お留守番
おきつねさまは胸をつぶす
明くる日の日中に沼へ行くと、ツクモは沼の氷をビキビキ鳴らせて待っていた。機嫌が悪いのではない、ほとりで刀を振るうトキの稽古につきあい数をかぞえているのだ。意外と気が合うのだろうか。私はその情景に驚き、ツクモはコンの様子に唖然とした。
「主人! 今日はやること多いんですから、ちゃんと聞いてくださいよ」
「ごめん、聞いてなかった」
起き抜けに連れてこられたコンは寝ぐせもそのままで、まるでお茶を嗜む私のように腑抜けている。
遠距離の転移には、途方もない疲労感を伴うというが、ここまでとは。
「コン、今日は近時を邸へ呼ぶのでしょう? 玉藻姫の目をごまかすために、何度も転移を繰り返すって。疲れが重いのなら、明日に延ばしては」
「重いのはユキのからだやろ」
「それもそうか」
ツクモの言葉に納得する。朝ごはんの小豆粥、三杯おかわりしちゃったしなぁ。寒いけど仕方ない。シュタ、と地に足をつける。
腕が軽くなり、コンが我に返った。
「はっ。か、からだを浄めなければ」
「え!? なにいってんの!」
沼の氷、もう薄氷じゃないよ。ガチガチに凍ってるよ!?
沼へ直進する着物の裾を食んで引っぱる。
「せめてマサルさんにお湯を沸かしてもらいなよ」 今朝の私のように。
「ユキが自ら離れるほどに匂うのでしょう? 今すぐ洗い流さねば」
「風邪ひくってば」
「しかし中宮様はたいへん綺麗好きであったと聞いております。渡殿を渡るたびにお沓を履きかえるとか」
「私? それは周りが勝手に決めてやっていたことだし、私はあなたが思うほど綺麗好きじゃないわ」
今日なんてさっそく、風呂上がりの肉球に小豆はさんできたよ。あけっぴろげに見せる。
「ふふっ、ほんとうだ。はさまってとれない」
「だからコンも気にしないで。その、私のつけた匂いがいやなら、洗い流せばいいけど」
昨夜、顔じゅうどころかからだじゅう舐めまわしてやったもの。
コンの着物からはいつもの匂いに混じり、少々獣臭さを感じる。
コンは顔を真っ赤にして、踵を返した。
「……じゃあ、しばらく手も顔も洗わない」
それはどうかと思うよ。
笑い合っているうちに近時との約束の刻が迫り、つかの間のしあわせは慌ただしく過ぎ去っていった。
近時をわざわざ邸へ呼んだのは、陰陽寮の書物を手分けして読み解くためだ。つかわしめのみんなに会わせたかったという、ひそかな理由もあるけれど。
まず邸に着くなり近時は、庭で両腕をひろげて空を仰いだ。
五年間、朱夏殿の屋根の下にこもっていたのだ。無理はない。蝶や蛍をめずらしそうに指で追いかけながら、縁に辿り着いた。
「ここが、小御門の別邸……、美しい」
「そうでしょう、そうでしょう」
「つかわしめと少年ひとりあばら屋で、中宮様をどうもてなすつもりかと思っておりましたが、いやまったく、私が愚かでございました」
素直すぎて、こっちが恥ずかしくなるわ。
マサルさんも嬉しそうに囲炉裏で湯気をたてている。
「この香りは……! 緑茶!」
「お客さまがいらっしゃることがあればと思い、少しだけ持ち合わせがございましてね」
緑茶は内裏の一部だけで嗜まれている高級茶だ。陰陽頭が大陸から種子を取り寄せ、趣味で茶園を営んでいたのだが、これが後宮で大流行り。毎年、茶摘みの季節になると我先にと、陰陽頭にすがりついたものだ。
「ずるい! 私にはでなかった!」
「ユキはお客さまではないですし、今日という日に嗜めるではないですか」
それもそうか。
納得した私は近時の膝に顎をのせ、大人しくお茶を待った。
ゴトン、バサバサバサーッ。
耳馴染んだ落下音に顔をあげると果せるかな、コンが昨夜とまったく同じ書物を落としていた。火に移ろおうとする紙をペシリ、前足でおさえこむ。
「コンったら、やっぱり疲れているのでは?」
「そう、かな。はは」
「手伝いましょう」
近時は書物を手早くかき集めると、膝を揃え袂をあげたので、私はすかさずその隙間に入りこんだ。
お茶まだかなー。
「ユキ」
「なぁに、コン」
「その、どうして近時どのにくっついているのかなぁ」
カシャーン。
マサルさんが柄杓を転がす。その背中がぷるぷると震えている。
「マサルさん、大丈夫? 私がお茶淹れようか?」
中宮のときに一度習ったし、茶器は軽いから問題ないだろう。人間になろうかと頭をあげると、コンが慌てて落ちた柄杓を奪った。
「私が淹れるから、ユキは座ってて」
「そう?」
久しぶりにお手伝いができると思ったのに。昨夜に人間の姿になることができたから、その感覚を忘れないように今日じゅうに化けたいのだけれど。
まぁ夜でもいいかと、再び膝を枕にする。近時の袍は分厚くて、温かいなぁ。
「どうぞ」
ターン。と、茶碗が膝前に置かれる。
わぁ、美味しそう。
「それは近時どののお茶だよ」
「えー、私のぶんは?」
「ユキは、こっち」
コンの膝もとに置かれた茶碗はたしかに、駒の描かれた私のものだ。私は近時から離れ、コンと膝を揃えた。
「いただきます」
「そういう態度もあって、帝も疑念を深められたのではないの」
舌先をつけてすぐに甘みを感じ、ゾクゾクと喜びを感じ入る。すくえば、緑茶の香りと旨味が口のなかにぶわりと広がった。古い茶葉だろうと期待していなかったぶん、裏切られたように美味しい。
「聞いてる?」
「ごめん、聞いてなかったよぉ」
語尾があくびで揺らぐ。
ひどくまぶたが重い。おかしいなぁ、昨夜はよく眠れたはずなのに。
「たくさん動いたからかなぁ?」
火がついたように顔を紅くしたコンに抱き抱えられた私は、自室へと連れられそのまま夕ごはんまで寝汚くしていた。
ぐぅ。
自分のおなかの音で起きると、目を開けずとも匂いに引き寄せられ、囲炉裏へ向かった。
「今日はなんと栗ごはん」
春には一日ひと粒しか食べられなかった栗が、茶碗のなかでふんだんに泳いでいる。
お客さまバンザイ!
さて私の茶碗にはなん粒入っているだろうか。そこでようやく目を開けて、近時の膝にのっていることに気づいた。
となりでコンが顔をひきつらせて笑う。
「ユキ、おりて。さすがに食事の最中は、近時どのも重いと思うから」
私はペシャーンと胸をつぶした。
近時どのもって、言った!
コンだってやっぱり、私のことを重いと思っていたんだ。
近時を膝上からねめつける。
コンのとなりは、私って決まっているのよ!
「私は構いませんが」
ちがう。そうじゃない。
それなのにつかわしめたちは、
「近時どのはやさしい」
「さすが大人や」
「屁理屈も言わん」
と、褒め称える。おのれ近時、私が眠っているあいだにすっかり邸に馴染みよって。食事制限は栗を食べおさめてからにしようと決めて、私はそのまま近時のうえで茶碗のなかをさらえた。
「長居をしたうえ、ごちそうまで。まことに世話になった」
「恐れ多いことを。近時どのから学ぶことが多く、私が引きとめてしまったのです。ごはんも朱夏殿とは比べようもない粗末なものですし、その上後片付けまで。ありがとうございます!」
お茶をすすっていると、土間からそんなやりとりが聞こえた。やれ近時め、やっと帰るのか。ようやくコンをひとりじめできる。
そう思っていたのに、戻ってきたコンはとんでもないことを言い出した。
「今から東の国へ行ってくる。鬼やらいには、かならず間に合わせるから」
ネズミが集めた書物から厄神をしぼりだせたが、鎮めるためには神器を要する。その原料が東の国にあるという。
「でも、鬼やらいって。そんなにかかるの? 東の国のなかは玉藻姫が特に目を光らせているのに」
「玉藻姫の目に映らぬよう動くため、そのぶん手間と刻がかかるのですよ」 近時が言う。
「そんな、危険すぎるわ」
「それでも行かねば。これ以上死人をださぬためにも」
頭ではわかっていても、尻尾がいやいやとふるえる。
鬼やらいまであと半月、コンがそばにいないなんて、それほど心細いことはない。みんなも同じようで、気づけば円となりふたりを取り囲んでいた。
「クーン」
より一層、気落ちした鳴き声が鼻から抜ける。
コンは真顔で私の肩をつかみ、言った。
「ぜったいに、生きて帰ってくるから」
「ほんとうに、ぜったいよ……?」
「約束する。その代わり、ユキも」
耳に唇を添える。
なぁに、ないしょばなし?
言われなくても、明日からおかわりしないわ。コンが居ないあいだにシュッとしたおきつねさまになってみせるんだから。
「ダメとは言わないけど。心まではよそ見しないで」
「よそ見?」
「お目付け役は、私だけだからね」
耳から離れた顔が、悲しげに笑う。
私はその時、言葉の意味を汲み取ることができず、
「なんでそんなことを言うの? 私のお目付け役は、コンでなくてはいやよ」
心のまま素直に言葉を返し、私はコンと近時を見送った。
さて眠る前に人間になる訓練をしておくかと、部屋へこもる。
「結局、よそ見ってどういうことだろう」
目をつむったまま近時の膝にのったから?
最近の私は無作法が過ぎると、そういうことだろうか。心から股をひろげて寝ていた?
考えこんでいると、自分のものではない衣裳の裾を踏んだ。
「姫様はまったく、色恋や妬み嫉みに鈍感なところは、前世より変わりませんね」
「トキ、居たの!」
当たり前のように、私の藁布団の上に膝を立てている。どうせくつろぐなら膝を崩せばよいのに。
トキは両手のひらを屋根裏にかかげた。お決まりの呆れたしぐさだ。
「ほかの側室のところへ快く送りだす姫様に、帝がどれほどやきもきしたことか」
「もう、やめてよ。そんなむかしのはなし」
「コンどのだって、苦渋の決断だったはずですよ。半月邸を離れるということは、その間姫様はほかの殿方で性欲を満たさなければならないのですから」
「やだ。そんなこと、するわけないじゃない。想像もしたくないわ」
「鬼やらいに備え、力を貯えるならば必要では。コンどのはその御覚悟があってこそ、心までよそ見しないでと、仰ったのでしょう」
なるほど。よそ見って、浮気のことか。
「まぁ姫様にしては、一途なお返事だったのでは。丸一日気落ちしていたコンどのが、鼻歌のような詠唱で、ご機嫌よく旅立たれましたからね」
顔が一瞬火照ったが、その熱はすぐにひいた。
コンは、いいんだ。心を奪われぬていどならば、ほかの男と交わるべきだと思ってる。
私は、コン以外とは考えられないのに。
「……帝の気持ちが、今になってわかるとは」
「どうなさいます? 人間の御姿になられるなら、ご衣裳お手伝いしますが」
「なるわよ。毎日の鍛錬はコンとの約束だもの」
私は心に妙な火をつけ、ふかふかの冬毛と訣別した。
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