おきつねさまは悩ましい

「昨夜の夕ごはんの後片付けのことを言ったのですが? 姫様ともあろうおかたが、米つぶをふくとは失礼千万、無作法極まりない」

「トキが変なこと言うからでしょう。ごちそうさま、お茶を淹れて」

「おや、おかわりがとまってよかったですね。わたくしのおかげですね」

「ちょうどごちそうさまだったの! みてよ、このおなか」


 仰向けになって寝転ぶと、トキは即座に女房姿へと戻り、ふくれた腹を撫でた。


「く……っ、ふかふか、おきつねさまの姫様、悔しいけどかわい……っ」

「あー、気持ちいいー」

「まったく姫様は、こんなに愛らしいキツネになっても未だにぐうたらと」


 そう言いながらもトキがお茶を淹れて消えたので、さっそくいただく。


「……トキ? お茶に溺死してないよね?」

「しておりません。姫様じゃないんですから。お目付け役が帰られましたら、次こそは姫様からわたくしを紹介してくださいよ」

「はぁー、トキが淹れたお茶も美味しいー」

「聞いてます?」


 お茶をたしなんでいると、床に飛び散ったおかゆを拭きに、ネズミがわらわらと集まってきた。


「あーあー、またおかゆこぼして。おきつねさまに戻ったとたんに、これや」

「トキと同じこと言わないでよねー」

「あごに小豆ぶらさげてなに言うてんねん。しっかし、よう食べたなぁ」

「ふふんっ、なんとコンのぶんだけでなく、マサルさんのぶんまで食べてしまったのさ」

「胸を張って言うことではないね」


 まあねー。

 声のするほうへ顔を上げると、帰ってきたコンが腕を組んで見下ろしていた。


「聞いたよ。昨日、ユキが私の茶碗を割ったんだって?」 


 あー! それ、すっかり忘れてた!


「ごめんなさい!」

「慣れないことをするから。怪我しなかったからいいけど、もう無理はしないでよ」


 優しさからの厳しさか、ほんとうに怒っているのか、逆光で表情が読み取れない。


「神託は聞けた? その、ずいぶんと、はやかったから」

「そう? ツクモの話しぐだぐだと長かったし、禊もしてきたけど」

「コンったら、また水浴びしてきたの」

「だってたくさん汗をかいて? たか、ら」


 わぁー。逆光で見えなくてよかった。コンの顔色はきっと真っ赤に染まってる。

 なんの気なしに返した言葉の意味に、途中で気づいたコンは、その場に崩れるように座ると両手で顔をおおった。

 マサルさんが肩をポンと叩く。


「昏明のお赤飯は、別にとって置いておりますから」

「お赤飯……?」 小豆粥ではなくて。

「おふたり揃ってご成熟されたのです。ささやかながらお祝いにと炊かせていただきました」


 ブ──────ッ。

 私は禊で浄めたばかりのコンの後頭部を、お茶で濁したのだった。



 コンの髪を洗うついでに、私も同じ湯桶に入れてもらった。


「コン。きれい好きにしても、あんまり頭を冷やすと、風邪をひいてしまうよ」

「ユキこそ、からだは大丈夫なの?」

「そっ、それこそ杞憂というもの。私はおきつねさまよ」


 などと話していると、しびれを切らしたトキが姿を現した。

 コンが湯桶に髪をひたしながら、美しい目を皿にしている。


「どうもお目付け役どの。わたくし雷鳴殿に仕えておりました、女房のトキと申します。今は、ノミです」

「トキで、ノミ? え?」

「このたびはわたくしの主人が、元服前のあなた様にさかってしまい、誠に申し訳ございませんでした」


 そう言い切るとトキは、またぜいはあ、耳のなかへと消えた。本人にとっては息継ぎかもしれないが、言い逃げも甚だしい。湯桶に突っ伏したコンを救うため、私は怒涛のいきおいでトキについて語った。コンは羞恥にたえながらも、熱心に話しを聞いてくれたようだった。


「ノミの跳躍力に、前世からの武力、そしてキツネにも見えないからだに、聞き取れない声か。私たちにとって、これ以上の頼もしい味方はいないね」

「私もそう思う」


 コンが初耳ということは、トキの存在をツクモも知り得ていない。玉藻姫の千里眼にも映らないトキは、我々の強い武器となるだろう。


「トキどの、どうぞよろしくお願いします。私のことは、ぜひコンとお呼びください」


 改めて礼を尽くされ、動揺したのだろうか。耳のなかがすごくむず痒くなった。かきむしっていい?


「ふぁあ、お湯に浸かったら眠くなっちゃった」

「ユキ、昨日のことなんだけどね」

「……うん?」


 湯上がりに白妙にくるまり、うとうととしていると、コンがそのまま縁へ運んでくれた。


「コン、日向ぼっこなんてしたら、夜まで眠ってしまうよ」

「今日の神託は充分な休息。だから眠っていいんだよ。本能のままに」

「本能……に、抗うと、命とからだの結びつきが、弱まってしまうから?」 

「うん。だから昨日のことも、申し訳ないとか、思ってほしくないんだ。どうかこれからも、私を頼って」

「そっか。お目付け役の務め、か」

「そう。だから、かならずお目付け役の私に言って。ぜったいに、私だけだからね?」


 語気を強める。

 大丈夫だよ、そんな見境もなく男を襲ったりしないよ。


「わかった」

「ぜったい、だからね」

「うん。おやすみなさい」


 私は目をつむると、生まれてすぐに聞いた、おかあさまの話しを思い返した。お目付け役は、炊事に下の世話、ねかしつけもできる。さらりとその話しに組みこまれた下の世話の意味が、ここにきてようやく飲みこめた。


 本能のままに。


 一日食を断ち、動けなくなるのだ。

 魂とからだの結びつきには食欲、性欲、睡眠欲。きっと、どれが欠けてもいけない。まさに炊事に下の世話、ねかしつけ。コンが受けた教示そのものだ。コンは挨拶のとき、お目付け役の務めをすべて体得していると胸を張っていた。もうずっと前から、自分のからだを犠牲にすることを覚悟していたのだろう。

 自分の胸へ言い聞かせる。


 雷鳴の中宮。あなたってつくづく、災いのかたまりのような女ね。


 トキの言うとおり、コンはまだ元服前だ。本来なら来年の立春に見習いを卒業し、陰陽師として御都に仕えていた。あの容姿だ、宮中ではさぞもてはやされたことだろう。恋とやらのひとつやふたつ、経験して妻を娶り、しあわせな家庭を築いたにちがいない。

 私は、コンから家族だけでなく明るい未来まで、奪ってしまったんだ。


「姫様、眠れませんか?」

 

 からだが浮いたと思ったら、トキが私を抱き上げていた。久しぶりに見る、真正面からのトキの麗しい顔。

 が、ニタリと笑った。


「なにやら悶々と思い詰めていらっしゃるので、このトキが魔法のことばを唱えてさしあげましょう」

「魔法? トキったら、魔法も使えるの?」

「はい。トキはノミですから」


 へぇ。ノミって魔法つかいなんだぁ、知らなかったなぁー。

 いつも眉間にしわを寄せているトキが、目を弧にして笑った。なかなか貴重な表情だ。


「姫様、昨夜お目付け役どのに呪をかけたのですが、覚えていらっしゃいます?」

「ううん」

「やはり」


 すでに理性のたがが外れていたのだ。きっとあからさまに命じているのだろう。思い出したくもない。

 トキはノミに戻ると、耳のなかでささやいた。


「お気に召すままに」

「へ?」

「姫様の呪い言ですよ。お目付け役どのは、ご自身のお気に召すままに、姫様を組み敷いたのでございます」


 陽だまりがじんわりと白妙のなかにこもっていく。

 トキの魔法はちっとも、私を救ってくれなかった。

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