おきつねさまとトキ
握っていた手が離れ顔をあげると、もはや邸の庭でもなく、コンの部屋に立っていた。目を白黒させている間に戸を閉められる。
「おやすみなさい」
冷淡な挨拶とともに戸の隙間に細い光りが走った。
戸を開けられなくなる呪術だろうか。
感謝の言葉も伝えられぬままひとりにされ、藁布団に腰を落とした。
"拒絶"
そのひと言が頭のなかいっぱい、支配する。
身勝手な行いをした。それも人道に反する行為で、その場にいたすべての人間の命を危険に晒した。約束をやぶって球場へ立ち入り、飛ばされて。そのくせ反省の色のない態度──。断片を振り返るだけでも悔いることばかりで枕に顔をうずめる。
コンの香りがする。
すぅ、はぁ、深呼吸をくり返していると、耳もとでささやくような声がした。
「姫さま、はしたないですわ」
ハッと正気を取り戻す。
顔をあげ、上半身を起こし、立っても誰もいない。でも今たしかに聞こえたのだ。
女房のトキの声が──。
「トキ? トキ……! いるの?」
「姫さま、落ち着いて聞いてください」
ビクンと耳がはねる。
近くに存在する距離の声ではない、私のなかに居るような、そんな感覚をおぼえる。トキは私を思うばかりに守護霊として現世に残ったのだろうか。
トキがまたささやく。
「今から姫さまの右手にとまるので、つぶさないでくださいよ」
ぴょ──────────ん。
ちいさな声が遠ざかる。
「トキ? 右手? え?」
え、わかんない。まったくみえない。
恐る恐る右手をあげ、鼻先まで甲を近づけたが、白絹の肌にはシミひとつついていない。
あ、やだ。よく見たらちいさなゴミがついている。ゴマよりずっとちいさい点だ。雨に流されずに残ったのだろうか。ぺち。
ぴょ──────────ん。
また耳もとで声がする。
「姫さま、わたくしはつぶさないでと申し上げました。フリではないです」
「え?」
今一度右手を見やるが、先ほどのゴミが消えている。
「え? 今のが、え?」
「そうです。わたくしトキです」
「え? 待って? さすがに思考が追いつかない」
美しいトキが、舞うように屋根から屋根へと飛び移るトキが、後宮でただひとり、帯刀が許されるトキが、トキが?
「トキが、トキがゴミ虫になっちゃった────!」
胸がつねられたように痛む。
前世の業が深い私は、生まれ変われてもゴミ虫ていどだろうと思っていたら──。
「トキが、ゴミ虫に……」
絶望にさいなまれ、膝に頭をいれる。
ああ、なんてことだ。神よ、なにゆえこのような非情な運命を課すのか。
トキは淡々と否定した。
「ゴミ虫ではございません。あなた様のトキは、ノミになりました」
「ノミ……?」
「はい」
「ノミって、あの目に見えないゴミ虫の?」
「ゴミ虫ではございません、ノミです。しいて言えばノミはゴミ虫よりちいさく寿命も短く」
「知ってるわ。羽化すると、宿主の表皮を住処にひと月ほどで人生を終えるあの、ノミ……。ノミ?」
「はい」
ノミ──────────。
ふたたびコンの枕へ顔をうずめる。このまま眠ってしまえば夢で終わるかもしれないと、目をつむるがまったく眠れない。
「姫さま、眠れば現実から逃れられると思う癖おやめください」
「うん、トキだ。逃げを許さぬトキ。トキ……」
「はい」
ずっとあなたに会いたかったのに、どうして。
「なんでゴマよりちいさく生まれ変わってしまったのー、見えないし、触れられないし」
「わたくしの声は耳のなかに入らないと、おきつねさまでも聞こえませんし」
耳のなかにいるの!?
「無性にかゆくなってきた。指つっこんでいい?」
「紛いなりにも元中宮が、耳の穴に指を入れるなど言語道断でございます」
「ダメな理由、そこなんだー」
ああ、もう。ちょっとズレてるところまで可愛いトキだ。
「ほんとうに、どうしてノミに……怨霊? ノミにとりつく怨霊なの?」
「いえ。実はわたくし、転生先が決まっていたのですが、横入りされまして」
「うん、出だしからわからないよ。神さまが間違えちゃったの?」
「猿も木から落ちるといいますし」
「神さまは猿よりしっかりしていて欲しいなあ」
「同等の位に転生できるまでの間、好きなものに生まれ変わっていいと、言われたので」
「それもずいぶん自由な話しだなあ」
「ならば姫さまのお役に立ちたいと望んだまでです」
「それで、なにゆえノミに? もっとなにかあったよね」
「そこは神の思し召しでございます」
木から落ちる神さまの?
信じられないなあ。仰向けになり虚空をみつめる。屋根裏にすみつく蜘蛛がかさこそと影となって動いた。
「すみつく……、もしかしてトキは、私の衣裳のなかで生まれるときを待っていた?」
おきつねさまの私が、衣裳を必要とするそのときまで。
待ってノミって毎日卵をうみつけるのだから、もしかして私ノミだらけなのでは!?
パタパタと袿をはたく。
「姫さまご安心を。姫さまの御衣裳にわたくし以外の虫は、ダニひとつおりません」
「そ、そう?」 信じていい?
「お察しのとおり、姫さまがもとのお姿へ変化をはたされたそのとき、すぐにお役に立てるよう、わたくしはノミのサナギとなり、姫さまの御衣裳のなかでその時を待っておりました」
「ノミは動物の体温を感知してサナギから孵る。私が衣裳をまとったことで、トキは成虫になったと」
「はい。寿命は短いですが、このトキ。煩わしい成長過程はこのとおりすっ飛ばしましたので、かならずや姫さまのお役に立ちます」
「でもノミじゃん!」
「はい。ノミですが、お望みとあらば」
前触れもなく生前のトキが、今際の際に着ていた青磁色の単衣とくくり袴そのままの姿で、片膝をついて現れた。上から羽織る、裾を紅色に染めた白い細長が部屋一面にひろがり、花のようだ。
「トキ……、トキ……!」
両手をひろげ抱きつこうとしたが、パンパーンッと平手ではじき返された。
ひどい! そんな仕打ち、前世ではよくされてたけど!
トキは唇を紐でくくったように閉じたまま、なにを思ったかテキパキと私のお団子結びの帯をほどいた。衣裳をすべて脱がされ、素っ裸になったかと思えば、寝間着だけまた着付け直される。トキは寝間着の帯を、蝶々結びにきつく締め上げたところで消えた。
耳のなかからぜい、はあ荒んだ息が聞こえる。
「と、まあ、このように、息をとめている間は人に戻れます」
「わあ! すごーい! って素直によろこべないんだけど」
「こ、ここは空気がうすいので、地上では、もうすこし長くもつかと」
それにしても姫さま、寝間着くらいはご自身で着られるようになってくださいませ、などとトキがグダグダと説教を始めると長い。思い出話しにはつぼみもつかぬまま、ただただ叱られ朝日が昇ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます