おきつねさまの恋煩い
「最近眠れていないようやけど、大丈夫か?」
みんなで囲炉裏を囲う夕ごはん。ウサギに問われ、茶碗から顔を離した。泥のようなお粥を喉に流しこみ、晴れやかに笑う。
「夜行性だからかなぁ、からだを動かしたくなっちゃって。朱夏殿で寝てるから大丈夫だよ」
「ほんまか?」
ただ玉藻姫の気配が気になり熟睡はできていない。みんなの疑念を払拭するように尻尾をふった。
「それより、トキの集めた情報がまとまったから聞いて欲しいの」
あれからトキはツクモを乗り物にすることを覚え、毎日のように玉藻の大殿と近衛大将の私邸を行き来している。
わざわざ私邸を選んだのは、奥方に文にしてもらい、近衛大将へ届けさせるためだ。夫婦の文通は、常に帝に従う彼との連絡手段として、もっとも安全といえる。表情に出る大将相手ならば、なおさらのこと。
「近衛大将が把握している他国の情勢と玉藻姫の様子を照らし合わせ、わかったことがある」
御都の外は今、戦乱の序幕とも言える争いがすでに始まっている。
七カ国の滅亡により、ぽっかりと空いた広大な土地。その奪い合いによるものだ。
私の生まれ故郷、東の国はそのうちに含まれていない。東の国へ足を踏み入れたものは呪われ、命尽きる。大臣たちの死によりその噂はいつまで経っても生新しい。
七カ国もまたここ数年、呪いの懸念から放置されていたが、国を渡る行商人が無病息災で行き来する様は、野心家たちを奮い立たせた。
建国には天子の勅許と、近隣国の同意八割が必要だ。近衛大将の話しでは、帝はどうも適当に判を捺しているようで、勅許の重複というあり得ない実情から、争いが始まったらしい。そしてその戦で勝ち進めている者たちを内裏へ上がらせ、国決め合戦をしようじゃないかというのが、トキの聞いた玉藻姫の愚案である。
コンがお茶を淹れながら言う。
「三大国だけでなく、国中の強者が集うってことだ」
「国決め合戦に紛れて内裏を荒らされたり、皇族を暗殺されたらお終いだわ」
そもそも私はキツネの姿のまま、そのすべてのものたちを説得できるのだろうか。
胸にべっとりと不安がこびりつき、取れない。
近衛大将と接触した日。あれから私はなんとなく人間になることを避けてきた。だが半月が経ち、いざ重い腰をあげてみると、できないのだ。雷鳴の中宮に、姿を変えることができない。
最悪、玉藻姫へ呪をかけたらよいのだからと、高を括っていた自分をとびげりしたい気分だ。
みんなに気づかれぬ前に、人間になる方法を探さなくては。
「ユキ、聞いてる?」
「ごめん、お茶が美味しくて聞いてなかったよ」
「やっぱり。ネズミがね、左大臣の蔵書から大陸の文献をみつけてきてくれたんだ。ユキの部屋に運びこんであるから、後でいっしょに目をとおして──」
「それ、ほんとう!? ありがとう!」
私はお茶を飲みきると、猪のように部屋へ突進した。
ようやく玉藻姫の素性を辿ることができる。どんなに膨大な量でも今なら頭に詰めこめる自信があった。そもそも活字に飢えていたし、今は無心になって文字を読み尽くしたい。部屋の隅に重ねられた書物は願いどおり、私をとりこにしてくれた。
部屋にこもり、とっぷり夜もふけた夜半ごろ。コン、コンと、戸が遠慮がちに鳴いた。
その音のとおり、コンだ。
「ユキ、入っていい?」
「うん」
「やっぱり。あれからずっと読んでいるの」
「うん」
生返事を繰り返す。ネズミがみつけた大陸の文献は想像以上で、私の学んできた歴史よりも深く細かく、夢中になってしまっていた。
コンが、床に散らばる紙をひろい集める。
「ユキ、人間になったほうが読みやすいんじゃないの?」
「えっ! ──ご、ごめん。爪のあとついてた?」
痛いところをつかれて我にかえる。
「そうじゃないけど、めくりにくいでしょう」
「慣れたら、気にならないよ」
「散らばるけど?」
皮肉を言われながらも、笑ってごまかす。
心の内側では冷や汗が滝のように流れていた。
再び読み進めるが、今度は恐ろしいほど文字が頭に入ってこない。
「ユキ」
「うん?」
「あまり言いたくないんだけど、お目付け役として言わせてもらう。そろそろ人間になっておいたほうがいい。今日と、鬼やらいの前日。最低二回は」
「じゃあ、これ読み終わったら」
「ユキ、こっちを見て」
声色は優しいが、笑っていないのは見なくてもわかる。私が恐る恐る、文字から目を離すと、コンの真顔は鼻先まで近づいていた。
とっさに避ける。
「……そんなに、いや?」
しまった。コンを傷つけてしまった。
そう思いすぐに鼻先を戻すと、コンは頑是ない童のように、美しい顔をひしゃげさせていた。
「ちがう、ちがうの」
「私は帝の代わりになれない。それでも、ユキには人間になってもらわないと困るんだ。どんなにいやでも、頼れるのはユキしかいない。悔しいけど」
心は逃げだしたくてたまらないのだろう、藁布団に沈めていた膝が上下に揺れる。
「ユキに出した、今日のお茶。……あれ、白湯だよ。試すようなことをして、悪いことをしたと思ってる。でも、もう限界でしょう? お願いだ、私を頼って」
「白湯……? そう、白湯だったの。そうね、お茶の味もわからなくなっていたなんて、限界だわ。それでも、無理よ」
「私がいやなら、ほかの男を整えよう。帝でなくてはならないのなら、近衛大将に隙をつくってもらってでも──」
「帝は、いちばんいや」
私はどうして、誰よりも機微に聡いコンに、隠しとおせると思ったのだろう。現実から逃げることで、お目付け役としての矜持を傷つけてしまった。
「帝がいやって、どういうこと?」
たとえ元であろうと中宮が帝を貶すことなど、あってはならない。失望しただろうか。ならもう、どうでもいい。
茫然とするコンへ、言葉を丁寧に吐き出した。
「性欲の問題ではないの。人間になれなくなってしまったの。今まで隠していて、ごめんなさい」
「そんな、いつから」
「朱夏殿へ通うようになってから。……その、長く、キツネでいたからかもしれない」
「どうしてすぐに」
言わなかったの。コンは、そのひと言を飲みこんだ。
「ユキからは言いづらいよね。私から聞くべきだったし、忙しくても定期的に人間になる時間を設けるべきだった。お目付け役失格だ」
短くなった髪をわしゃわしゃと散らかす。
私はというと、とうに胸をつぶしてしまっていて、息を整えることに奮闘していた。
その様子を悟ったコンは、私を問いつめるようなことはしなかった。
「今までひとりで悩ませてしまってごめん。明日、黄泉神様に相談してみよう。今日のところは眠って。眠れないのなら、その、また以前のようにいっしょに寝ようか」
「……ううん。ひとりに、なりたい」
「わかった」
頭を撫でようとしたのだろう、掲げた手を宙でとめ、コンは部屋を出た。逃げるように私の耳が勝手にしおれたのだ。少し前までは、コンの温もりが愛おしくてたまらなかったのに。
「気にしていられない。今できることをやらなくちゃ」
キツネに部屋なんていらないと思っていたが、今は心底ホッとしている。
深呼吸を一度、読みかけの書物に前足をかけた。
どんなに辛くても、自分の蒔いた種は刈り取らなければならないのだから。
翌朝、疲れ目をしぱしぱさせて沼へ向かうと、ツクモが腕を組むように翼を胸で交差させて待っていた。器用だなぁ。
手前でコンが耳打ちをする。
「ごめん、私から先に伝えてる」
「うん。そうだろうと思ったよ」
視線が剣先のようにするどいよ。
「おはよう、ツクモ。心配が尽きないキツネでごめんね」
「まぁ、想定内や。黄泉神様もご満足……、ゴホンッ、予知しておられた」
咳払いする前に、満足って言った?
コンが目を輝かせる。
「では解決策があるのですね」
「ユキ次第や、なぁ?」
私へ剣呑なクチバシを向ける。
「ごめん、まったくわからないよ」
「じゃあこう言うたらええか。ユキは黄泉神の子、おきつねさまや。黄泉なら帝と同等、それ以上の存在であることを自覚しい」
「でも、ここは現世だよ」
「あいかわらず、ひと言多いなぁ。お目付け役ひとりに遠慮するなと、言うとるんや!」
ツクモのしゃがれ声でピシリ、氷にヒビが入る。
「……私?」 コンがキョトンとするが。
「すまんが、今日はこれで終いや。トキちゃんがはやめに玉藻の大殿へ向かいたいらしい」
耳のなかが静かだと思ったら、すでにツクモと行動を共にしていたのか。子離れのようで、なんだか寂しい。
「ユキは朱夏殿へ行って、昨夜にまとまったことをみんなに話し。それが今日の神託や」
「はい」
「昨夜に、って。まさかとは思うけどユキったら、寝ずに読んでいたの?」
「う、うん。でも、いいお報せがあるから」
「もう! 今日は眠るまで見張るからね!?」
めずらしく声を荒げる。
「ふわぁあ。順調、順調」
ツクモはあくびを一度、翼を広げ忙しなく空をとんで行った。
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