おきつねさまと近衛大将
新嘗祭の前日、近衛大将と行き合うべく、私はひとりで大内裏の外を歩いていた。
ご安心を。神託でおかあさまの許しを得ているし、耳のなかにはトキがいる。なんなら、目的地までツクモが空から案内してくれているから、気楽なものだ。なんとそのツクモとコンが、はやくも意思疎通を図れているというから驚きだ。コンは近時の教示を凄まじい勢いで吸収しているようで、それを眺めているだけの私は、感嘆と溜め息を吐くばかりである。
「はぁ。さて、どうしたものか」
今吐いたのは、困ったときに吐く溜め息だ。大将の奥方のご実家に着いたはいいが、見事な邸の造り。帝よりは容易く会えると思っていたのに、お邸は内裏にはない高い塀に囲われ、立派な門で閉じている。塀を上がれば、剣呑な番兵が邸のなかにも庭にも、うろついているのが見えた。キツネのままでは内へ入ることは難しい。
私は思いきって小豆に化けると、勝手口に積まれた米俵にしのびこんだ。うまくいけば、座敷の供物台へ移されるだろう。きっとそこに大将が居る。
推測はおおむね当たっていたが、彼の性格を考慮できていなかった。
「もう、また目をまわすまで呑んで」
「呑みすぎ食いすぎ、結構ー! あとは仲良く寝るだけー!」
「まだお日さんも沈んでませんよ」
祭祀はおざなりに、宴を盛大に。
人望が厚いのは良いことだが、この男ちっともひとりにならないのだ。私がちんまりと小豆におさまっているあいだ、大将は羽目を外し尽くしたうえに、奥方の手を引っ張って寝所へ潜りこもうとしている。
夫婦で抜けられては、私の出る幕がなくなってしまう。
私は仕方なくこの機に、キツネに戻った。
パーンッ、米俵がはじける。ご馳走の食べすぎだ。
「驚いたか、大将ー!」
「あら、かわいい……」
危惧していた奥方の悲鳴はなく、ぽかんと口を開けてつぶやいただけだった。なかなか肝が据わっている。大将も腰の鞘に手をかけはしたがすぐに離し、私へ訊ねた。
「もしやあなた様は、豊穣の神のつかわしめでございますか」
なるほど、そうきたか。
米俵から現れたのだ、そのままの設定でも構わないが。
「私は黄泉神より生まれし、おきつねさまよ。九尾の狐の悪行を封じるため、現世に参った」
あれ、言葉にするとカッコよくない!?
鼻を鳴らして胸を張る。
大将はその下で揺れるお腹を訝しむようにしてみつめた。ふくよかなおきつねさまは、あやしいかしら。
「黄泉神……、九尾の狐……? その、理解に乏しく申し訳ないのですが、なにゆえキツネが狐狩を」
「黄泉神とは、黄泉の国の主祭神。九尾の狐は御都の未来をおびやかす女狐のことです。彼女をとめたいのですが、黄泉神は現世に関与できません。そのためキツネにはキツネをと、私を遣わせたのです」
あれ?
では結局のところ、私ってつかわしめではなくて?
まあ、なんでもいいや。
自分に言い聞かせるように、説き伏せる。
「大将、あなたの力が必要なのです。どうか私と共に、御都を護ってはくれませんか」
大将は眉をひそめたまま、しばらく黙りこんだ。膝にのせていたアゴがガクリと、すべる。
あれ、寝てます?
「あの、……大将?」
「わりぃ、水頼む」
「はいな」
奥方が部屋を出た。と思ったら、大きな水桶を肩にかついで戻ってきた。
ざぶーん、大将の頭めがけて水桶をひっくり返す。あの、大丈夫? お米が水の勢いで流れていくよ、新穀を祝う新嘗祭だよ? まあ、私が散らかしたのだけれども。
大将はブルブル、と頭をふって水気を飛ばすと、今度こそ席を外そうとする奥方の肩を抱いた。
「まあ、お前も聞いていけや。いいでしょ? 中宮様」
「どうぞ」 ん?
私のこと、中宮と呼んだ?
人間の姿になっていないかお尻をのぞく。うん、立派な尻尾が生えているよ。
「私が中宮だって、なんでわかったの!」
「俺、こんなんだけど、ときの近衛大将だぜ? 大将! だなんて、気安く呼ぶのは中宮様だけだったからなぁ」
次には、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「いやまさか、ほんとうに中宮様だとは、はは」
中将にも見せたかった。そう言ってまた泣くので、いいかげんに酔いを覚さないかと、奥方に手拭いではたかれた。
「しっかりしてくださいよ。中宮様は、あんたに御都を護ってほしい。そう仰ってくださってるんですよ?」
「そこは怨霊に手を貸すな、ではないのですか」
「怨霊? そんな愚かな噂を信じるものなど、この御都に居る資格はありませんわ」
背筋をのばし、澱みのない声で言う。
奥方は、正道を生きてきましたと、描いたように整った顔をしていた。
「大将にはもったいないくらい、いい嫁さんだね!」
「そうでしょう〜、浮気ひとつする気も起きませんで」
「あら。トキどののこと、わたくしまだ許しておりませんが?」
ここにきて、面白い人物の名の登場だ。耳のなかが猛烈にむずがゆくなった。
「だからぁ、あの日は手合わせしてただけだって!」
「いい歳をした男と女が、朝まで手合わせ? そんな話し、誰が信じますか」
夫婦喧嘩が始まり間もなく、
「信じていただかないと困ります。わたくし、未通のまま生涯を閉じましたので」
トキは人間に戻り、またとんでもないことを言い出した。驚いた大将の顎がガクン、と外れたように下がる。
「トキ、ちゃん」
「久方ぶりでございます、近衛大将様」
それからトキは奥方へ指先を向け、頭を深く垂れた。
「近衛大将様の仰せのとおり、打ち合いをした日は勝敗がつかず長引いただけのこと。ですが、無配慮な振る舞いであったことは確か。奥方様に多大なるご心配をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「……あなたが、そう仰るなら」
「トキちゃあん、助かった」
奥方の目が一度はやわらぐも、また直ぐに大将をねめつけたので、大将は水を浴びせられたときよりずっと、酔いを覚ました顔をした。
「でも安心はしないわ。あなた自身が武術に心血を注いでいただけで、まわりからは実にやましい目で見られていたはずよ。この人含めてね、美しいもの」
「嬉しいお言葉、ありがとうございます。それでもご安心を。今はしがない、ノミですので」
また端的に言い捨て消えるので、このあとの"ノミトキ説明"が長引いてしまったこと、お分かりいただけるだろうか。あやうくそれだけで満足して帰るところだった。
改めて大将に訊ねられ、ようやく話しが戻った次第である。
「それで結局のところ、俺はなにをしたらいいんで?」
「御都とは言いましたが、突きつめると帝と四皇子の命を護っていただきたいのです。天子をなくせば、この国はつぶれてしまいますから」
「帝の護衛が、足りないと。しかし今の人員では──」
「注意すべき日があります。口に出さぬともお分かりかと」
「あぁ、はぁ。鬼やらいか。やれやれ、俺の命はあとひと月ちょっとか」
「命の補償はする。とは、言いません」
私は中将を、護れなかったもの。
「これは命令ではありませんから。国を護るか、自分を護るかは、あなたが決めて」
「あんた……」
大将は乞い願うような奥方の視線から顔をそらすと、肩に預けていた腕を下ろした。
なにか思うことがあるのか床に両手を滑らせ、まとまった米粒をやおらにすくい上げる。
「……ところで、中宮様はパンパンの米俵にどうやって入っていたんで」
「名は、ユキよ。小豆に化けていたの」
「小豆……」
ざざぁ。大きな手ですくわれた米粒が、水桶に満たされていく。
「歯……、歯だ。騎馬打毬で死んだ馬の足に奇妙な歯型があった。その足もとにあったのは、中将の首。中宮、いやユキ様は、中将の歯に化けておりましたね?」
「態度にしまりがないのに、頭はよく働くのね」
大将だけではない。奥方は話しの端で理解したようで、私へ手をついて床に叩きつけるように頭を下げた。
「うちの人を救ってくださったのは、あなた様だったのですね」
「私は馬の足を噛んだだけよ。毬門に毬を入れ、みんなを救ったのはほかでもない近衛大将」
私もまたふたりのはざまへ頭を伏せた。
「なにも九尾の狐を討てとは言っていない。天子の生命を護るためには、あなたの力が必要なの。お願いよ」
奥方はうなずいた。とうに、覚悟を決めた顔だ。だが大将は簡単には首を振らず、あとひとつだけと、訊ねてきた。
「一度救われた命、断る理由などありません。ただ、残念ながら俺の命はひとつしかない。だから教えてくれ。帝と四皇子。護るべき命が並んだら、どちらを選べばいい」
私は即答した。
「四皇子を」
大将は奥方としっかりと肩を並べ居住まいを正すと、私へ深く頭を垂れた。
「仰せのとおりに」
邸に居た通いの舎人の荷物にまぎれ、遠まわりをして馬寮へ戻ったのは、月が明るく真上に昇るころのことだ。
「疲れたぁ、それにしてもまさかトキが大将の浮気相手に疑われていたなんて、ねぇ。トキ……、トキ?」
キツネに戻り、ホッとひと息したところで、耳のなかにトキが居ないことに気づいた。
どうしよう! 忘れてきちゃった!
「トキどのは、近衛大将様とお話しがあるようで、自ら残られたそうだよ」
コンだ。見上げたら、ゆえなき紅顔が月と重なった。今日は一段と美しく、艶やかだ。
「あれ? 髪切った!」
「えへへ。気づいてくれた? 朱夏殿の女官に切ってもらったんだ」
あらわとなった眉を下げて、嬉しそうに笑う。
「トキどのは頃合いをみて、ツクモが迎えに行くことになってるから。ユキは先に帰ろう。聞いたよ、ずっと小豆に化けていたって、疲れたでしょう?」
「すごい、コン。ほんとうにツクモと意思疎通できているのね!」
「近時どののおかげだよ。さあ、おいで」
ひょい、と私をすくい上げる、その腕は以前よりずっとたくましくなっている。
「……コン、おろして」
「ご、ごめん! もしかして匂った? さっきまで、馬房の掃除をしていたから」
「ううん。それより私、太ったから動かないと。体力もつけたいし」
「そう?」
コンのからだから馬の匂いなどしない。
そしていつもの、私の大好きな香りも朱夏殿の香でかき消されていた。
朱夏殿で焚かれる香だけでなく、かすかに奥深くで香ったのは、
朱夏の衣裳に燻された、朝顔の香り。
「抱き心地いいから、そのままがいいんだけど。体力はつけたほうがいいね」
子どものように無邪気に笑う。
ねぇ、コン。その香りは肌を触れ合わせなければ、移らないのよ。人間のあなたには、気づきようがないのだけれど。
「さぁ、帰りましょう」
私も狐目を細め、笑い返した。
──おきつねさまは、前世とは比べものにならないほど、途方もない苦難を伴う。
おかあさま、私、もうすでに味わっているみたい。
その苦しみから逃れるように、想いにふたをするように。
私は、この日を境に人間の姿になれなくなってしまった。
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