という枷をはずし、国同士が強弱だけでやり合えるというのに、そなたは邪魔をすると?」
なるほど。南の国は喜んで戦乱に迎え立つと、はっきりと願うか。
私は沸き始めた湯のように、クスクスと笑った。
「まさか、人間の分際で神々に抗えるとお思いで?」
「なに?」
「雄々しき南の国の城主よ。八カ国を滅国させた諸悪の根源をご存知か?」
「雷鳴の中宮の呪い。……と、吹聴されているだけの、流行り病であろう。薬のない病ほど、恐ろしいものはないわ」
「その流行り病が、厄神の祟りだとしたら」
「厄神、……だと?」
私の耳が、生唾を飲む音をひろう。
「今、この国を破滅に導くのは神の力。そして救うのもまた神の力でございます。是非その目でしかと、お見届けくださいますよう」
コンは前に進むと、昨夜に書き記した護符を長の膝もとに置いた。
「これは?」
「毒香や厄病を退ける護符でございます。決して几帳の外へお出にならないでください」
「約束はできんな。だが星明の手前、ありがたくいただいておこう」
城主へ礼を尽くし、退がる。
このあと少し兄上と言葉を交わすのだと思っていたが、そうもいかないようだ。空で監視していたツクモから知らせがあったのだろう。コンの紅顔から笑みが消えた。
「ユキ、急ごう。皇后様は今日も今日とて、気みじかなようだから」
「わっ、昏明……っ」
コンは自ら兄の胸にとびこむと、
「いってまいります」
すぐに離れ、振り返らずに座敷を出た。
コンと私は西と北の御座へ同じように簡潔にまわると、舞台の側面に位置する文殿へ渡った。文殿の長い吹き放しには太政官たちの御座が敷かれている。もちろん、ほぼ空席だ。
コンは惑うことなく、真ん中の御座を選んで入った。そのさらに正中部に近時が、小亀のチョクを手にのせて座っている。端っこで火鉢を囲っているのはカラスとイタチだ。
近時は和やかにコンを向かい入れた。
「狩衣か! いいねぇ、よく似合っているよ」
「近時どのの衣裳も調えられたらよかったのですが」
「私はよいよ。そんな身分でもないし、着替えている暇もなさそうだ」
「はじまりますか」
本来、鬼やらいの祭祀は、舞台の中心点に置かれたかがり火の真上に、月が昇ってはじめて太鼓が鳴る。腹にしずむ太鼓の音で酔いを覚ました客が舞台を見やれば、帝が神楽を舞っている。その情景は、まるで天界を覗き見ているような不確かな世界で、みんな息をのんで眺めたものだ。
「ああ。帝のおでましだ」
月はまだ宵の明星のそばで白々と浮かんでいるのに、派手に太鼓が鳴った。
水桶をひっくり返したように、かがり火の火が消える。
浮かび上がったのは、無数の紅い鬼火──。
「ユキ、おさえて」
「わかってる」
コンに言われなくても、無闇に出ていったりしない。それでもおきつねさまの尻尾は、怒りで打ち震えた。
東の国の民の御魂。その無念の炎は板張りの床に映り、舞台を紅く染め上げた。
いつからそこに立っていたのか。
かがり火の奥から現れたのは、墨のように黒い人影。
帝だ。
四つ目の鬼の面をかぶり、それぞれの手に槍と盾を持っている。
コンは私に真っ直ぐと訊ねた。
「どう? ほんもの?」
「……うん。間違いない。帝本人だよ」
腹にくすぶる嫌悪感が、太鼓で弾む。
その音で真向かいの御簾があがった。
ひときわ明るいその御座には皇后──、玉藻姫が片膝をたてて、ひとり座している。
玉藻姫の唇がやおらに動いた。
──はじまり、はじまり。
太鼓の音がふたたび腹にうずもれる。
なかのお粥がはねそうだ。
紅い鬼火だけに照らされ、舞いはじめた帝はまるで血濡れの鬼神のよう。その足もとでウサギもまた白い毛を紅く染め上げ、踊った。
ウサギ──? 近時の袂の裾で毛づくろいをするウサギを見やる。
一年近く共に過ごしたウサギは今ではすっかり黒光りしたカラス。別物だ。
「白拓……、ほんとうに玉藻姫へ寝返ったのね」
ウサギはまるで五年前に時を戻したように踊っている。
近時の手のなかでチョクは、見てわかるほど歯噛みした。
「寝返ったんちゃう。無理矢理、厄神にかしずかされとるんや」
「本意ではないというの」
夜目に映るウサギはただ楽しそうに舞い踊っている。強い力にあやつられているようには見えない。
「主人である賀茂乃どのは、間違いなく炮烙に落とされたのよね?」
「うん」 不安そうにくっつき合うイタチたちが揃ってうなずく。
「ツクモのように転生して、あちらに寝返った可能性も──」
「中宮様といえど、それ以上の誤った詮索は許せませんわよ」
同じ目線で声がする。
イタチも小亀もキョロキョロとあたりを見渡し、やがて一羽に焦点がまとまった。
カラスだ。
「ヤバネ……?」
「面倒だから黙っていたのに。ずっと疑って、まだ疑うの? 悲しくなっちゃうわ」
「まさか」
ヤバネが賀茂乃家の陰陽師だとでも言うのか。
気落ちして首をもたげるその角度が、生前の彼女と重なった。
「ほんとうに? あの物静かな賀茂乃家の──、まるで別人じゃない」
「それは中宮、ユキもでしょう?」
鋭い爪を私の前足にそっと重ねる。
はじめて囲炉裏を囲ったあの日、栗を差し出してきたウサギを思いだした。動物の姿で生きていく術を、やんわりと、教えてくれたんだ。
涙で思い出がぼやけていく。
「ご、めんなさ、……わたし」
「そういうの、面倒や言うてんねん。うちはユキに懐かれたくて転生したんちゃう」
訛り口調に戻る。
「すべては、あの牝狐を滅するために」
正殿の内部が騒がしい。玄冬殿の几帳が激しく揺れた。
「悪いけど、少し抜けるわ」
「どうして」
「娘を助けるだけよ」
カラスが御簾をひるがえし飛び立つ。
その先で一〇歳にもならない姫君が舞台を上ろうとしていた。
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