ユキとコン

「ふぅ、なんとかなったね」


 コンが安堵の笑みを私へ向ける。ふくみのない、清々しい笑みだ。それなのに、私の胸をなでるのは、ときめきとは異なる不安心だった。


 玉藻姫が、陰陽頭おんみょうのかみの実子であるコンを知り得ていない理由──。

 わからない。

 直訴に来た人間の顔を、皇后ともあろうものが忘れるはずがないのに。

 ひどい表情をしていただろうか、コンは自分の手を二度見て、息をひいた。


「け、汚らわしい手のまま語りかけてしまい、申し訳ございません。すぐに洗って参ります」


 そう言って、再び藪のなかへ消えたコンは手を洗って戻るなりすぐに私を神山の邸へ帰し、またどこかへ行ってしまった。


 その日の夕ごはんは、コンの大好きな鮭ごはんだ。私は茶碗に鼻をつけぬまま囲炉裏の前で、帰りを待っていた。マサルさんが山菜汁の鍋をかきまわしながら言う。

 

「ユキ、朝から食べていないのでしょう? 昏明は先に食べて怒るような男ではありませんよ。お汁でおからだだけでも温めては」

「お目付け役ひとりに遠慮するなって、そういうこと?」

「ユキならば、この邸の誰にも遠慮はいりませんが。……そのお話し、聞かせていただいても?」


 頑なに黙っていても、みんなの信頼を失うだけだ。

 私は人間になれなくなったこと、それに対してのツクモの投げやりな助言を、マサルさんに話した。


「近ごろ、中宮様のお姿になられないとは存じておりましたが……、ふむ。ではユキは、昏明になにを遠慮していらっしゃるので?」

「それは──」


 頭のなかでは、はっきりと答えが出ている。

 でも、とてもじゃないが、声を大にして言えることじゃない。

 小猿は聡く、あっさりと言葉にした。


「夜伽に昏明の手を、煩わせたくないのですね」


 こくり、頷く。

 同時に、小猿はずる賢くもあった。


「しかし、それはお目付け役の務めであり、昏明もまた望むことですよ」

「望む? そんなわけない。コンには、想いびとがいるもの」

「ユキ以上に? それは初耳ですね」


 マサルさんは、少ない言葉で私の不安心を煽った。そして私はまんまとその罠にかかり、背後の気配に気付けなかった。


「コンには、好きな人がいる。心に決めた人がいるの。それなのに、私はコンを汚してしまったのよ」


 ゴトン、バサバサバサーッ。

 重い巻物や書物に混じり、束ねていない紙類が一面に散らばる。その一枚が囲炉裏の灰に落ち、火が移った。

 私はふぅふぅ、息で火を消しとめながら、喉から飛びでそうな心の臓を飲みこんだ。

 大事な資料が危うく消し炭になるところだった。ではなくて。

 背後に立つコンの気配が時をとめたように動かない。そして私は、振り返ることもできないでいた。お目付け役が大切な書物を落とすほど動揺しているのに、返す言葉がみつからない。出てこない。

 どうしよう、またコンを傷つけてしまう。


「クーン」


 情けのない鳴き声が床に落ち、追いかけるように、音をたてて涙がこぼれた。

 背中に、衣擦れの音が伝う。


「……私も初耳だ」


 コンは、床に散らばった書物を荒く押しのけると、懐から石灰石を取り出し、人ひとりぶん空いた床に魔法陣を描き始めた。

 息もつかぬ速さで、細かく丁寧に。

 コンの指先を辿っていたマサルさんの目が倍に広がった。


「今から行くので?」

「手前まで。すぐ帰ってくるから」

「承知しました。では、お帰りは囲炉裏の火の消えぬうちに」

「約束する。ユキ、行こう」

「え?」


 またどこかへ出かけてしまうのかと、思いこんでいた私は頓狂な声をあげた。

 私から遠くへ逃げるために描いていたのではないの。

 久しぶりにコンに抱き上げられ、鼻先を横へそらしてしまった。

 ああ、またやってしまったと、悔い入りながら目を開ける。


 その視界の先には、扇のような水の脈が広がっていた。


「こ、こは──」

「君の祖国、東の国だよ。私たちが立っているのは国境の山のなかだけど。神山とは違って、さすがに冷えこむね」


 コンの白い息が空に溶けていく。


「どうして」

「ふたりきりになりたかったから。頭を冷やしたかった。近いうちに来ることになるだろうし。あとは、なんとなく」


 コンの武者震いで足もとの故郷が揺れる。

 耳に触れた髪が少し湿っていた。


「コン、まさかこの寒いなか水浴びをしたの!?」

「うん。手以外にも汚れがついているかもしれないから」

「風邪ひいちゃうよ」

「だって、ユキに嫌われたくない」


 ぎゅう。腕に力をこめる。

 朱夏にはまだまだ及ばない力である。そう思うと、からだではなく胸が痛んだ。

 コンはそんな私の心をいたわるように言う。


「ユキに避けられて、自分を見失っていたよ。ううん、ユキの気持ちを考えることをやめてた。嫌われていると思うと怖くて。思慮深いあなたの性分を考えたら、すぐにわかることなのに」


 たてがみに頬をうずめる。生温かい息が毛のなかにこもった。


「ユキは、私の気持ちを尊重して、……遠慮して、人間になれなかったんだね」


 ちがう。もっとさもしく、歪んだ感情だ。

 コンに抱かれている自分がたまらなく嫌になり、抜け出そうとするが。


「やだ。もうぜったいに、離さない」


 なにか呪のような禍々しい気が腹まわりをくすぐる。見下ろせば、紅い光が帯のようにふたりを結んでいた。まったく、能力の計り知れなさは玉藻姫と同等といえる。

 逃げられないのならば、聞きたいことを聞けばいい。私はお目付け役に遠慮してはならないのだから。

 私は冷然と話しをそらした。


「今日思ったの。玉藻姫はどうして、あなたを覚えていないの。三年前、ご家族で玉藻の大殿へ直訴した日に、行きあっているはずでしょう」

「直訴……?」


 コンは思い出すように星空を見上げると、やがて「うわぁ」と一度、うめき声をあげた。


「あの日は女官のほうが内裏を歩きやすいと思って、朱夏に頼んで衣裳を貸してもらったんだ」

「女官?」


 たしかに後宮に住みこむ女官ならば、外を出歩いていても番兵に咎められることはないが。

 話しが読めず首を傾げると、コンのからだがもどかしさで揺れた。


「もうっ、なるべくなら忘れたままでいて欲しかったんだけど。私の幼名は黄昏たそがれだ。覚えていない? 朱夏の替え玉をやらされてた」

「替え玉? 黄昏って、黄昏の君? 朱夏の代わりに笛や琵琶を習わされてた」

「そう。それ、俺だからね!?」


 男を強調するように言う。

 黄昏の君は、朱夏が入内した四つのころからそばにいた姫君だ。朝から晩まで、どんなときも従えているので、いずれは朱夏のお付きの女房になるのだと思っていた。背格好と顔もよく似ていたから、身代わりなのかとも思った。実際に朱夏は苦手な習いごとがあると黄昏の君に身代わりを命じて、私の殿舎へ遊びに来ていた。

 首を横に触れない、大人しい姫君だったから、よく朱夏についていけるなぁと感心はしていたが。


「ではコンは何年も、姫衣裳を着て」

「言わないで! すべて、あのわがまま女御のご命令だ。このあいだも、髪を切る代わりに替え玉になれって、言われて。遊び半分に化粧させられて衣裳着せられて、弥勒様にバレたとき大変だったんだから!」

「衣裳? 朱夏の、衣裳を……、着たの? 化粧も」


 だからあの日のコンは、やけに妖艶であったのだ。

 朱夏の香りがしたのは、衣裳を取り替えたから──。


「朱夏は私の小袖を着て、その辺走り回って満足してたけど。まったく、ユキが留守にしていたことが不幸中の幸いだよ」

「私は……、見たかった」

「いやだよっ、もうぜったいに身代わりなんて──、ユキ?」


 はらはらと雪のように涙が落ちた。

 その様子をこの目で見ていたら、こんな穢れた想い、抱かなくて済んだのに。コンを疑うなんてこと、一欠片もなかったのに。

 

「どうして、泣いて……、まさか」


 目を合わせたくないのに、コンは私のからだごと自分のほうへひっくり返した。


「まさか俺が、あの朱夏のことを好きだとでも思ってたの」


 肯定するように目を泳がせる。

 コンは羽織りがずれてしまうくらい、肩を落とした。


「〜〜〜っああっ、もう! 勘違いも甚だしいよ! 俺はずっと朱夏の言いなりだったんだよ、今でも猿の親分にしか見えないよ!」

「猿の親分、って」


 あの美しい朱夏が?

 たとえに思わず笑ってしまう。

 

「真面目な話しをしているんだけど」


 なぜかコンは、頬をふくらませた。

 あー、かわいい。

 しまった。目を合わせてしまった。

 コンの浄らかな瞳に、私を映してほしくないのに。


「もういいや、ユキに隠しごとはなし。話すよ、ぜんぶ」


 そう言うコンの瞳は私だけを見据え、白色に染まった。


「ユキ、私はね。物心ついたころから、ずっと中宮様に憧れていた。宿命を背負い立つその姿も、朱夏を思い遣る優しさも。とても近しいのに、果てしなく遠い存在。私が姫衣裳を着続けたのは、あなたのそばにいられたから。それは、朱夏もよく知っていることだ」

「そう、憧れ」


 当然のことだ。帝の妻である私に、それ以上のお世辞はない。何百回と聞かされてきた私の心にはちっとも響かず、冷静に話しに耳を傾けられた。


「中宮様が身罷られてからのことだ。私は何度も同じ夢を見るようになった。神様たちが、御都を見下ろしてなにか話し合っているんだ。父上に相談したら、私になにか伝えたいことがあるのかもしれないと、神殿へ連れて来られた」

黄泉神おかあさまとの出会い?」

「太陽神も御座せられたよ」


 近時が以前、そのようなことを言っていた。太陽神と黄泉神の二柱から神託を受け、コンは悩まず黄泉の主宰神と契約したのだと。御都の陰陽師として、あるまじき選択だとも。


「中宮様をおきつねさまに転生させることまでは決まったんだけど、お目付け役の適任者が当時一〇歳の私しか居らず、頭を悩ませていてね。太陽神様は、私の成熟を待たずに直ぐにでも転生させるべきだと焦っていた。五年間、玉藻姫の暴挙を黙って見過ごさなければならないし、中宮様の御霊も煉獄の苦痛に晒され続けるから。……それでも、私は黄泉神様に跪くことを選んだんだ」


 私はあからさまに眉をひそめた。

 コンが太陽神と契約していれば、私はすぐに転生できたのだ。あのころはまだ陰陽寮に活気があったし、後宮に仕える陰陽師も健在だった。彼らの知恵を借り、私の異能をもってすれば玉藻姫の力をはやくに封じられたかもしれない。陰陽頭と陰陽博士の命だって救えたのではないだろうか。

 コンは、水桶をひっくり返すように泣いた。


「ごめんね? 熱かったよね、痛かったよね。五年も、放ったらかしにしてごめん」

「私はいいけど、五年間の犠牲者の数を思うと……黄泉神様は、それでよかったの?」

「死者を受けもつのは黄泉神様の務めだから。それに予知では、ふたつの選択肢のどちらを選んでも、犠牲者の誤差はなかった。だからこそ、悩まれていたんだって」


 つまり五年前に転生したところで、私は虐殺を防げなかったということか。五年間、コンをしっかりと育て上げてからという黄泉神様のお考えにもうなずける。

 それにしたって、陰陽寮やお父上のことを思うと──。コンを責めることなどできず、黙りこむ。


「ユキの言いたいこと、わかるよ。私だって炮烙や父上の犠牲を知っていたら、黄泉神様を選ばなかったかもしれない」

「……そうね」


 私の生返事に、コンが激しく首を横にふる。


「ううん、ぜったいに黄泉神様を選んでた。だって私が成熟するまでのあいだ、おきつねさまの身のまわりの世話は、兄弟子たちが担うことになるんだ。私はそれを黙って見ていなくちゃならない。────そんなのっ、ぜったいに、いやだった」


 コンの涙が冬毛に散り、点々と凍った。


「おかげで、誰もいなくなっちゃった。中宮様を、ユキを独り占めしたいだなんて、思ったから。薄情で、粘着な男で、呆れたでしょう? これが俺の本性だよ」


 話しの末尾に、ふたりを結んでいた呪を解く。


「……帰ろう。マサルが、待ってる」

「うん」


 次は、コンが私から目をそらす番だった。

 でも私はそれを許さずに、コンの頬を濡らす涙を思う存分、ねぶってやった。

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