おきつねさまはきれい好き
コンが東の国から帰ってきたのは、鬼やらいの前々夜のことだ。朝にツクモから聞かされていた私は、きれい好きなコンのために大掃除をして、そのときを待った。からだだって、隅々まで清めたのだから。
でも、爪に染みついたクマの血の匂いだけは、何度洗ってもとれない。
「ユキ、おやめください。洗いすぎて指があかぎれておりますよ」
マサルさんが梁の上からひかえめに忠告する。言葉ではとめられないことを、知っているから。
「いや、いやだっ、玉藻姫のように、なりたくない」
「ではせめてぬるま湯を」
みんながいよいよだと縁に揃って座り、コンの帰りを待つようになっても、私は水屋で湯桶に手を浸していた。
「どうですか」
「だめ、……匂う。とれない、どうしたら……っ、そうだ、ぬか。米ぬかは?」
米ぬかを詰めてしばらく置いておけば、ぬかに匂いが移るかもしれない。
「部屋にあったかしら」
「では私は水屋を探しましょう」
「ありがとう、マサルさん」
それから私は自分の部屋へこもると、書物をひっくり返して米ぬかを探した。外ではみんがコンを盛大に出迎えているのに、気づきもしないで。
「あぁもうっ、トキったらどこにしまったの?」
「そんなことより、背後を気にされてはいかがでしょう」
「そんなことってどういうこと。私にとっては一生に一度の大事なのに」
「おきつねさまの大事? それはたいへんだ」
「ひとごとだと思っ、て──」
私のからだは魂を失ったように、動かなくなった。
コンの声音と、むせかえるような愛しい香り。私は魔法をかけられたように、ただひとつの言葉もつむげず、滑稽に立ち尽くした。
コンはそんな私を咎めることなく、藁布団のうえに散らかした巻物をゆっくりと拾い集めていく。
「遅くなってごめんね。近時どのを朱夏殿まで送っていたんだ。鬼やらいでの戦略は明日話そうと思うんだけど、その……、とりあえず、ただいま」
おかえりだよ、無事でよかったよ、怪我はない?
頭のなかで「ユキ」がコンコンと喋る。だがそのとなりでは、クマを殺した分際で口を開くなと、「雷鳴の中宮」の細指が自らの喉をしめた。
米ぬか、せめて米ぬかを試させて。そうしたら諦めるから。往生際の悪い「中宮」が、コンに抱きつこうとする「ユキ」の尻尾をつかんでとめる。
「おやすみなさい」
戸の閉まる音で、はっと我にかえった。
知らずにとめていた息を整える。残り香は漂うものの、コンの気配がなくなっている。
よかった、これで心ゆくまで米ぬかを爪に詰められる。朝までに匂いが消えるといいのだけれど。
ぴょ─────────────ん。
聞き慣れた音が耳をくすぐる。あれ、ずっと耳のなかにいたのではないの。
「姫様、たいへん由々しき事態です」
「米ぬかがみつからないのね」
「米ぬかはネズミがおやつに食べてしまったと供述しております」
「許せん。小骨まで喰らい尽くしてくれる」
「無理に飲みこんでは喉を痛めるだけですよ。それより姫様、トキの話しを聞いてください」
トキがネズミを喰らうことを一切とめない。
えー、喉を痛めるの。朝ごはんが美味しくなくなっちゃう。
気勢を削がれた私はとりあえずトキの話しを聞くことにした。
「姫様が部屋にこもっていらっしゃったので、コンどのが心配して皆に訊ねたのです。そうしたら、山里での話しになりまして」
「私がクマを殺したことを、明かしてしまったのね」
「いえ。マサルさんだけを付き添わせ、毎日のように男漁りに山里へおりていたので、コンどのに合わせる顔がないのだと、あることないこと」
私の頭のなかで、つかわしめの血溜まりができた。落ち着くのよ、ユキ。みんな連れて行ってもらえなくて、不満を募らせていただけ。
「マサルさんは?」
「水屋で探し物をしていたので、話しに入れず。マサルさんへ米ぬかの件はお伝えしましたが、コンどのの誤解は解けていません」
「そう」
怒りをたぎらせていた胸にぽっかりと穴があき、妙に心が落ち着いた。
山里の男で欲を満たしていたとコンが信じれば、私と距離を置くだろう。離れていれば爪の匂いに気づかれずに済む。匂いはひと月もすれば消えてくれるはずだ。
ひと月──。
鬼やらいの戦略がコンと一致していれば私は、そのころにはもう、ここに居ないのに。
「すぅ、はぁ」
「腕を振りまわして、どうなさいました。つかわしめをなぶり殺しにお馳せられるので?」
なんてこと言うの!
「コンに、ほんとうのことを話してくる。嫌われてもいい。ありのままの私で、コンのとなりに居たいから」
急に右耳がこもり、重たくなる。
首を思いきり振ると、ぽたぽたと辺りに水が散った。
ぴょ──────────────ん。
虫音が左耳に移る。
「トキ? どうしたの、おもらし?」
「ノミもトキもおもらしなどいたしません。姫様が、怠惰な姫様が、ご自身から、動かれたので、感極まり」
「……泣いたの」
「はい」
ノミはおもらししないのに、涙をだせるのか。
「憶えておりませんか? 浄土庭園で逢瀬を約束され、ひと晩じゅう眠らずに帝をお待ちになった夜のことを。帝はその夜、まだ下仕えであった玉藻姫を夜御殿へ上げていたというのに。姫様は、いつまでとは決めていないからと、そのまま二日、吹きっさらしの小屋に泊まりこんで熱を出されて」
「あのときは、暴れる私を近時が担いで内裏に運んだんだっけ」
熱が冷め、御簾の外へ出ると屋根がひとつ増えていて、別世界にでも飛ばされたのかと思った。帝が約束を破ったこと、庭に建てられた玉藻の大殿のことを、中宮として忠言すべきだと周りからは言われたが、私は帝の居る清涼殿へ足を踏み入れることをしなかった。
頭では何度も考えた。でも、いつどこでなにを言っても、惨めな結末にしか辿り着けない。傷つきたくなかったのだ。認めたくなかった。
帝の私への愛が、冷めてしまったことを。
「結局、私は中宮という枷につながれていただけだったのよ。自由になった私は、惨めになったっていい。思いきりぶつかって、傷ついていいのよ。だってほら、今はおきつねさま。……っていうより、ただの小娘でしょう?」
「まったく。これだから姫様は……っ、そんなに美しい小娘がどこにいますか」
今度は左耳がこもったので、遠慮なくブンブン首を振った。さぁ、コンの部屋へ行こうと戸に手をかけたときだ。
力を入れる前に、戸に手をもっていかれた。
「コン、どうして」
私の部屋の戸を開けたのは、コンだった。
コンは目をふせ、口をへの字にして、言った。
「何度もごめん。山里でのこと、ちゃんとユキの口から聞きたくて。ユキ、出かけるところだった?」
「ううん、私も。私も話したくて、コンのところへ行こうとしていたの……っ」
トキのばか。
涙がうつってしまったじゃない。
泣き顔を袖で隠すと、コンは優しく肩に手を添え、私を藁布団のうえに座らせてくれた。
涙が落ち着いてからでいいと言うけれど、焦っていた私は子どものようにしゃくり上げながら話した。
コンはうん、うんと童をあやすようにやわらかく頷いていたが、は? とか、え? が重なり、ついには舌のとまらない私の口をふさいだ。
「クマに、襲われた!? それも穴持たずに!?」
「ふ、ふぇい」
「怪我は!?」
「ふぁい」
両手で頬を包みこみ、私の顔をじとと見る。
久しぶりの紅顔攻めに卒倒しかけたが、話しはまだ序盤のため、なんとかこらえた。
「……綺麗だ。すり傷ひとつない」
「でも、匂うでしょう?」
「におい?」
「私、クマを殺したの。この手で」
颯と、袖に隠していた手を前に差し出す。
「爪を立てる鍛錬はキツネのとき以外にしていなかったでしょう。人間の状態で爪を立てたら、玉藻姫のように武器になるのではないかと思って」
「それで……、成功したんだね?」
コクリ、うなずく。
コンは花が咲いたように笑った。
「ユキ、すごいや! 穴持たずを倒してしまうなんて!」
驚いた。マサルさんの言ったとおり、コンは喜んでくれるんだ。でも──。
「匂いが消えないの。クマの血の匂いが、爪に染みついてとれない。玉藻姫のようになりたくないのに」
「私はキツネではないから、まったく匂わないけれど。……そうか、それでこんなに」
私の手を袖から出すと、痛ましそうに手のひらで包んでくれた。
「バカだな、ユキは。爪の匂いで私に嫌がられると思って、部屋にこもっていたの?」
「だって、クマを殺したんだよ。きっと人間だって、容易く切れる」
「それでも、山里の人たちは救われた。おきつねさまにとって、実に誇らしいことだ。ユキの心はつらく苦しいかもしれないけれど」
コンの目がソワソワと左右に泳ぐ。
「その、それで、人間のユキの姿を、山里の人たちは見たの?」
「うん。元々そのつもりで山をおりたから」
「そう」
コンが居なくなった初日を思い出し、げんなりとした。芋を蒸したはいいが潰す力がてんでなく、みんな総出で変わりばんこ。夕暮れにはなんとか形がなくなったが、それから飴に練りあげるまで、なんと朝までかかってしまった。
トキが出来上がった飴を瓶に移しかえたのだが、その量がまた二日ぶんにもならない。みんなで一斉に笑い転げた。
こりゃあ二度と作りたくない、って。
「山里へ芋をもらいにおりるなら、その場で御饌飴も作ってもらおうと思ったの」
芋を運んで、飴を炊いてを繰り返していたら、霊力が高まっても体力が先に底をつく。そこで思いついたのが、
「雷鳴の中宮、神格化計画」
「神格化?」
「計画は、はじまる前に破綻したけど」
山里へおりたら中宮の姿になり、マサルさんの灯した魔除けの火をまとい、人前へ出る。それから怨霊ではなく、御都を護るために生まれ変わったのだと、説得を試みる。神の子としての風格と声色も重要だ。私は「中宮」になりきって、コンへ乞い願った。
「どうか御饌飴を作り、
「はい。仰せの……、んんっ」
思わず返事をしてしまったようだ。人間になっても変わらず夜目がよく、コンの顔が赤らんでいるのがわかる。
かわいい。好き。
「でもね、私たちが山をおりるより先に、里が襲われていた。クマを倒したお礼に作ってもらえることになったから、結果的にはよかったのかな」
卒倒した里の人間を揺り起こすには、時間がかかったけれど。ひとりひとりに丁寧に説明して、御饌飴の作りかたを教えて、いっしょになって、畑じゅうの芋をかきあつめて。ちゃんと冬の蓄えを減らさないように計算もして、毎日ふた瓶ずつ作ってもらうことを決めた。予備の御饌飴を作り終えた今も、山里のかまどはマサルさんのつけた火を灯し続けている。これからも火のある限り、オオカミやクマに襲われることはないだろう。
「御饌飴を毎日、か。私は万が一のことを思って渋ってばかりで、与えることなんて考えもしなかったな」
「あたりまえだよ。作ったら大変だもん。でもね、やっぱり御饌飴はすごいんだよ。半月経つけど、毎日変化を繰り返せている。ごはんも変わらず美味しいし、しっかり眠れてるよ」
「では、その……。交わることなく、変化ができていると?」
「人間からキツネにも、変われる。だから、安心して」
穢れた私を抱かなくても、鬼やらいは迎えられるから。袖のなかで手を振る。
「それじゃあ、今度こそおやすみなさい」
「おやすみなさい? まだユキの口から、おかえりなさいも聞いてないのに」
反して、コンの目は今まさに目覚めたと言わんばかりに、爛々と煌めいていた。
「キツネになって逃げるなら、今のうちだけど」
ごめんなさい、ありのままに嘘をつきました。
コンの香りに満たされた部屋のなかで、キツネに戻れるわけがないのだ。私が「おかえりなさい」を言葉にできたのは、月も白々とした明け方のことだった。
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