朱夏殿

おきつねさまと朱夏殿の女御

 それからしばらく、騎馬打毬の悪夢が嘘のような、穏やかな日々が続いた。

 冬の山は案外忙しい。日中はネズミたちと木の実を探し集め、夜は狩りに走る。コンは舎人の務めを再開させる傍らで、トキに武術を習っているようだった。

 同時に私は、ほどほどに人としての生活を過ごした。

 キツネから人への変化は慣れてしまえば容易く、コンがいなくても自由に姿を変えられた。火と水に触れるしごとはコンとトキに禁じられたが、余った魚や芋を干したり、洗濯物をたたんだりして、人間らしいこともした。気づいたことは、運動能力は優れたままだが、とても非力だということ。ウサギの使う砧をもちあげられず、後ろにのけぞるほどだった。


 そして、人からキツネに戻るとき。

 こればかりは、自身の制御がうまくできない。ごはんを食べているとき、舌でごはん粒をさらえたいなぁと思っただけでキツネになることもあれば、好きなだけ食べても寝ても、戻らない日が続くときもあった。

 やっとキツネに戻れたと胸をなでおろす朝は決まって、コンの腕のなかにいる。


 後ろ暗い気持ちが雪崩のように押し寄せ、またそんな自分が、たまらなく嫌だった。



 冬も深く雪降り続くころ。キツネの姿でしめった紅葉をたどりながら沼へ行くと、ツクモがふみをくわえて待っていた。

 コンもまた待ちわびていたように、トキのくちばしから文を取ると、すぐに広げた。そんなに喜んで、恋文でも通わせているのか。


「そんな顔しないで。近時どのだよ」


 まったく、私はどんな顔をしてみていたのか。


「あの近時と、文のやり取りをしているの?」

「小亀から朱夏殿の様子を聞いてね。近々うかがえないか私から先に、送っていたんだ。味方は多いほうが良いでしょう?」


 私の専従の陰陽師であった近時は今、恩人である陰陽博士の遺志に従い、朱夏殿を守護している。朱夏殿は後宮のなかで唯一、側室と女官の現存する殿舎だ。近時は難しい男だが、味方につけることができればかなり心強い。

 さすがお目付け役、務めにぬかりなしである。コンは文の文字を目でたどると、唇を結んで笑った。


「ユキは、朱夏殿の中庭に居つく野良ギツネ。朱夏殿の馬を世話する私から、朱夏殿の女御が、餌やしつけの教えを受けている。うん、この設定ならいけそうだ。ユキさえよければ、今日にでも行こうと思うのだけど、どうかな」

「行きたい!」


 朱夏に会えると期待するだけで尻尾がぶんぶん横に揺れる。

 コンの務めの刻になると、私たちは予定どおりに馬寮へ転移した。


「あれ? 麒麟がいないね」

「ついに玉藻殿へ引き取られたんだ。ずいぶんと気に入られているみたい」


 白馬の麒麟もまた、つかわしめだ。近時が主人であるがコンの言うとおり、玉藻姫に気に入られ不自由を強いられている。

 まあ、ほとんどは私のせいだ。一気に心やましくなる。

 内から探りを入れられると言った私の言葉を、麒麟が鵜呑みにしてしまったかもしれない。殿内へ入れぬ馬が知り得られるものなど、ほとんどないだろうに。

 近時はこのことを知っているだろうか。

 ぼんやりと考えこんでいると、トキが耳のなかで言った。


「私はここでお別れしても」


 辺りを見まわすと、玉藻の大殿の象徴色である蘇芳色の飾りを腰につけた近侍が居た。彼の着物にくっついて忍びこむらしい。引きとめる理由がないので、私は快く送り出した。


「気をつけてね」

「また後ほど」


 トキと別れ朱夏殿の敷地へ入ると、根まわしされていた近侍により、中庭へと案内された。

 朱夏は御簾の外で縁に足を投げだし待っていた。来春には帝との夜伽が待っているのに、不用心というか頑是ないというか。私をみつけるなり、再会した日と同じように裸足で庭へとびおり、私を軽々と抱き上げた。ぐるしい。


「おねえさま……! 会いたかった!」

「げ、元気そうでなにより」


 私が朱夏に抱きつぶされている正面で、コンは深々と首を垂れ、無言で礼を尽くしていた。

 その様子に朱夏がニタリと笑う。


「お久しぶり。息災であったか? 私のかわいい黄昏たそがれちゃん」

「黄昏ちゃん?」


 はて、どこかで聞いたことがあるような。

 コンは、今まで見たことのないような険しい表情で、目を下三白眼にして朱夏を見上げた。


「これはこれは朱夏殿の女御様。かわらず男勝りのようで」

「あら。今となっては、あなたとは似ても似つかないほど女らしくなったでしょう?」

「女らしさを語るならば、まず沓をお履きになってからにしては。お気になさらぬほど足の裏が分厚いので?」

「なんですってぇ!」


 朱夏は私をぞんざいに放り投げ、袖をまくった。あらわれた腕のたくましいこと!

 ところでなにがはじまるの?


 見物していた女房たちの悲鳴を聞きつけ、四皇子、弥勒みろくの侍従があらわれた。


「なにごとですか。おや、女御様お気に入りの野良キツネではないですか」


 こちらはすんなりと猿芝居を始めた。なかなか食えない男である。


「おなかが空いたでしょう。これ、そこの舎人。餌はもってきましたか」

「はい、こちらに」


 コンが、モゾモゾと動く包み布をつきだす。

 女房たちはまた一段と高い悲鳴をあげた。

 

「新鮮なようでなによりですが、ここですと庭を汚してしまいます。北の対屋ついのやへ場所を移しましょう。君は庭からまわっておいで」

「畏まりました」

「弥勒様から果物かしをいただきましたので、みなさんは息を休めては」


 侍従からブドウの房を受けとると、女房たちは足音を踊らせ去っていった。朱夏殿に仕える女官はどこか愉快でよいなぁと見届けていると、朱夏本人もまた磁石のようにブドウに吸い寄せられていく。まあ、いいか。

 

「まったく、どこが女御だ。ぜんぜん変わってないじゃないか」


 コンは荒々しい溜め息をつくも、どこか嬉しそうだ。朱夏とコンに面識があることに不思議はないが、あまりに親しげでおどろいた。なにより、はじめてコンの素顔を垣間見れた気がする。ふたりの馴れ初めを訊きたいが、庭で舎人とキツネが立ち話もおかしいので、口を閉ざしたまま北を目指した。


 穴の空いた御簾をみつけ、先に内へと入る。

 

「なにゆえ穴を塞いでないの。人手が足りないの? 私へのあてつけ?」

「おや久方ぶりだと言うのに、ずいぶんとひねくれたことを。ユキが入りやすいと思ってそのままにしていただけですよ」


 そう言って、私を抱き上げたのは弥勒だ。

 私の両脇をつかんで──。


「弥勒……? あなた、どうして」


 まだらだった御髪が、金色に光り輝いている。それに、箸すら重そうにしていた彼が今、成熟した私のからだを抱き上げているのだ。私の心を読んだのか、平然と言い放った。


「まだ立てるほどではないのですが、感覚は少しずつ、芽生え始めています」

「まさか、天子の代替えが、近々あると」

「私が天子へ? まさか。同世代への譲位は、歴史上ありません」


 几帳の奥から声がする。


「しかしながら、着々とその兆しが現れております」


 近時だ。


「小御門昏明どのは、どちらに」

「外でお行儀よく待ってる」

「ほう。さすがだ」


 几帳の裾を上げて現れると、指で印を結び、床に手をついた。

 紅い紋様が内から外へと消えていく。


「ちょっと! 当たってたらどうなってたのよ。人を試すようなこと、やめなさいよね!」

「あなた様が不用心なだけですよ。人が触れたら血が沸き、熱にうなされます」

「なにそのひどい罠は!」

 

 安心しきって華麗に飛び込んだ私が恥ずかしいじゃない。


「どうぞなかへ」

「失礼仕りまする」

 

 コンは沓を脱ぎ揃えると、弥勒の足もとに跪いた。


「畏くも四皇子様に、ご拝謁の誉れを賜りましたこと、光栄の極みでございます」

「面をあげなさい。私たちは手を取り合うべき仲だ」


 恐る恐るあげた紅顔は安堵で頬を染めている。


「これはまた、美しいね」


 にやにやと私に話しをふらないでくださる?

 そうでしょう、美しいでしょう。私の自慢のお目付け役なの。

 鼻息を荒くする私のとなりで、近時が言う。


「その笑みの下にどんなたくらみを育んでいるのか。化けの皮を剥がすのが楽しみだ」


 ひどいことを言う!

 こんないじわるな男との仲を帝に疑われていたのかと思うと腹立たしくなってくる。それなのにコンときたら気にする様子もなく、さらに破顔した。


「藤森近時どのですね! お久しぶりと言うべきでしょうか。この時宜に機会をいただき、深く御礼申し上げます」

「ああ。この際だ、腹を割って話そう。中宮様は他所へ身を移していただけますか」

「ユキよ! どうして」

「あなた様に口を出されると、話しが長引きますので」

「なんですってー!」


 頭から湯気がたったので、コンの包み布を歯でひったくった。なかからネズミたちがとびだす。


「出番か」「出番やな!」

「うちらが昏明の良さを存分に知らしめてやるでー!」


 弥勒が目を丸くした。


「ユキの餌が、昏明どのの弁明を?」

「そのようで」


 私より口うるさいネズミを五匹も放ったのだ。満足である。

 侍従がぶーらぶらブドウをチラつかせてきたので、私は吸い寄せられるようにそちらへ向かった。

 朱夏のいる母屋だ。

 のけ者にされていい気はしなかったが、ブドウは美味しいし、女房たちにちやほやされて、私はすぐに機嫌をよくした。


「朱夏殿は明るくて、あったかくて、ほんとうに後宮の夏ね」

「から元気ですよ」


 朱夏が眉を下げて言う。


「みんな、こうして明るく振る舞っておりますけど、いつこの殿舎に厄災がふりかかるかわからない。日々、死を覚悟して仕えているのです」

「……そう」


 女房たちのおしゃべりが止み、なにごとかと庭を望めば、木の枝にモズが一羽で、高鳴きを奏でている。みんなうっとりと、聞き逃さぬように。


「今日で最後かと思えば、よりいっそうブドウも美味しく。鳥のさえずりさえも至宝に」

「そんな美しい覚悟……、いらないわ」


 私がさせない。そのためにも、朱夏殿の居場所と近時の力が欲しい。膝の上で強く握るこぶしに、ネズミが一匹のった。


「お話しが終わったの?」

「それが盛り上がって終わらんねん。ユキがとめて」 げんなりと言う。

「そう。殴り合いになってなければいいけど……」


 腰をあげると、朱夏も足音をさせてついてきた。


「おにいさまのところへ? 私もいっしょに行きますわ」


 そろりと北の対へ向かう。渡殿に結界が張られているような気がしたので、砂地に足をつけ、また庭からまわった。さして近づいてもない距離で、男たちの野太い嘆き声がして、朱夏とふたり、顔を見合わせた。


「酔っていらっしゃる?」

「それにしたって、あんなに剣呑な空気だったのに」

「なにをお話ししてるのかしら」


 朱夏は壁に耳をつけても聞こえないようだが、キツネの私には内容まではっきりと、よく聞き取れた。


「もう、やだ切なすぎるよー! 素直に気持ち伝えたら?」


 麒麟みたいな口調だけど、近時であってるよね? 弥勒が諭すように言う。


「いや気持ちを伝えたとして、今の関係が崩れてはお目付け役としての務めをまっとうできない。そうでしょう?」

「おっしゃる通りでございます」

「あーあー、どんな裏があるのかと疑ってたのにさぁ」

「ほんとう。ご両親のお話しには涙を誘われたけれど、黄泉神を選んだ動機が不純で、思わず笑ってしまったよ」

「若さゆえ、か。でもほかの男にその役は譲れないよなあ。俺がお前だったら? 黄泉神様を選ぶよ!」

「私もー!」


 パーンッ。

 三人で手を打ち合う音がする。

 はっきりとは聞こえたが、話しの内容がいまいちつかみとれない。わざと音をたてて邸へあがるが、特に焦る様子もなく、男たちは肩を組んで笑っていた。

 おしゃべりなネズミたちが呆れ顔で閉口している。


「ずいぶんと打ち解けたようで」


 照れ笑いをするコンの肩を、両側からポンポン、いい大人ふたりが叩く。


「おにいさままで、気色悪い。まるで恋の話しに花を咲かせる女子会みたいよ」

「ギクッ」


 およしなさい、朱夏。核心をつかれた弥勒の顔が真っ白よ。

 そうか、これが恋路というやつか。

 年上のふたりへ、コンが年ごろらしい相談をしたのだろう。

 しかしコンよ、神道が恋人ですと女官をふりまくっていた近時と、女ぎらいの引きこもり皇子になにを教わるというのか。


「それで近時、コンを信じてくれた?」

「はい。この近時、今まで抱いていた訝る心を払拭し、コンどのへ身命を投げだす覚悟でございます」


 そんなに?


「まったく、コンったらとんだ人たらしね。これから何人の女性が泣くことになるかしら」


 三人揃って仲良く首を横にふった。

 トキの迎えにネズミを行かせ、その日はつつがなく一日を終えた。

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